多彩に旅案内
4月。長野県・野尻湖、映画監督・小津安二郎ゆかりの地・三重県松阪市、三重県桑名市
好評です毎週水曜日の「つり」
5月は山形・最上川支流のヤマメ、千葉・富津金谷沖のアジ、滋賀・琵琶湖のアユ、東京湾のアジ、神奈川・相模原市早戸川のニジマスを予定
<4月 ツルシのぶらり探訪 三重・松阪市 小津安二郎生誕120年 青春過ごした城下町歩く(記事を読む)>
4月の旅から紹介です。6日付は長野県・野尻湖を訪ねました。ナウマンゾウの化石発掘が行われている野尻湖畔や、野尻湖ナウマンゾウ博物館を巡りました。
13日付の三重県松阪市は、映画監督・小津安二郎ゆかりの地を探訪しました。今年は小津の生誕120年。小津が青春時代をすごした城下町を歩きました。
20日付は三重県桑名市を訪ねました。名物のはまぐりを満喫し、東海道唯一の海路・七里の渡し跡を訪ねました。
<3月 たび/街道を歩く/北国街道その五/埴輪並ぶ古墳に寄り道/矢代~善光寺(記事を読む)>
釣りが大好きな赤旗応援団による釣行記を、日刊紙の水曜付(新年から掲載の曜日が変更になりました)と、日曜版に月1回掲載します。日刊紙では、5月は、山形・最上川支流のヤマメ、千葉・富津金谷沖のアジ、滋賀・琵琶湖のアユ、東京湾のアジ、神奈川・相模原市早戸川のニジマスを予定しています。
日曜版では、イラスト付きエッセ「森越ハムの全力ゆる釣り日記」(毎月第4週)が好評連載中です。
<4月 カマガリ・アラカブ 大分 速吸瀬戸/小さなアタリに集中 底取り耐久レース(記事を読む)>
<3月 つり/オナガメジナ/東京・大島/根掛かり・バラし、苦労 久々40センチ超に喜び(記事を読む)>
釣りたよりは「赤旗」日刊紙の地方版に掲載しています。
◎ツルシのぶらり探訪 三重・松阪市 小津安二郎生誕120年 青春過ごした城下町歩く
今年は映画監督・小津安二郎(1903~63年)の生誕120年、没後60年です。
小津は東京・深川生まれですが、父方の小津家のルーツは、江戸時代に江戸で財をなした松阪出身の商人=松阪商人です。
小津が小学校4年に進級する春、子どもは環境のいい郷里で育てたいという父の考えにより、一家は三重県飯南(いいなん)郡松阪町(現・松阪市)に引っ越します。小津は10歳から19歳までの青春期を、松阪で過ごしました。
松坂城跡(松阪公園)にある、松阪市立歴史民俗資料館2階に、小津安二郎松阪記念館があります。
小津は松阪第二小学校から、宇治山田中学(現・宇治山田高校)に進学。中学卒業後、1年間の浪人生活を経て、飯南郡宮前村(現・松阪市)の宮前小学校で1年間代用教員を務めました。
記念館内には小津が描いた図画、作文、中学卒業記念写真、友人に宛てた手紙など、関連資料が展示されています。
小津が中学時代に書いていた日記は、松阪時代の小津を知る貴重な資料です。同館研究員の岩岡太郎さんが話します。「寄宿舎生活を送り、柔道部員だった小津は、青春を謳歌(おうか)しています。家の近くの映画館・神楽座に通いづめ、映画への憧れが高揚するのは、中学5年生(17歳)のころです」
小津作品の中でも評価が高い「東京物語」(1953年)。広島・尾道に住む母危篤の知らせに、大阪から駆け付けた三男(大坂志郎)は、死に目に会えず「あいにくと松阪の方に出張しとりましてな」とつぶやきます。「このせりふで松阪をマッツァカと松阪独特の発音をさせたのは、松阪に住んでいた小津ならではの演出です」と岩岡さん。
市街を見渡せる松坂城跡を歩いてみました。全国でも屈指の、壮大な石垣に目を奪われます。少年時代の小津の遊び場でした。裏門跡を出た先に、御城番(ごじょうばん)屋敷という武家屋敷が並んでいます。監督時代の小津が訪れ「ここでロケをしたいけれど...」と語っています。
松阪市在住で小津映画に詳しい、郷土史家・庄司佳伸さんを訪ねました。
「『秋刀魚(さんま)の味』(1962年)など同窓会のシーンが多いですよね」「小津自身、中学の同窓会にはまめに出席していました」―。「子役の起用も効果的ですね」「小学校の代用教員時代、生徒から"オーヅ先生"と呼ばれ慕われていた経験が生きているのでは」―。「小津と松阪」談議が弾みました。 ツルシカズヒコ
【交通】小津安二郎松阪記念館へは、JR・近鉄松阪駅から徒歩約15分
【問い合わせ】小津安二郎松阪記念館(松阪市立歴史民俗資料館)電話0598(23)2381
(4月13日付)
◎たび/街道を歩く/北国街道その五/埴輪並ぶ古墳に寄り道/矢代~善光寺
北国街道は、国宝の善光寺を経ることから「善光寺道」とも呼ばれました。今回は善光寺宿を目指します。
スタートは、しなの鉄道屋代駅。屋代駅前交差点を右折して10分ほど歩くと、旧道は須須岐水神社に当たり、かぎ状に曲がります。その曲がり角を直進して「森将軍塚古墳館」に寄り道してみます。
森将軍塚古墳は4世紀の中ごろ、有明山の尾根先端に築造された前方後円墳で、科野のクニ(現在の善光寺平南部)を治めた王の墓と考えられています。
前方後円墳は、近畿地方を本拠としたヤマト王権の勢力圏を示すシンボルであり、各地の豪族は王権に参加することで築造が許されました。墳丘や石室の大きさも豪族の実力で異なります。
「森将軍塚古墳は全長約100㍍。竪穴式石室は日本最大級の面積を持ち、壁面は赤く塗られていました。かなりの権力を誇っていたようです」と森将軍塚古墳館の学芸員・鈴木幹子さん。同館では実物大の、石室の精密模型が見られます。
いざ、古墳へ。これまで古墳は草木が生い茂る小山というイメージでしたが、目の前に見える古墳はピラミッドのよう。墳丘全体が葺石(古墳に敷く石)で覆われ、墳頂には円筒埴輪などが整然と並んでいました。
屋代駅近くの矢代宿に戻り、脇本陣跡を過ぎると松代道(北国脇往還)が分岐します。この道は、江戸から明治まで真田氏が治めた松代城下を経て、牟礼宿で合流します。
千曲川を篠ノ井橋で渡り、篠ノ井追分、丹波島宿を経て、犀川を越えると善光寺宿はもうすぐ。ここからは、長野市ガイド協会の小林正雄さんにご案内いただきました。
長野駅善光寺口を出て、末広町交差点を右折すると、善光寺まで一本道の表参道です。
「この辺りは、湯福川と裾花川の扇状地が重なり合っているので、意外とアップダウンがあります。今は地下水路になりましたが、支流も多く(昔は)幾つもの橋を渡って参詣したそうです」
そのうちの鶴ケ橋、かえり橋、駒返り橋は鎌倉期に善光寺を再建した源頼朝の伝説を持ちます。出世大仏で有名な十念寺と、かつての花街にある弁財天を詣で、大門交差点を渡ると3階建ての擬洋風建築が見えてきます。
「ここに、加賀藩の常宿だった本陣がありました。現在はレストランと結婚式場で旅館業は休業しましたが、皇族や伊藤博文、福沢諭吉など、数々の著名人が宿泊しています」
北国街道はこの先の善光寺交差点で右折しますが、せっかくなので善光寺を参詣。道中の安全に感謝して、先に進みました。
内田晃
【交通】森将軍塚古墳館へは、しなの鉄道屋代駅から徒歩25分。善光寺へは、JR長野駅から徒歩30分
【問い合わせ】
森将軍塚古墳館電話026(274)3400
長野市ガイド協会電話026(225)9911
(3月16日付)
◎カマガリ・アラカブ 大分 速吸瀬戸/小さなアタリに集中 底取り耐久レース
3月28日早朝、別府市の自宅を車で出発し、市内の新若草港に着いたのは、午前5時すぎでした。
6時の出航まで、時間に余裕があるので、周りの釣り客と雑談していたら、関東から来た釣り人が2組いました。私が「僕は家からここまで車で8分、(映画「釣りバカ日誌」の)浜ちゃん並みの近さです」と言ったら、笑いが返ってきました。
大分県と愛媛県を隔てる豊予海峡は、古くから「速吸(はやすいの)瀬戸」とも呼ばれ、早い瀬がぶつかり合う海域です。このあたりではアジやサバのほか、サザエやアワビ、ウニなど味のよい魚介類がたくさん捕れます。一方、岩礁も多く、この周辺を通る船にとっては、航行の難所になっています。 6時の出航後、釣り場の佐賀関沖に着いたのは、7時半ごろでした。さあ、釣り開始です。
最初は、水深約120~180メートル地点からカマガリ(クログチ)狙いです。2本バリの下にイカの短冊、上にサバ切り身を付けて、第1投です。ところが、持参したサオの調子が悪く、すっぽ抜けてしまい、仕掛けを回収するのに冷や汗が出ました。回収してみると、仕掛けの先にカマガリが1尾付いていました。
2投目、船のサオを借りて再開です。沈み瀬の上の流し釣りなので、根が荒く、水深も刻々と変わるので、底取りを適切にしないと、根掛かりしてしまいます。サオ先を1メートルほど上げて、また落としての繰り返しで誘いますが、なかなかアタリがありませんでした。
3尾を釣ったところで、次はアラカブ(カサゴ)を狙いました。ポイントも何カ所か移動し、遠くは愛媛県の佐田岬(俳人の坪内稔典さんの故郷)のそばまで行きました。アラカブのアタリは鮮明ではなく、仕掛けが落ちて底に着くと、すぐにコツコツと小さなアタリがあるだけで、ぐいぐいと引くことがありません。底に着いたアタリの瞬間を見逃さないように集中します。アタリがあれば、サオ先を立てて巻き上げると、その重みで釣れたことがわかります。小さな上下動だけの底取りを繰り返していると、仕掛けがだんだん出ていき、オマツリの原因にもなります。適時、一気に5メートルほど巻き上げて底取りをしなおすことが肝要です。このときにアタリがくることが多かったです。
午後2時に納竿(のうかん)。今回の釣果は、カマガリ31~38センチが3尾、アラカブ13~33センチ16尾でした。数えきれないくらい多くの底取りをしたので、釣行後は肩の筋肉が悲鳴を上げていました。
大分・別府夕暮
(4月19日付)
◎つり/オナガメジナ/東京・大島/根掛かり・バラし、苦労 久々40センチ超に喜び
3月11日、午後6時前に大島町のトウシキ海岸の浅場に入りました。この日は満潮が午後7時、南東の弱い風、波は比較的静かで、夜釣りには好条件です。
以前、クチブトメジナが釣れた向かい側の根際を狙い、仕掛けを振り込みました。ツケエのオキアミの頭が食われているので魚はいるようです。
このポイントは、浅場ですが、底が溶岩でデコボコがあり、魚の居場所としてはよいようです。しかし、油断をしてタナ取りを間違えると、仕掛けが引っ掛かり、とられる危険があります。この日も1時間近く狙いましたが、アタリはなく、根掛かりで仕掛けをとられました。
仕方なく別のサオで少し水深のある足元を狙いました。一応コマセは釣り場にきた時から、ときどき打っておきました。しばらくすると、ウキが静かに潜っていくのでアワセましたが掛かりません。同じことが何度も続き、フリーにした道糸が走るのを待ちました。 3分くらいして、道糸が走り、アワセましたが動きません。抵抗がすごく、何とか寄せ始めてタモに手をかけたとき、ハリが伸ばされていたため、バレてしまいました。
伸びたハリはペンチでなおし、また仕掛けを入れました。ほどなくウキが静かに潜り、底をはいずるように移動。道糸が走りだしました。アワセると確かな手応えがあり大きくは暴れませんが強く抵抗しました。何とか寄せてくると魚体が白っぽく見えました。イスズミか? と嫌な予感がしましたが、タモ取りしてよく見たら、肉厚の立派なオナガメジナでした。
久しぶりの40センチ超えのメジナに喜びが隠せません。続いて、36センチのオナガメジナが釣れたころ、ちょうど満潮時刻でした。
その後釣れたのは、20センチのアカハタの子1尾のみ(放流)でした。8時半まで粘ったものの、41センチと36センチのオナガメジナ2尾で終わりました。41センチのメジナは、重さが1・1キロありました。
翌朝メジナの腹を割いたら、よほど空腹だったのか、コマセが大きな塊となって入っていました。
今年のメジナ釣りは絶不調でした。水温の変化でここ数年ウミガメの大量移動などで海藻がなくなっているという話も聞きます。海藻が減るとメジナなどの居場所も変化します。2月にゴマサバ釣りに波浮(はぶ)の桟橋へ5回出て50尾ほど釣りましたが最後は釣果ゼロでした。
東京・磯辺努
(3月29日付)