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2020年3月29日(日)

改定綱領学習講座(2)

改定綱領が開いた「新たな視野」〈2〉

志位委員長の講義

22日付

 一、綱領一部改定の全体像――党大会の結語での理論的整理

 二、中国に対する綱領上の規定の見直しについて

(本日付)

 三、植民地体制の崩壊を「構造変化」の中心にすえ、21世紀の希望ある流れを明記した

4月5日付予定

 四、資本主義と社会主義の比較論から解放され、本来の社会主義の魅力を示すことが可能に

4月12日付予定

 五、社会主義革命の世界的展望にかかわるマルクス、エンゲルスの立場が押し出せるように

三、植民地体制の崩壊を「構造変化」の中心にすえ、21世紀の希望ある流れを明記した

 講義の第3章に入ります。

 冒頭でお話ししたように、中国に対する綱領上の規定の見直しの何よりもの大きな意義は、それが綱領全体に三つの点で「新たな視野」を開くものとなったことにあります。

 その第一は、植民地体制の崩壊を、20世紀に進行した「構造変化」の中心であることを綱領に明記するとともに、その生きた力の発揮として21世紀の希望ある流れを明らかにしたことであります。

改定前の綱領の“二つの構造変化が起こった”という組み立てを見直した

改定前の綱領――「世界の構造変化」を二つの角度で整理

 2004年の綱領改定における世界情勢論は、どのような組み立てになっていたでしょうか。2004年1月の第23回党大会で行われた綱領改定についての中央委員会報告では、綱領の世界情勢論について、「世界の構造の変化」という角度から整理して、次のようにのべていました。

 「第一の角度は、植民地体制の崩壊が引き起こした変化であります。改定案は、二〇世紀の変化の第一に、植民地体制の崩壊をあげています。大事なことは、このことが、世界の構造の全体にかかわる大きな変化・変動を生み出したことであります」

 「第二の角度は、二つの体制の共存という関係からみた世界構造の変化であります。資本主義が世界を支配する唯一の体制だった時代から、二つの体制が共存する時代への移行・変化が起こったのは二〇世紀であり、そのことは、二〇世紀の最も重要な特質をなしました。しかしこの時代的な特徴は、ソ連・東欧での体制崩壊で終わったわけではけっしてありません。むしろ二つの体制の共存という点でも、新しい展開が見られるところに、二一世紀をむかえた世界情勢の重要な特徴があります。……それ(社会主義をめざす新しい探究)が、政治的にも、経済的にも、外交的にも、二一世紀の世界史の大きな意味を持つ流れとなってゆくことは、間違いないでしょう」

 こうした世界情勢論をのべていました。この整理は、改定前の綱領の組み立てにそくした解明でした。ここでのべられている「第一の角度」は綱領第7節の解説として、「第二の角度」は綱領第8節の解説として行われたものでした。

「二つの体制の共存」という世界論にピリオドを打った点でも画期的意義

 しかし、中国に対する綱領上の規定の見直しにともなって、「二つの体制の共存」という世界論・時代論自体がもはや成り立たなくなりました。

 そこで今回の改定では、綱領第8節から、そうした立場にたった記述――「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった」――、「二つの体制の共存」する時代という立場にたった記述を削除しました。

 さらに、第8節のソ連論の綱領上の位置づけを見直して、第7節の20世紀論を補足する節として――言い換えますと過去の歴史の問題として――、位置づけました。これらは、8中総の提案報告でのべた通りであります。

 私は、今回の綱領改定は、「二つの体制の共存」という長年続けてきた世界論に文字通りのピリオドを打ったという点でも画期的意義をもつものとなったと考えます。

 それは、“二つの構造変化が起こった”という、改定前の綱領の20世紀から21世紀にかけての世界史の見方も抜本的に見直すものとなりました。

20世紀の巨大な変化の分析に立って、21世紀の発展的展望をとらえる

 「二つの体制の共存」論にピリオドを打ったと言いますと、「寂しい」と思われる方もおられるかもしれませんが、こうした世界論の抜本的見直しは、決して「寂しい」話ではありません。それは、綱領に画期的な「新たな視野」を開くものになりました。

世界論の抜本的な見直しによって、世界の見晴らしがグーンとよくなった

 なぜなら、改定前の綱領の“二つの構造変化が起こった”という組み立てでは、今日では、21世紀の世界の発展的展望がよく見えてこないという問題がありました。

 第23回党大会の綱領問題についての中央委員会報告でのべた「第一の角度」の構造変化――植民地体制の崩壊は、21世紀に入って生きた力を大いに発揮しています。ここからは、大きな展望がよく見えてきます。しかし、「第二の角度」の構造変化――「二つの体制の共存」への移行・変化は、21世紀に入って「世界史に大きな意味をもつ流れ」をつくるものとはなりませんでした。こちらのほうは展望が見えてこないのです。

 「二つの体制の共存」という世界論にピリオドを打ったことによって、「第一の角度」の構造変化――すなわち、植民地体制の崩壊が、20世紀の「世界の構造変化」の文字通り中心にドンとすわることになりました。そして、21世紀を、この偉大な変化が、平和と社会進歩を促進する生きた力を発揮しつつある世紀になっていると、すっきりと描き出すことができるようになりました。世界の見晴らしがグーンと良くなった。これが改定作業を進めた実感であります。

改定の具体的な内容――人権の問題を補強し、21世紀の希望ある流れを明記した

 この問題にかかわる綱領改定の具体的内容としては、次の二つの改定を行いました。

 第一に、綱領第7節「20世紀の世界的変化と到達点」の改定としては、20世紀に起こった世界的な変化の内容として人権の問題を補強するとともに、植民地体制の崩壊を「世界の構造変化」と綱領上も明記し、20世紀に起こった三つの世界的な変化――植民地体制の崩壊、民主主義と人権の発展、平和の国際秩序――の全体について立体的に把握できるようにしました。

 人権の問題を綱領で補強したことは大きな意義をもちます。民主主義と人権は深い関係がありますが、違いもあります。民主主義というのは国家の一つの形態です。人権というのは国家と個人の関係の問題であり、国家権力から個人の自由、個人の尊厳を守るものが人権であります。この補強は、20世紀から21世紀にかけて国際的な人権保障の豊かな発展があり、人権問題がいよいよ重要な国際問題になっていることにてらしても、大きな実践的意義をもつものであります。

 国際的な人権保障の歴史的発展については、『綱領教室』の第6回(第2巻)で詳しくお話をしておりますので、参考にしていただければと思います。

 第二は、綱領に第9節を新設し、植民地体制の崩壊という「世界の構造変化」が、21世紀の世界にどのような変化をもたらしているのかについて、新たに書き下ろしました。「21世紀とはどんな時代か」についての総論をのべたうえで、核兵器禁止条約、平和の地域協力、国際的な人権保障の発展の3点で、21世紀の希望ある新しい流れを具体的に明記しました。

 こうして、中国に関する規定の削除によって、改定綱領は、20世紀の人類史の巨大な変化の分析に立って、21世紀の発展的展望をとらえるという立場を、すっきりと、かつ徹底的に貫くことができるようになりました。「人民のたたかいが歴史をつくる」というわが党がよってたつ世界観――科学的社会主義、史的唯物論の立場が、より明確な形で貫かれる世界論となったと思います。

一握りの大国から、世界のすべての国ぐにと市民社会に国際政治の主役が交代した

写真

(写真)2017年3月29日、ニューヨークの国連本部で開かれた「国連会議」で演説する志位委員長(遠藤誠二撮影)

 綱領第9節の内容に入っていきます。

 綱領第9節では、冒頭に、「21世紀とはどんな時代か」についての総論をのべています。「二〇世紀に起こった世界の構造変化は、二一世紀の今日、平和と社会進歩を促進する生きた力を発揮しはじめている」とのべるとともに、21世紀の新しい世界の姿について、総論として、次のように描き出しました。

 「一握りの大国が世界政治を思いのままに動かしていた時代は終わり、世界のすべての国ぐにが、対等・平等の資格で、世界政治の主人公になる新しい時代が開かれつつある。諸政府とともに市民社会が、国際政治の構成員として大きな役割を果たしていることは、新しい特徴である」

「小さな国」が堂々と活躍し、「大きな存在感」を発揮している

 この特徴づけは、国際情勢の分析とともに、日本共産党が取り組んできた野党外交の強い実感に裏付けられたものです。

 2017年の3月と7月、私は、日本共産党代表団の団長として、歴史的な核兵器禁止条約を生み出した国連会議に参加する機会がありました。世界の巨大な変化として二つの点を実感しました。

 一つは、国際政治の主役交代ということです。この会議を議長として歴史的成功に導いたのは、コスタリカの外交官――エレン・ホワイトさんでした。この会議で重要な役割を発揮したのは、メキシコ、オーストリア、コスタリカ、アイルランドなどの国ぐにでした。「小さな国」が実に堂々と活躍し、「大きな存在感」を発揮していたことが印象的でした。国家のグループとしては、非同盟諸国、東南アジア諸国連合(ASEAN)、中南米カリブ海諸国、アフリカ連合(AU)など、途上国・新興国が果たした役割は決定的に大きなものがありました。

 反対に、米国をはじめとする核保有大国は追い詰められ、米国の国連大使らは、会議をボイコットし、議場の外で反対のデモンストレーションを行いました。これはいかに彼らが核兵器禁止条約を恐れているかを、自らの行動で証明したものとして、私たちは参加していて逆に痛快な思いがしたものでした。この光景は、国際政治における主役交代を象徴的に示すものとなったと思います。

 「世界の構造変化」によって国際政治の主人公になった国ぐにが、核兵器大国の抵抗を抑えて、歴史的条約を成立に導いたのであります。

市民社会の果たしている役割が、かつてなく大きなものとなっている

 いま一つの実感は、市民社会の果たしている役割が、かつてなく大きなものになっているということです。とりわけ被爆者の証言は、会議参加者に衝撃的な感銘を与え、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)事務局次長の藤森俊希さん、カナダ在住の被爆者・サーロー節子さんの演説には、会場から割れんばかりの拍手がわき起こりました。「被爆者の訴えが世界を動かした」――これが国連会議に参加しての私たちの実感でした。3月の会議では、1日15分間、市民社会代表の演説の枠が設けられました。さらに会議では、インタラクティブ・ダイアローグ(相互対話)という討論方式もとられました。研究者、科学者、市民社会の専門家がパネリストとなり、その意見や提案をまず聞いてから、政府代表や市民社会代表が議論を深めるという方式です。日本からは長年核兵器廃絶に草の根から取り組み、国際的にもその役割が高く評価されている日本原水協の代表が、演説を行いました。私も、市民社会の代表の一人として、短いものですが、国連で初めて公式に演説をすることができました。

 7月7日、核兵器禁止条約が賛成122と圧倒的多数で採択された直後、多くの政府代表が市民社会代表への賛辞をのべました。エジプト代表がのべた次の情熱的な賛辞は、会議参加者の共通の思いだったと感じました。

 「この歴史的成果は、市民社会の積極的参加抜きにはありえませんでした。市民社会は通常、会議場の後ろに座り、発言は政府代表の後に許されてきました。しかし、核兵器廃絶への情熱的な献身は、最前列で敬意を表されるべきものです。その努力を称賛したい」

 核兵器禁止条約は、世界の諸政府と市民社会が、文字通り肩を並べ、協力してつくりあげた歴史的壮挙だと思います。この条約成立のうえで、広島・長崎の被爆者を先頭とする日本の原水爆禁止運動の果たしてきた歴史的役割は、きわめて大きなものがあります。そこには、21世紀の希望ある新しい姿が生きいきとあらわれました。改定綱領の記述は、こうした世界の激動的姿、そして私たち自身の体験を踏まえたものであるということを、強調したいと思います。

核兵器禁止条約――NPT(核不拡散条約)という枠組みの性格が大きく変わった

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(写真)核兵器禁止条約の採択が決まった歓喜の中で握手を交わす被爆者=2017年7月7日、ニューヨーク(池田晋撮影)

 綱領第9節は、21世紀の希望ある新しい流れの第一に、核兵器禁止条約の成立をあげています。

 核兵器禁止条約は「世界の構造変化」とどういう関係にあるのか。この問題について、私は、8中総の提案報告では、戦後の核兵器問題の国際交渉の歴史という角度から解明しました。さらに、大会の綱領報告では、昨年11月のローマ教皇の来日と発言という角度から解明しました。

 今日の講義では、「NPT(核不拡散条約)という枠組みの性格が大きく変わった」という角度からこの問題について考えてみたいと思います。

戦後の歴史に前例をみない差別的で不平等な条約

 1968年に調印され、70年に発効した核不拡散条約――NPTは、もともとは、アメリカ、ソ連、イギリスに加えて、フランス、中国が独自に核実験を行うという事態に懸念を募らせた米ソ両国が主導してつくったものでした。

 いまNPT再検討会議といいますと、“核兵器廃絶のための会議”というようなイメージがあり、日本からも5年ごとにこの会議が行われるニューヨークの国連本部に、たくさんのみなさんが出かけて成功のためにさまざまな行動をします。私も全国にうかがいますと、「志位さん、私もNPTに行ってきました」と言われる方によく出会います。

 しかし、もともとは、NPTという枠組みは、五つの大国だけに核兵器保有の権利を独占的に保障して、他の国は核兵器保有を禁止するという、戦後、前例をみない差別的で不平等な条約でした。

 日本共産党は、NPTがつくられたさいに、次のように糾弾しています。

 「『核拡散防止』という美名のもとで、非核保有国の核開発だけを禁止し、アメリカ帝国主義のいっそう新型の核兵器の開発、その核軍備の大拡張と核兵器の他国へのもちこみをはじめとする核戦略の展開に、なんら制限をくわえない不平等条約」(「赤旗」主張、1967年3月12日付)

 さらに、1995年にNPTが無期限延長されたさいに、わが党は、次のように厳しい抗議を表明しています。

 「無期限延長は、五つの核兵器保有国に核戦力の独占保有を永久的に保障するという、いわば、核兵器保有国の集団的な覇権主義とでもいうべき内容のもの」(1995年8月4日、不破委員長の国会議員団総会でのあいさつ)

 矛盾に満ちた差別条約への批判は当然の正当なものでした。しかし、それでも国際社会はこの条約を認めていきました。それはなぜか。条約第6条に「(核保有国は)核軍備縮小・撤廃のために誠実に交渉を行う」ことが明記されていたからです。このことを核保有国が約束していたから、世界はこの枠組みを認めていきました。

 しかし、核保有国は、この約束を裏切り続けました。核軍拡競争は1980年代中頃にはピークを迎え、一時は6万発を超える核兵器が蓄積されるまでに危機が深まりました。他方、新たな核保有国が広がりました。とくに1998年に、インドとパキスタンが核実験を行ったことは、NPT体制そのものの矛盾と破綻を深刻な形で示すものとなりました。

条約第6条を生かして「核兵器のない世界」に進もうという流れの発展

 こうしたもと、条約第6条を生かして「核兵器のない世界」に進もうという機運が広がります。非同盟諸国が中心となって、1990年代後半、国連総会で「期限を切った核兵器廃絶」を緊急の課題とする決議が採択されるなどの動きが発展しました。

 こうしたもと2000年のNPT再検討会議では、核保有国に「自国核兵器の完全廃絶」を約束させた最終文書を全会一致で採択しました。核保有国に条約第6条の約束を果たすということを認めさせたのです。

 さらに2010年のNPT再検討会議では――私たち日本共産党も代表団を派遣して成功のための活動を行いましたが――、「核兵器のない世界を達成し維持するために必要な枠組みを確立するための特別の取り組みをおこなう」ことを最終文書にもりこむという大きな成果を得ました。「核兵器のない世界」のための「必要な枠組み」とは何か。明示こそされていませんが核兵器禁止条約のことです。そのことは、再検討会議で議長をつとめたフィリピンの外交官・カバクチュランさんが、「2010年のNPT再検討会議は、影に隠れていた核兵器禁止条約を明るみに出して焦点をあてた」(2010年8月、さいたま市での国連軍縮会議第22回会合)とはっきりとのべていることです。最終文書採択の最後の局面で、核兵器固執勢力の抵抗があって、核兵器禁止条約という言葉こそ明示されませんでしたが、ここまで前進したのです。これが2010年のことでした。

 この到達点を力にして、2012年の国連総会で、「核兵器のない世界の達成と維持のための多国間の核軍縮交渉」を前進させるための「公開作業部会」を設立することが採択されました。ここで「公開作業部会」(オープン・エンデッド・ワーキング・グループ=OEWG)という交渉の枠組みが初めて登場してきます。

 それに続く2015年の5月、NPT再検討会議が行われ、この時は、中東非核化問題が理由で、最終文書案は採択にいたらなかったのですが、そのなかには、こういう一文が盛り込まれていました。「法的条文……を含め、第6条の完全な実施のための効果的な措置を特定・策定するための公開作業部会を設置」する。「法的条文」――「核兵器のない世界」のための法的な枠組みという言葉が初めて登場します。

 それを受けて、この年の2015年12月の国連総会で、「核兵器のない世界の達成と維持」のための「効果的な法的措置について実質的に取り上げる公開作業部会」の設置が決定されました。

 この総会決定にもとづき「公開作業部会」が設置され、議論を重ねていきます。そしてその結論として、2016年8月、「公開作業部会」は、「核兵器の完全廃棄につながる、核兵器の禁止のための法的拘束力のある文書を交渉するための会議」を、2017年に開催するよう、国連総会に勧告しました。

 これを受けて、2016年12月、国連総会は、「核兵器を禁止し、全面廃絶にいたる法的拘束力のある協定について交渉する国連会議」を、2017年3月と6~7月に開催することを決定しました。

 こうして国連会議が2017年に開催されました。そして、歴史的な核兵器禁止条約の成立が実現したのであります。

最悪の差別的な条約から、核兵器禁止条約という“宝石”がつくられた

 この全経過は、NPTという、戦後、前例を見ない差別的で不平等な条約のなかから、核兵器禁止条約という人類にとって“宝石”のような条約が生みだされたことを示していると思います。「世界の構造変化」の力、核兵器廃絶を求める世界の草の根からの人民のたたかいの力によって、NPTという枠組みの性格が大きく変わったのであります。

 よく「核兵器禁止条約はNPTと矛盾し、NPT体制を危険にさらす」という核兵器固執勢力からの攻撃があります。しかしことの真実は反対であります。核兵器禁止条約は、NPTのはらんでいた矛盾を、「核兵器のない世界」の実現という方向で解決するものにほかなりません。

 核兵器禁止条約は、核兵器廃絶に向けた一歩であり、核兵器固執勢力とのたたかいは続きます。世界の人民のたたかいの力で、ここまで相手を追い詰めてきたことに深い確信をもって、「核兵器のない世界」への取り組みをさらに発展させようではありませんか。

平和の地域協力の流れ――東南アジアとラテンアメリカの現状と展望

 綱領第9節は、21世紀の希望ある新しい流れの第二として、「東南アジアやラテンアメリカで、平和の地域協力の流れが形成され、困難や曲折を経ながらも発展している」ことを明記しています。

 綱領では、この二つの地域に共通する特徴として、紛争の平和的解決、大国支配に反対して自主性を貫く、非核地帯条約を結び核兵器廃絶の世界的な源泉となっている――この三つの点をあげています。

 私は、8中総の提案報告で、平和の地域協力の流れについて、「世界の構造変化」との関係で、その意義について概略的にのべました。ただ、大会の綱領報告では、報告の全体の時間も考えて、触れる機会がありませんでした。そこで今日は、少し踏み込んで、この流れについてお話ししておきたいと思います。

東南アジア諸国連合(ASEAN)の成功――「話し合いを続けること」

 綱領は、この二つの地域のなかでも、東南アジア諸国連合(ASEAN)を、次のように特記しています。

 「とくに、東南アジア諸国連合(ASEAN)が、紛争の平和的解決を掲げた条約を土台に、平和の地域共同体をつくりあげ、この流れをアジア・太平洋地域に広げていることは、世界の平和秩序への貢献となっている」

 わが党は、1999年に野党外交の新しい方針を決定した後、東南アジア――マレーシア、シンガポール、ベトナムを最初の訪問地にしました(団長・不破委員長=当時)。私自身、東南アジアを何度も訪問し、そのたびにASEANの実践に直接接し、平和の激動がこの地で起こっていることに、目を見張る思いでした。綱領には、わが党の野党外交の経験が、ここでも反映されています。

 ASEANがいかに大きな成功をかちとったかは、この地域を長期的・歴史的視点で捉えるとよくわかります。「ローマは一日にして成らず」ということわざがあります。ローマ帝国をつくるには何百年もかかった、大事をなすには時間がかかるということわざですが、私は、「ASEANは一日にして成らず」――長い歴史の積み重ねがあることを、今日は紹介したいと思うのです。

 1967年、ASEANが五つの国で創設された当時の東南アジアの状況は、まさしく「分断と敵対」に支配されていました。ベトナムは分断国家とされ、世界一の超大国・アメリカによる侵略戦争とのたたかいのさなかにありました。東南アジア域内の多くの国が、戦争、干渉、外交紛争、国境・領土紛争などを抱え、域内10カ国は分断と敵対に覆われていました。戦火の絶えない日々が続いていました。

 そのさなかに生まれたASEANが掲げた理念は、「平和、自由(外部からの独立)、繁栄。それを理解と協力で実現する」ということでした。マレーシアのマハティール元首相は、2010年9月12日、「しんぶん赤旗」のインタビューでこう語っています。

 「ASEANは結成当時、……戦争を避けるための国家グループでした。……互いに脅したり、侵略しあうのでなく、一緒にテーブルについて問題を解決するほうがよいと考え、ASEANは結成されたのです。ASEANはどんな問題でも、軍事的な行動をとらず、交渉を通じて解決するように努力してきました。……話し合いを続けることは、対立することよりもよいことです」

 たいへんにシンプルな言い方ですけども、私は、ここにASEANの精神の真髄が語られているように思います。

 どんな問題でも、「交渉を通じて解決する」、「話し合いを続ける」――この精神は、ASEANが1976年に結んだ東南アジア友好協力条約(TAC)によって、この地域の平和のルールとなり、さらにASEANと域外の諸国との平和のルールとして発展していきました。

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(写真)ASEAN事務局を訪問した志位委員長(右)と笠井衆院議員=2013年9月26日、ジャカルタ(面川誠撮影)

 私は、2013年、インドネシアのジャカルタにあるASEAN事務局を訪問したときのやりとりが、たいへんに印象深く残っています。私が「ASEANの成功の秘訣(ひけつ)は何ですか」と尋ねたところ、「話し合いを続けることです」という答えが返ってきました。聞きますと「ASEANは域内で、さまざまなレベルで年間1000回の会合をやっている」とのことでした。年間1000回といいましたら、1年で365日ですから、毎日平均して3~4回という頻度でいろいろなレベルの会合をやっていることになります。それだけの話し合いを続けていれば、相互理解が進み、相互信頼が進みます。そうなればたとえ紛争が起こっても戦争にはなりません。私は、この話を、大きな感動をもって聞きました。

 実は、ASEAN自体は強力な機構ではありません。TAC自体も強力な条約ではありません。それでも忍耐強く、「話し合いを続ける」ことによって、「おしゃべりの場にすぎない」などという中傷や批判を浴びながらも、“一挙に”というより、ほとんど“いつのまにか”、東南アジアを、「分断と敵対」の地域から、「友好と協力」の地域へと変貌させました。よくASEANについて、劇的に地域の情勢を変えたというような言い方をされることもありますが、劇的にというより、話し合いを積み重ねていったら、“いつのまにか”「平和と協力」の地域に変わっていったというのが、実態に近いのではないかと思います。

 ASEANは、今も大国からの干渉の動きや、さまざまな困難に直面していますが、それを乗り越えてしなやかに団結を保ち、発展をとげています。そして2019年のASEAN首脳会議が「ASEANインド太平洋構想」を採択したことは、注目すべき動きです。ASEANの事務局のあるインドネシアまで行きますと、東を見れば太平洋、西を見ればインド洋が見えてくる。両方が見えるのです。東南アジアで起こった平和の動きを、広大なインド太平洋全体に広げようという壮大な提唱を行っているのであります。

 わが党は、東南アジアで起こっている平和の流れに学んで、この流れを北東アジアに広げようと、2014年の第26回党大会で、「北東アジア平和協力構想」を提唱しました。考えてみますと、ASEANが実践している「どんな問題も交渉を通じて解決する」という精神は、日本国憲法第9条の精神そのものではないでしょうか。日本こそ、北東アジアに平和と協力の枠組みをつくる先頭に立つべきだということを、強調したいと思います。

ラテンアメリカ――逆行や複雑さを直視するとともに、長い視野で展望をつかむ

 ラテンアメリカの動きをどう見るか。ラテンアメリカについては、現在生じている逆行や複雑さを直視するとともに、この地域で起こっている平和と進歩の流れの発展を、長い視野に立ってつかむことが大切だと考えます。

 わが党は、この地域で対米自立と平和の流れが強まるもと、2011年、中南米カリブ海諸国共同体(CELAC)が設立されたことを評価し、注目してきました。

 しかし、この間深刻化したベネズエラ危機によって、この地域に分断がもたらされ、コンセンサス(合意)方式をとるCELACは事実上の機能停止に陥っています。ベネズエラ問題については、わが党は、2019年2月、声明「弾圧やめ人権と民主主義の回復を――ベネズエラ危機について」を発表し、「マドゥロ体制」によって引き起こされた人道危機、人権侵害を厳しく批判しました。その後も、危機は深刻化し、現在では481万人、人口の15%が国外に脱出するという事態に陥っています。この問題をめぐって、ラテンアメリカに分断が持ち込まれ、その前途は予断を持って言えない状況にあります。

 同時に、大局で捉えますと、この地域が「核兵器のない世界」にむけて、きわめて積極的な役割を果たしているという事実には、いささかの変わりもありません。すでにラテンアメリカの33の国のうち、28の国が核兵器禁止条約に署名し、17の国は批准しました。この大陸で生まれた世界で初めての非核地帯条約――トラテロルコ条約が成立して53周年になる今年、2月14日に発表された声明は、この条約がこの地域で50年以上にわたって核兵器禁止を保証し、核保有大国に順守されてきたことを強調し、核兵器の全面的な廃絶を実現する決意を表明しています。私も、核兵器禁止条約の国連会議に参加したさいに、ラテンアメリカの国ぐにが、政権の政治的立場の違いを超えて、この点では、強固にまとまって行動していたことを非常に鮮明に記憶しています。

 また、かつてこの地域は、「米国の裏庭」と呼ばれていました。アメリカは、自由勝手に侵略や干渉をしたり、CIAの工作で政権を転覆するなどを、日常茶飯事のようにやっていました。こうした「米国の裏庭」と言われた地域から、自主的な国づくりへの転換という流れも変わりません。だいたい核兵器禁止条約の推進そのものが、米国の脅しに屈しない自立の流れを示しています。ラテンアメリカにおいて、「保守政権」「右派政権」=対米従属という図式は、もはや過去のものになっているのです。政権の政治的立場の違いを超えて、対米自立の流れは地域全体が共有する流れとなっています。

 さらに、もう一つ言いますと、先ほどのべたベネズエラ問題をめぐって、トランプ大統領がしばしば「すべての選択肢がテーブルの上にある」と、軍事介入を選択肢の一つとするとのべたことに対して、中南米カリブ海諸国は、これも政権の政治的立場にかかわりなく、軍事介入をきっぱり拒絶し、軍事的な解決はありえないと繰り返し強調しています。米国による軍事介入を排し、地域の問題を自分たち自身の手で平和的に解決するという流れも、政権の政治的立場の違いを超えて共有されています。

 これらのこの大陸で起こっている流れの大局的な認識のうえにたって、改定綱領には、平和の地域協力の流れの一つとして、「ラテンアメリカ」を明記しました。

「平和の地域協力の流れ」と「平和の地域共同体」――発展段階の違いを考慮して

 ただその発展段階は、先ほど紹介したASEANとはだいぶ異なっています。ASEANの方は長年にわたる努力の積み重ねによる“年季”が入っています。ラテンアメリカの方は、まだいろいろな逆行や試行錯誤、複雑さをはらんだ動きです。その発展段階の違いは区別して見ておく必要があります。

 綱領の書きぶりも、東南アジアとラテンアメリカをひとくくりでのべる場合には、「平和の地域協力の流れ」という言い方をしておりますが、ASEANを単独でのべる場合には、「平和の地域共同体」という言い方をしております。そのように、綱領の表記の面でも書き分けてあるわけですが、発展段階の違いを見ながら、同時に、この二つの地域で起こっている流れには、共通する平和と進歩の法則的方向があらわれていることをつかむことが、重要だと考えるものです。

 私は、8中総の提案報告で、ラテンアメリカについて、「わが党は、この大陸で生まれた平和の地域協力の流れが、ベネズエラ危機をのりこえて発展することを、心から願う」と表明しました。こうした立場で、この大陸での平和と社会進歩への動きを、長い視野にたって見ていきたいと思います。

国際的な人権保障の発展――ジェンダー平等について

 綱領第9節は、21世紀の希望ある新しい流れの第三として、国際的な人権保障の新たな発展について、次のように明記しました。

普遍的な人権保障の取り決めを土台に、さまざまな分野で国際条約・宣言が

 「二〇世紀中頃につくられた国際的な人権保障の基準を土台に、女性、子ども、障害者、少数者、移住労働者、先住民などへの差別をなくし、その尊厳を保障する国際規範が発展している」

 ここでのべている「二〇世紀中頃につくられた国際的な人権保障の基準」とは、1945年の国連憲章、1948年の世界人権宣言、1966年の国際人権規約など、普遍的・包括的な取り決めのことであります。それを土台にして、さまざまな分野で差別をなくし、尊厳を保障する一連の国際条約や宣言が採択されてきました。綱領のこの規定は、国連自身の次のような説明を踏まえたものです。

 「この法体系(人権法)の基礎をなすのが、総会が1945年と1948年にそれぞれ採択した『国連憲章』と『世界人権宣言』である。それ以来、国連は漸次人権法の拡大をはかり、今では女性、子ども、障害者、少数者、移住労働者、その他の脆弱(ぜいじゃく)な立場にある人々のための特定の基準を網羅するまでになった。こうした人々は、それまでの長い間多くの社会で一般的であった差別から自分自身を守る権利を持つようになった」(「国際連合広報センター」)

 こうした発展を生み出した力は、全世界の草の根からの運動にありますが、植民地体制の崩壊という「世界の構造変化」は、この面でも大きな積極的影響を及ぼしていることは、8中総の提案報告でのべた通りであります。

ジェンダーを正面から真剣に議論した初めての大会に

 そのうえで、改定綱領は、ジェンダー平等について、次のように明記しました。

 「ジェンダー平等を求める国際的潮流が大きく発展し、経済的・社会的差別をなくすこととともに、女性にたいするあらゆる形態の暴力を撤廃することが国際社会の課題となっている」

 さらに改定綱領は、綱領第4章の「民主的改革の主要な内容」のなかで、「ジェンダー平等社会をつくる」、「性的指向と性自認を理由とする差別をなくす」ことを新たに明記いたしました。

 この改定は大きな積極的反響を呼んでいます。党大会の討論でも、ジェンダーが正面から論じられました。大会の結語でものべたように、第28回党大会は、「人類の進歩にとってきわめて重要なこの問題を、正面から真剣に議論した初めての大会となったという点でも歴史的大会になった」と言えると思います。

 8中総の提案報告では、国際的な人権保障の発展という角度から「ジェンダー平等を求める国際的潮流の発展」についての概略的な解明を行いました。大会の綱領報告では、全党討論を踏まえて、いくつかの解明を行いました。今日は、それらを踏まえて、さらに、「そもそも論」的な問題を突っ込んでお話ししたいと思います。

ジェンダーとは何か――「政治的につくり、歴史的に押し付けてきたもの」

 第一は、ジェンダーとは何かということです。

 大会の綱領報告では次のようにのべました。

 「ジェンダーとは、社会が構成員に対して押し付ける『女らしさ、男らしさ』、『女性はこうあるべき、男性はこうあるべき』などの行動規範や役割分担などを指し、一般には『社会的・文化的につくられた性差』と定義されていますが、それは決して自然にできたものではなく、人々の意識だけの問題でもありません。時々の支配階級が、人民を支配・抑圧するために、政治的につくり、歴史的に押し付けてきたものにほかなりません」

 ここで言う「『女性はこうあるべき、男性はこうあるべき』などの行動規範や役割分担」とはどういうことか。「行動規範や役割分担」というと、難しいと思う方もいらっしゃるかもわかりませんが、たとえば、「男は外で働き、家族を養う。女は家を守り、家事をやる。これが当たり前」。これはジェンダーです。それから、「男の子はやんちゃで活発な方がいい。女の子はおしとやかでおとなしいほうがいい」。これもジェンダーです。それから、「結婚したら男の姓になるのが当たり前」。これもジェンダーです。さらに、「女は“女ことば”を使うのが当たり前。丁寧な言葉遣いをしなくちゃだめ」。これもジェンダーです。

 いわば、シャワーのように日々降り注ぎ、呪文のように繰り返されて、私たちの行動のあり方、価値判断、役割分担などを、無意識のうちに左右し、縛っている。そういう意味で、「社会的・文化的につくられた性差」と言われているわけです。

 それではこれは自然現象か。そうではありません。さきほど引用した綱領報告の一節の後半では、ジェンダーについて、「それは決して自然にできたものではなく、人々の意識だけの問題でもありません。時々の支配階級が、人民を支配・抑圧するために、政治的につくり、歴史的に押し付けてきたもの」だとのべています。ここが大切なところだと考えます。

日本のジェンダー差別の根っこ(1)――明治の時期に強化された差別の構造

 「自然にできたものではない」ということは、日本でジェンダー差別がどうしてつくられてきたかを歴史的に考えてみると、よくわかると思います。私は、そこには、政治的、歴史的な根っこが二つあると思います。

 一つは、明治の時期に強化された差別の構造です。

 1890年につくられた「教育勅語」というのがあります。天皇が、当時、「臣民」とされていた国民に対して、「勅語」という形で、さまざまな「徳目」を命令の形で言っているものです。ここには12の「徳目」が列挙されていますが、すべての「徳目」は、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」――“ひとたび重大事態があれば天皇のために命を投げ出せ”というところにつながってきます。国民を戦争に動員する恐るべき役割を果たしたもので、戦後、排除・失効となったものです。

 そうした12の「徳目」の三つ目に、「夫婦相和シ」とあります。これはどういう意味か。ただ単に「夫婦仲良く」という意味なのか。そうであったとしても、それを天皇に言われたくはありません。しかしこれはそういう意味ではありません。公式の解説書『勅語衍義(えんぎ)』にはこうあります。

 「夫たるものは妻を愛撫(あいぶ)してもってその歓心を得べく、また妻たるものは夫に従順にして、みだりにその意思にもとらざらん(逆らわない)ことを務むべし」

 「妻はもともと体質孱弱(せんじゃく=弱いこと)にして、多くは労働に堪えざるものなれば、夫はこれを憐み、力を極めてこれを助け、危難に遭いては、いよいよこれを保護すべく、また妻はもともと知識才量多くは夫に及ばざるものなれば、夫が無理非道に言わざる限りは、なるべくこれに服従してよく貞節を守り、みだりに逆らう所なく、始終苦楽を共にする」

“妻は夫に逆らうな”――これが「夫婦相和シ」の意味だと、公式に解説していたわけです。「夫婦仲良く」どころの話ではありません。「教育勅語」でこうした男尊女卑の思想が、徹底的にたたき込まれました。

 続いて1898年に制定された旧「民法」によって「家制度」がつくられます。戸主――家長が、すべての権限をもち、結婚も、どこに住むかも、家長の許可が必要とされました。妻となると「民法」上の「無能力者」とされ、夫の許可なしには経済活動もできない、訴訟もできない、労働契約もできないなど、一切合切ができなくなりました。夫婦同姓を強制する仕掛けも、旧「民法」の「妻は婚姻に因(よ)りて夫の家に入る」で定められたものであります。こうして徹底した家父長制が押し付けられました。当時の日本は、天皇絶対の専制国家でした。この専制国家を「一大家族国家」とみなして、天皇は国全体の家長であり、国民は天皇の赤子(せきし=子ども)とされました。そういう「一大家族国家」を末端で支えるものとして「家制度」が位置づけられたのです。

 続いて1907年につくられた「刑法」にも、家父長制が深く刻まれました。妻は「夫の財産」のようにみなされ、強姦(ごうかん)罪は財産犯のようなものと考えられました。つまり、強姦罪によって権利を侵害されるのは女性でなく、その夫や父だったのです。女性は、貞操を守ることが義務であり、貞操を守るために必死に抵抗するのは当たり前であり、それを凌駕(りょうが)する暴行や脅迫があった場合にのみ、犯罪が成立するとされました。必死に抵抗しなかった者は法律による保護に値しないと考えられたわけです。

 こうした男尊女卑の構造は、戦後、日本国憲法の成立のさいに、本来ならば、一掃されるべきものでした。ところが戦後も引き継がれ、いまなお民法では夫婦同姓が強制され、刑法で強姦罪が強制性交等罪に変わっても、この犯罪が成立するためにはなお「暴行・脅迫要件」が必要とされています。明治時代に強化されたジェンダー差別の根は、今なお断たれていないのです。

 それだけではありません。根を断たないどころか、戦前につくられた「家制度」こそが良かった、この時代こそが「美しい国」だったとして、この時代に逆行させようとする勢力が政権についている。これが今日、日本におけるジェンダー差別をひどくしている、ということを強く告発しなければなりません。

日本のジェンダー差別の根っこ(2)――戦後、財界主導でつくられた新たな差別の構造

 二つ目は、戦後、高度経済成長の時期以降に、財界・大企業主導でつくられた新たな差別の構造であります。

 この時期に、財界・大企業が押し付けた価値観は、「男は、24時間、企業戦士として働くのが当たり前」――どんな長時間・過密労働も、単身赴任も、家庭を顧みることなく働くのが男の役目だと強調されました。

 そして、そういう男を支えるために、「女は、結婚したら退職し、一切の家事をやるのが当たり前」――専業主婦になって、炊事、洗濯、掃除、子育て、介護、一切の身の回りの世話を行うのが女の役目だと強制したのです。

 こうした価値観、役割分担の押し付けによって、男性も女性もひどい搾取のもとにおいていきました。利潤第一主義をあらゆるものに優先させて、財界・大企業が、戦後、ジェンダー差別の新たな構造をつくっていきました。この構造は、その後、女性の多くが仕事をもち、共働きが当たり前になっている現在でも、形を変えながらも再生産されています。ここにジェンダー差別のもう一つの根があります。

 こうして、日本のジェンダー差別には、明治の時代に強化された差別の構造、戦後に財界・大企業によってつくられた新たな差別の構造という二つの根っこがあります。大会の綱領報告で、「政治的につくり、歴史的に押し付けてきたもの」とのべたのは、そういうことであります。そして、日本が世界のなかでも「ジェンダー平等後進国」と言われていることの根っこにも、この二つの問題があることを指摘しなければなりません。

 こうして、大会の綱領報告でのべたように、「ジェンダー平等社会を求めるたたかいは、ジェンダーを利用して差別や分断を持ち込み、人民を支配・抑圧する政治を変えるたたかい」――日本でいえば戦前、戦後につくられてきたジェンダー差別の構造にいまだにしがみつく政治を変えるたたかいだということを強調したいと思います。

無意識の「しがらみ」から解放され、自己の力を存分に発揮できる社会を

 第二に、それではジェンダー平等という考え方は、男女平等とどう違うのか。大会の綱領報告では次のようにのべました。

 「『男女平等』は引き続き達成すべき重要な課題ですが、法律や制度のうえで一見『男女平等』となったように見える社会においても、女性の社会的地位は低いままであり、根深い差別が残っています。多くの女性が非正規で働き、政治参加が遅れ、自由を阻害され、暴力にさらされ、その力を発揮することができていません。その大本にあるのがジェンダー差別であります」

 現在、日本の法律や制度のなかで、明文的な女性差別の条項が残っているかといいますと、民法で女性にのみ再婚禁止期間が残されていることは明瞭な女性差別ですが、こういう例をのぞけば、明文的な差別はほとんどありません。ところが現実には、女性はひどい差別のもとに置かれています。

 それはなぜなのか。そこにはジェンダー差別がある。つまり法律や制度のうえでは差別はなくなっていても、人々のなかに無意識に浸透させられている「女性はこうあるべき、男性はこうあるべき」という行動規範、価値観、役割分担によって差別がつくられています。それを、私たち一人ひとりが自覚して、自らの考え方、生き方を問い直し、変えていく。このことによって、本当に差別のない平等な人間関係をつくっていこう。これがジェンダー平等ということではないでしょうか。

 大会の綱領報告では、続けて次のようにのべています。

 「ジェンダー平等社会をめざすとは、あらゆる分野で真の『男女平等』を求めるとともに、さらにすすんで、『男性も、女性も、多様な性をもつ人々も、差別なく、平等に、尊厳をもち、自らの力を存分に発揮できるようになる社会をめざす』ということであると、考えるものです」

 ジェンダー平等をめざすというのは、法律や制度の面で男女平等を実現することにとどまらず、行動規範や価値観や役割分担などのなかに残っている差別もなくし、本当の平等を求めるということだと思います。性的マイノリティーの方々も含めて、性のあらゆる多様性を尊重することも、差別をなくすことの重要な内容です。そのことによって、すべての人が、ジェンダーの「しがらみ」から解放されて、「自らの力を存分に発揮できるような社会をめざす」。ここが大切なところだと思います。英語で言えば「エンパワーメント」ということだと思います。

 大会の討論で、参議院選挙を候補者としてたたかった女性の同志が、「ジェンダー問題は、私自身のこれまでの生き方・経験と無関係ではなく、私自身が苦しめられてきたということに気づきました。ジェンダー平等を求めるたたかいは、まさに自己改革であり、自己解放そのものです」と発言しました。ジェンダー平等を実践していくことで、自身の中に眠っている力が存分に発揮できる、自己解放そのものだと語りました。

 ジェンダー平等社会をつくるというのは、みんなが自分らしく尊厳をもって生き、みんなが自分らしく輝き、そして自らの力を存分に発揮できる――そういう社会をつくろうということだと思います。それは真の男女平等を求めるとともに、さらに進んだ、より大きなふくらみをもった、豊かな概念だということがいえるのではないでしょうか。

日本共産党としてどういう姿勢でのぞむか――学び、自己改革を

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(写真)性暴力をなくそうと訴えるフラワーデモ参加者=2月11日、東京都千代田区・東京駅前

 第三は、日本共産党としてこの問題にどういう姿勢で取り組むかということです。

 私は、何より大切なのは、私たちがジェンダー平等を求める多様な運動に「ともにある」=「#WithYou」の姿勢で参加し、切実な願いの実現のためにともに力をつくすことにあると思います。

 この間、性暴力根絶をめざすフラワーデモが全国で大きく広がりました。私も、昨年8月と11月、今年2月と3月、東京駅前で行われたフラワーデモに参加してスピーチを聞きました(3月は新型コロナ対応で「オンライン・デモ」)。自身が受けた性暴力の被害が語られました。怒りと悔しさを抱えた、つらい話の連続ですが、みんなの前で話すことで尊厳をとりもどし、未来をとりもどそうとする、その姿に胸が熱くなりました。私自身、多くを学び、また考えさせられました。綱領一部改定を進めるうえでも力をもらい、この問題で政治の責任を果たさなければならないという決意を新たにしました。

 いま、ジェンダー平等を求めるさまざまな取り組みが起こっています。職場での女性に対するハイヒールやパンプスの強要に反対する「#KuToo」運動、就活セクハラに反対する運動、性的マイノリティーへの差別をなくす運動など、さまざまな運動が広がっています。こういう運動に私たち自身も参加して、まずよく聞くことだと思います。そして学ぶことだと思います。そして願いを一緒に実現していく。こういう姿勢でのぞみたいと思います。

 もう一つは、戦前・戦後、一貫して女性解放のためにたたかってきたわが党の先駆的歴史に誇りをもちつつ、またジェンダー平等をかかげて奮闘してきた多くの女性団体の先駆的取り組みに敬意をもちつつ、党としては、学び、自己改革する努力が必要だということです。

 先ほどお話ししたようにジェンダーは、シャワーのように日々降り注いできます。呪文のように繰り返し唱えられます。ですから私たちの行動のあり方、価値判断、役割分担などのなかに無意識のうちに浸透してきます。私たち自身もジェンダーにもとづく差別意識や偏見に無関係ではありません。私は、日本共産党という集団は、たいへん民主的な集団だと思いますし、日々、そういう集団をめざしているわけでありますが、そうであったとしても、日本共産党のなかにも、一人ひとりの党員のなかにも、ジェンダーは、無意識に浸透し、内面化してくる。ですから、そうした内面化している人権意識のゆがみと向き合って、自己変革していく努力をしていきたいと思うのです。

 この問題で、心して努力したいのは、党としても、一人ひとりの党員も、具体的な行動で試されるということです。党大会に向けた全党討論のなかで、1970年代に、「赤旗」に掲載された論文などで、同性愛を性的退廃の一形態だと否定的にのべたことについて、きちんと間違いと認めてほしいという意見が出されました。事実関係を確かめたうえで、党大会の結語で、「当時の党の認識が反映したものに他ならないものだと思います。これらは間違いであったことを、この大会の意思として明確に表明しておきたい」とのべました。多くの方々を傷つけたわけですから、きっぱりとしたけじめが必要であります。

 わが党自身がジェンダー平等を実践してこそ、ジェンダー平等社会の実現に貢献していくことができる。そして、それは、一つひとつの具体的な行動で試されます。このことを胸に刻んで、お互いに努力しようではありませんか。

科学的社会主義とジェンダー平等――エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』

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(写真)『家族・私有財産・国家の起源』

 第四に、科学的社会主義とジェンダー平等についてのべておきたいと思います。

 これは大きな研究課題だと思いますが、重要な手がかりをあたえてくれる古典があります。エンゲルスが1884年に書いた『家族・私有財産・国家の起源』という著作であります。

 マルクスが亡くなったのちに、エンゲルスが、マルクスが残した膨大なノートを調べていましたら、『資本論』の草稿などと一緒に、モーガンというアメリカの学者が書いた『古代社会』という本からの抜き書きのノートが出てきました。モーガンのこの本は、アメリカの先住民の社会をくわしく研究し、それを手がかりにして、世界の原始社会がどういうものだったかを明らかにしたものでした。そのなかには女性の歴史についての発見もありました。モーガンの研究は、人類社会の最初は、男性と女性の間に差別のない平等社会だったことを明らかにしていたのです。マルクスはこれを知って驚きます。マルクスは、それまでは、人類社会では最初から女性差別があって、社会の進歩とともに差別がなくなっていくという見方に立っていましたから、モーガンの著作はそれを覆す驚きだったのです。マルクスは、モーガンの著作に感激して詳細なノートをつくります。しかし、ノートをつくったところで亡くなってしまった。エンゲルスは、マルクスのこのノートを発見して同じように驚き、マルクスの遺言の執行として、このノートを使って『家族・私有財産・国家の起源』を書きました。

 エンゲルスは、『起源』のなかで、女性解放の展望についての大きな方向を明らかにしています。それは、およそ次のような点にまとめられようかと思います。

 第一は、女性の解放には、法律的な平等だけでなく、社会的な平等が大切であることです。マルクス、エンゲルスは、女性参政権の実現を、その活動の最初の時期から主張してたたかい、法律的平等を求めるという点でも最も革命的な民主主義の立場を貫きました。同時に、エンゲルスは『起源』で、本当の女性の解放のためには、法律的な平等だけでは足らない、社会的な平等が大切だと力説しています。

 第二は、女性の社会的平等を確立するうえで、決定的意義をもつのが「女性の公的産業への復帰」の実現にあることです。「公的産業への復帰」というのは、狭い意味での「産業」だけでなく、より広い意味での社会の公的活動の全般に、女性が復帰していくということです。

 第三に、そのためには、家事の義務が女性に押し付けられている現状を根本から打破する社会変革が必要であることです。エンゲルスは、「私的家政」を「社会的産業に転化」することが必要だという提起を行っています。子どもの養育をはじめとする家事の義務が女性に押し付けられたままでは、「公的産業への復帰」はかなわない。それを社会が営むシステムへの改革が必要だということです。

 第四は、結婚生活における男性の優位は、男性の経済的優位の結果であり、こうした不平等の経済的基盤をとりのぞいてこそ、真の意味での両性の対等・平等な関係が実現するということです。

 エンゲルスは、『起源』のなかで、こうした女性解放が実現する条件を、社会主義的変革のなかに見いだしました。

 現実の世界史の進展は、1979年に成立した女性差別撤廃条約が示すように、世界の多くの国ぐにが資本主義の段階にとどまっているもとで、「女性の公的産業への復帰」と、それを支える社会的条件づくりが緊急の課題となり、現実に取り組まれてきています。エンゲルスの見通しを超えて、資本主義の枠内でも女性解放への大きな歩みが進んでいます。同時に、私は、資本主義社会をのりこえた未来社会――社会主義・共産主義の社会に進んでこそ、両性の真の意味での平等が実現するという大展望は、今日においても真理ではないかと考えます。

 『起源』のなかでエンゲルスは、未来社会における両性の新しい関係について、次のような大展望を語っています。この部分は、ドイツで社会主義者弾圧法が撤廃されたあと、1891年の第4版で書き足された部分です。

 「なにがつけ加わるだろうか? それは、新しい一世代が成長してきたときに決定されるであろう。すなわち、その生活中に、金銭ないしその他の社会的な権力手段で女性の肌身提供を買いとる状況に一度もであったことのない男性たちと、真の愛以外のなんらかの顧慮から男性に身をまかせたり、あるいは経済的結果をおそれて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も出あったことのない女性たちとの一世代が、それである」(『家族・私有財産・国家の起源』、全集(21)86ページ、古典選書112~113ページ)

 こうした「新しい一世代」が成長してくる未来社会でこそ、真の愛情だけで結ばれた両性の関係――真の意味での両性の平等が実現する。これが、エンゲルスが明らかにした大展望でした。

 ジェンダー平等は、資本主義のもとで最大限追求されるべき課題であり、それはエンゲルスの予想も超えて、現実のものになりつつあります。改定綱領でも、「ジェンダー平等社会をめざす」という課題を、当面の民主的改革の課題に位置づけました。

 同時に、より根本的には、社会主義・共産主義社会、真に自由で平等な人間関係からなる社会――あらゆる搾取がなくなり、あらゆる抑圧がなくなり、あらゆる強制がなくなり、国家権力もなくなり、あらゆる支配・被支配の関係=権力的関係がなくなる社会――ここまで進めば、当然、ジェンダー平等が全面的に実現する社会になる。こういう展望をもつことができるのではないでしょうか。

 フラワーデモに参加してスピーチを聞きますと、性暴力被害にあった方々のうちの多くが、知人からの被害にあっているとのことでした。親、親戚、教師、上司、医師など、多くは知人から性暴力被害を受けている。その間には、支配・被支配の関係――権力的関係があります。それを利用して性暴力が起こっている。これが現状だと思います。

 みなさんのスピーチを聞きながら、どうやったら性暴力がなくせるか、いろいろと考えました。性暴力をいますぐなくすために、あらゆる手だてを緊急にとっていかなければなりません。刑法を改正し、強制性交等罪で残されている「暴行・脅迫要件」を撤廃し、同意要件をつくることは急務です。年齢にふさわしい形での性教育を行うことを含めて、子どもを性暴力から守っていく取り組みを抜本的に強めなければなりません。被害者のケアのしっかりした態勢をつくることも、すぐにでも取り組んでいかなくてはなりません。緊急に、最大限の努力が必要だと思います。

 同時に、将来の展望として、根本的に言うと、人と人との関係において、支配・被支配の関係――権力的な関係がいっさいなくなるような社会では、当然、性暴力の根も社会的な根としてはなくなっていくのではないでしょうか。

 そうした社会においては、親と子の関係も、教師と生徒の関係も、職場の関係も、本当に平等でフラットなものに変わっていくのではないでしょうか。教師と生徒の関係も、お互いに学びあうような対等・平等の関係になっていく。親と子の関係も、同じように対等・平等の関係になっていく。人と人との間に、いっさいの権力的な関係がなくなっていく、そういう社会になれば、当然、ジェンダー平等は完全な形で実現し、性暴力も――個々の犯罪は残るかもしれませんが――、その社会的な根は絶たれていくのではないでしょうか。そういう大展望をもって、この課題に取り組んでいきたいと考えています。

 ジェンダー平等社会の実現のために、資本主義の枠内で最大限の努力を行う。同時に、私たちのめざす未来社会に進んだときには、当然、この問題でも、根本的な解決の道が開かれる。こうした姿勢で、この問題の解決のために力をつくしたいと思います。

4月5日付につづく


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