2020年1月17日(金)
きょう阪神・淡路大震災25年 問われた「復興」
被災者は二の次 巨大開発が中心
死者6434人という被害を出した阪神・淡路大震災から17日で25年。政治と復興のあり方が問われ続けた四半世紀でした。(兵庫県・喜田光洋)
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「棄民政策」―震災後、被災者を一向に助けようとしない政治に対し被災地で使われた用語です。
とりわけ家も財産も失った被災者が切望した公的支援・個人補償について、当時の政府が「私有財産制では個人補償はできない。生活再建は自力で」と拒否したことが、長期にわたって被災者を苦しめました。
持ち家を失った人の約3分の1が、資金不足で自宅再建を断念。再建してもローンに苦しみ、震災前のローンも残る二重ローンは特に返済が多額でした。再建した住宅を手放す人が相次ぎました。
公的支援がないため被災者は融資に殺到し、返済の重圧を負いました。5万6000人が借りた災害援護資金(最高350万円)は2006年に完済のはずが、いまも3600件、52億円が未返済(昨年9月末)。4万7000件利用があった業者向け緊急災害復旧資金融資は、7100件余が返済不能に陥りました。
地域のコミュニティーが壊されたことも重大です。仮設住宅と復興公営住宅は、多くが郊外など被災市街地から離れた場所に建設。抽選で被災者はバラバラになり、孤独死の要因となりました。貧困や病気もあって孤独死は激増し、仮設住宅で233人、復興公営住宅では1172人(昨年末)に上ります。
さらに神戸市や西宮市などは借り上げ復興公営住宅で、借り上げ期間(20年間)終了だとして高齢の入居者を強引に転居させ、大問題になっています。
「創造的復興」掲げて推進
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では阪神・淡路の「復興」とは何だったのか。
震災の約2週間後。当時の神戸市長が「神戸空港は復興のシンボル。当然推進する」と宣言。避難所で寒さに耐えていた被災者はあぜんとしました。いまも語り継がれる出来事です。
国・自治体が投じた復興事業費約16兆3000億円のうち6割、9兆8000億円が、神戸空港建設、高速道路網建設、神戸港の最新鋭整備、新長田駅南などの巨大再開発、インフラ整備などからなる「多核・ネットワーク型都市圏の形成」という大型開発事業群に注ぎ込まれました。
兵庫県は国と一体に、「単に震災前の状態に回復するのでなく、『創造的復興』を」というスローガンを掲げました。震災を絶好のチャンスとして、以前から計画していた巨大開発を「復興」の名を冠して一気に推進したのでした。
巨大開発を中心に据え、被災者は二の次にされたのが復興の実態でした。
運動の力で支援法を実現
この下で、諸団体が結集する阪神・淡路大震災救援復興兵庫県民会議は震災直後から、被災者とともにたたかいを繰り広げ、支援策を前進させてきました。
県民会議は「住宅・店舗再建500万円、生活支援350万円の公的支援」を求め、126万人の署名を集め、2度にわたる1万人集会、約87万人が投票した公的支援実現「住民投票」運動―など大運動を進めます。
県内著名人48氏の公的支援アピールや、作家の小田実氏らの「市民=議員立法」運動なども相まって、初の現金支給となる被災者生活再建支援法が1998年5月に成立。阪神・淡路は対象外とはいえ、2度の改正で住宅再建に最高300万円支給が実現しました。
返済が困難な災害援護資金問題では相談会や政府・自治体交渉を重ね、月1000円からの少額返済や免除枠の拡大を実現。多くの被災者が救われました。復興公営住宅の戸数増と家賃低減なども実現しました。
日本共産党は、全国から救援に駆け付けるとともに、被災地でも国会でも公的支援・個人補償実現、被災者の生活再建に全力を挙げてきました。
国会では真っ先に個人補償を要求。他党との共同に努力し、97年に参院6会派39議員で全壊500万円などの支援法案を提出し、被災者生活再建支援法成立につながりました。
公的支援 たたかいが開いた
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阪神・淡路大震災救援復興兵庫県民会議 畦布和隆代表委員の話 いまは災害で公的支援は当然ですが、かつては大変な壁がありました。災害救助法には「生業に必要な資金の給与」が規定されていて現金支給できるのに、国は完全に否定し、県知事や神戸市長をはじめ被災自治体の首長も誰一人、求めなかった。
震災直後に公的支援があれば、間違いなくたくさんの被災者が立ち直れていました。政治の責任は本当に大きかったです。
実施しないなら運動するしかない。みんな必死でした。私自身、政府・国会要請で上京したのはおよそ30回に上ります。この県民会議の運動が支援法成立の起動力・推進力になりました。阪神・淡路に適用されず、対象や金額はまだまだ不十分ですが、支援法は日本の災害史でも大きな成果です。
たたかってこそ展望が切り開かれ、被災者の要求が実現する。これが25年間で一番実感していることです。