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2023年3月20日(月)

歴史が示す「反共は戦争前夜の声」

 「反共は戦争前夜の声」―蜷川虎三氏が1950年4月3日、京都市円山公園音楽堂で開かれた京都府知事選の集会で語った言葉です。侵略戦争に突き進んだ戦前の日本と、発言時の日本の状況を踏まえたものです。

 蜷川氏は、同年2月まで吉田茂内閣の中小企業庁長官を務めていた経験から「政府の楽屋裏で吉田は何をしているかを、この目ではっきりと見てきた」「彼ら(吉田氏ら)は、その反動性をかくすために反共を叫んでいる。反共は内容のない声である。これは、戦争前夜の声である」(『蜷川虎三の生涯』)と述べたのです。

 当時日本は、米軍を中心とした占領軍の統治下にありました。占領軍の政策が日本再軍備へと反動化政策に転換(「逆コース」)したことを受けた発言です。

 中国大陸での内戦で、中国共産党の勝利が確実となり、蒋介石の国民党をアジアでの覇権の足場とする米国の計画は破綻します。48年1月、ロイヤル米陸軍長官は日本を「今後、東アジアに生じるかもしれない新たな全体主義的脅威に対する防壁」=“反共の防波堤”にすると演説しました。日本をアジアの最前線の軍事基地にしようという政策が進んでいました。

 GHQ(連合国軍総司令部)教育顧問のイールズは49年7月に新潟大学の講演で「共産主義の教授は大学を去るのが適当」と語り、その後各地の大学で同様の演説を行いました。後に本格化する「レッドパージ」の先駆けです。

 同年には、反共謀略事件である下山、三鷹、松川事件が起きます。三つの事件とも、あたかも日本共産党が犯行にかかわったかのように宣伝されました。

 蜷川氏の発言から2カ月後の6月、朝鮮戦争が勃発し、自衛隊の前身の警察予備隊の創設へと進みました。

蜷川氏の体験

 戦前、蜷川氏は、京都帝国大学(現・京都大学)で教壇に立っていました。蜷川氏が経済学部助教授になった28年には日本共産党員を一斉検挙した三・一五事件が起きています。事件直後に大学を追われた河上肇氏は、同大経済学部の所属。蜷川氏が河上氏を慕い京都大学への進学を決めたといわれています。同年には、25年につくられた治安維持法が大改悪され、侵略戦争に反対するなど「国体変革」を企てたものは死刑とされました。

 京都大学で33年に滝川事件が起こりました。自由主義的な滝川幸辰(ゆきとき)教授の刑法学説を、マルクス主義的だとして退職させられました。法学部の7人の教授が抗議して辞職しました。

 元海軍大将の井上成美(しげよし)氏は後年、「今でも悔やまれるのは、共産党を治安維持法で押さえつけたことだ。今のように自由にしておくべきではなかったか。そうすれば戦争は起きなかったのではあるまいか…」(『井上成美』)と述べています。戦前、文字通り命を懸けて侵略戦争に反対してきた日本共産党への弾圧が戦争拡大につながったことへの反省です。

ドイツでも…

 ドイツでもナチスの政権掌握の中で、共産党への弾圧から、やがて自由主義者を含む多くの人々への弾圧となり、戦争への反対意見を許さない状況がつくられていきました。

 その状況を示すマルティン・ニーメラー牧師の言葉が知られています。

 「ナチ党が共産主義者を攻撃したとき、私は多少不安だったが、共産主義者ではなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前より不安だったが、まだ何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた」(M・マイヤー著『彼らは自由だと思っていた』)

 ニーメラー牧師は、ヒトラーが教会を直接弾圧してきた段階で、牧師緊急同盟をつくり抵抗しました。ナチスはニーメラーを逮捕し、終戦の年まで解放しませんでした。(若林明)


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