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2016年4月5日(火)

『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』第6巻を語る(下)

スターリン、朝鮮戦争の真相を語る

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 山口 スターリンは、アジア「第二戦線」構想の具体化の過程で、中国、朝鮮、日本にいろいろ手を打っていきますが、ここは、日本共産党史にも大きくかかわってくる部分ですね。

朝鮮戦争をめぐる謎

ソ連の安保理ボイコット

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(写真)不破哲三さん

 不破 スターリンが「第二戦線」構想の具体化としてひき起こしたのが朝鮮戦争(1950年6月〜53年7月)です。実は、この戦争の最大の狙いは、アメリカをアジアの戦争に引き出すことにありました。このことは、韓国の学者が2008年にソ連の公文書館で発見したゴトワルトあての手紙の中で、スターリン自身が、はっきり語っているのです。

 朝鮮戦争の経過を振り返ると、1950年1月に重要な動きが並行して起きます。1月7日には、コミンフォルムが日本共産党批判の「論評」を発表します。これは、スターリン自身が書いたものでした。また、1月13日には、中国の国連代表権を認めないことへの抗議を理由にして、国連安全保障理事会のボイコットを始めます。続いて、1月30日、北朝鮮の金日成に対して、これまでの「南進」抑制の態度を変えて、「南進」の準備開始を許可する指示をだします。

 これはすべて、「第二戦線」構想にかかわった行動ですが、ここで問題になるのは国連安保理のボイコットです。抗議の欠席なら短期間で終わるのが普通ですが、ソ連はボイコットを朝鮮戦争開始の時期まで続けました。ソ連が欠席していたために、朝鮮戦争が始まった時、米軍を「国連軍」として派遣する決議などがアメリカの思うままに安保理を通過しました。自分たちに不利になることがわかっていて、なぜそんな態度をとったのか。ずっと謎となっていた問題でした。

 50年8月、この疑問をスターリンに手紙で直接ただしたのがチェコスロバキア大統領のゴトワルトでした。

 スターリンは8月27日付の手紙でそれに答え、ボイコットは、「米国政府にフリーハンドを与え…さらなる愚行をおこなう機会を提供」するため意識的に取った行動だと説明し、朝鮮戦争への参加によって「米国が現在ヨーロッパから極東にそらされていることは明らか」、そのことは「国際的なパワーバランスからいって…われわれに利益を与えている」、「米国はこの戦いで疲弊してしまうだろう」と書いているのです。

 初めてこの手紙を読んだときは、ここまで言っていたのかとびっくりしました。

 山口 この書簡を日本語に全文翻訳して検討したのは今回の研究が初めてですね。

陰謀的に中国を引き込む

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(写真)石川康宏さん

 不破 スターリンは、アメリカを朝鮮戦争に引き出すことを狙ったが、ソ連自身は戦いたくないわけですよ。そのための「第二戦線」ですからね。代わりに中国に戦わせて米軍をアジアに引きつけさせたいのです。その思惑を、中国に知らせるわけにはいきませんから、中国に知らせないで戦争の準備をすすめました。

 スターリンが金日成に戦争の準備をせよと指示したのは50年1月30日ですが、その時、毛沢東はまだモスクワにいたのです。でも一切知らせていません。金日成にもわざわざ、“中国には言うな”と指示します。中国をあてにした作戦なのに、最終決定するまで毛沢東にも知らせず、作戦計画も中国抜きで立てるんです。

 決定後に知らされた中国は、「必ずアメリカが出てくる」と警告しますが、金日成は無視する。戦争が始まって、北朝鮮軍が国連軍と韓国軍を朝鮮半島の南端に追い詰めた時にも、中国は「仁川が危ない」と警告します。北朝鮮は無視しますが、まさに警告通り、マッカーサーが仁川に上陸して、北朝鮮軍は補給も退路も断たれ追い詰められました。

 そうなって初めて中国軍に出動要請があります。ソ連は、最初は空軍による援護を約束していましたが、いよいよ中国の出兵が現実の問題になってくると、撃墜されたらソ連の飛行機だとすぐわかるから無理だと言いだしました。最後まで勝手なやりかたでしたが、結局、毛沢東は、空軍の援護なしでもやるといって、参戦を決断しました。スターリンの信頼をうるにはこれしかないと考えたのだと思います。

 石川 毛沢東にとってそれほどスターリンの信頼が大事だった理由は何でしょう。それほどまでにスターリンを神格化していたということでしょうか。

 不破 スターリンの信頼をえることにくわえて、革命勝利後、新しい経済建設をするのにもソ連の物質的援助と方針上の援助は不可欠だったんですね。中国は、社会主義への道をどう進むべきかわからないでいました。だから、政治も経済も全部ソ連型を採用しました。

 戦況は、中国人民軍が参戦した当初は北側が再び優勢になりますが、やがてこう着状態になります。そこで休戦の話が出ますが、スターリンは絶対認めないんですよ。戦争を続けてアメリカと中国が消耗するのが一番いいわけです。結局、スターリンが死ぬまで休戦は実現しませんでした。

日本共産党の「50年問題」――朝鮮戦争の後方攪乱が狙いだった

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(写真)山口富男さん

 石川 朝鮮戦争は現代の国際政治にも深い爪痕を残しています。これを謀略としてしかけたスターリンの行為は許しがたいものですね。日本共産党への干渉も、この「第二戦線」戦略の一環だったのですね。

 不破 「50年問題」は、党の分裂という大きな苦難をもたらしたものですが、その経緯も、この流れのなかで見る必要があります。

 日本に対しては49年10月に、日本共産党の幹部だった野坂参三について、野坂とはどういう人物かの調査報告書が東京からモスクワに送られています。これは野坂を利用するための予備調査でした。そのころから干渉作戦に手を打ち始めていたのですね。

スターリン主導だった武装闘争押しつけ

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(写真)『スターリン秘史』全6巻

 山口 49年11月に北京で開かれたアジア・大洋州労働組合代表者会議では劉少奇が開会演説し、アジアの共産党に中国式の武装闘争をやれと呼びかけます。武装闘争押しつけは中国主導だと思われていましたが、実は、これもスターリン主導だったんですね。劉少奇はスターリンに、そうした方針は革命勢力に重大な打撃をもたらすと異論を唱えていた。その手紙の全文を翻訳し、検証したのも今回の研究が日本で初めてだと思います。

 不破 その真相は、2006年の北京訪問の際に買った文献で分かったのでした。結局、この会議は、舞台は中国でも、内容はスターリン主導だったわけです。しかも、アジア・大洋州全体に呼びかける体裁でありながら、狙いは朝鮮戦争であり、その戦争を支援させる日本だったのです。

 山口 コミンフォルムによる日本共産党批判(1950年1月7日)は、アジア労組会議の2カ月後でしたね。

 不破 この論評には、武装闘争の呼びかけは一言もありませんでしたが、日本の党中央が統一した見解を持てず受け入れないのを見て、中国共産党が受け入れを勧告する論説を機関紙で発表しました。この論説には武装闘争の呼びかけが含まれていました。

 あの時期に資本主義国の共産党でスターリンから武装闘争を押しつけられたのは日本共産党だけです。日本は朝鮮戦争の米軍の後方基地だから、そこで攪乱(かくらん)活動をやれば戦争に有利に働くという判断でやられた作戦でした。

アジアの歴史に残した傷

 不破 日本にとっては、アメリカが日本に安保条約を押しつけるのに一番都合のよい情勢をつくられたことになります。安保条約が結ばれた51年当時、「平和盆踊り」さえ禁止されるほど、東京はほとんど“戒厳”状態におかれました。

 山口 「第二戦線」戦略がアジア・太平洋地域の歴史に残した傷はすさまじい。分断された朝鮮はもとより、日本の戦後の政治体制に与えた影響も甚大です。不破さんは「東ヨーロッパでの自分の『勢力圏』確保のためには、他国の人民運動や他国の共産党がどんな被害を受けてもかまわない」スターリンの覇権主義と書いています。

 憤りを感じると同時に、「日本共産党への干渉攻撃が、日本の運動のなかに、スターリンの覇権主義、専制主義に対する徹底した批判者を生む転機となったことは、歴史の弁証法というべき」でしょうという指摘に、ほっとする思いです。

 不破 実際そうなんですよ。

 石川 スターリンの「第二戦線」戦略の中に「50年問題」が位置づけられたことで、なぜあの時期にあんなことが起きたのかが非常にわかりやすくなりました。

 山口 「50年問題」の学習会では「なぜスターリンはそこまでしたのか」という質問が出るのですが、これでずばりと答えられます。

 石川 それにしても、世界を支配しようという人間は、ものすごい絵を描くものですね。

スターリンの後継体制

 山口 いよいよ最後の第30章です。スターリンの後継体制を彼自身がどのように構想したのか、ここも、新しい分析ですね。

 不破 スターリンの亡くなる前の年、52年10月にソ連共産党の第19回党大会が開かれました。実に13年ぶりの大会ですが、大会報告を読んでも中身がない。なぜこの時期に開いたのか、意味不明の大会だったのですが、いま考えてみると、これはスターリンが自分の後継体制をつくるための大会だったのです。

 当時スターリンの側近は、マレンコフ、ベリヤ、フルシチョフ、ブルガーニンの4人組ですが、スターリンは彼らを、自分の頭で判断して党と国家を指導できる人物だとは思っていないのです。

 大会では、これまでの政治局を廃止して幹部会を新設することが決まりました。大会直後の中央委員会で、スターリンはいきなりポケットから紙を出して新幹部会の名簿を提案します。政治局よりずっと大所帯でしたが、顔ぶれは、当時の指導者たちが知らない人ばかりでした。その中に、スターリンが後継者にしたい幹部が入っていたのです。一人はスースロフで、国際問題とイデオロギー・理論問題に明るいが、当時まだあまり目立たない人物でした。他には私たちの記憶に残っているような人はブレジネフだけです。

 スターリンの狙いは、この大会を機会に、党の指導部を一新する準備をはじめるところにあったのでした。

 ところがスターリンは、その約4カ月後の53年3月の朝、自分の部屋にひとりでいた時に突然、倒れました。ベリヤやフルシチョフは、12時間ほどのちにクレムリンを訪ねてその異常に気付きますが、医者を呼ぶより先に、スターリン死後の体制づくりの準備にかかり、医師が呼ばれたのは倒れてから20時間もたってからでした。

 こうして、スターリンが一新するつもりだった旧体制が復活します。その後ベリヤが失脚、権限はフルシチョフに移りますが、やがて彼も失脚します。このとき引導を渡したのはスースロフでした。ブレジネフが表向きの指導者になりますが、裏で権力を握っていたのはスースロフだといわれます。

 こういう変遷はありましたが、結局、後継指導部は、スターリンの思惑通り、彼の覇権主義を引き継いでゆきました。

 石川 フルシチョフが20回党大会で、断片的にスターリンを批判しましたが、その後も覇権主義は継続していたということですね。

 不破 チェコスロバキア侵略、アフガニスタン侵略、そして日本共産党への干渉と、覇権主義の遺伝子は根強く引き継がれました。

「歴史をひらく」たたかい

 石川 不破さんは昨年末に、日本記者クラブで講演し、色紙に「歴史をひらく」と書きました。その意味を「理論活動及び政治活動にのぞむさいの覚悟」だと説明されましたが、まさにこの研究はスターリン、ソ連の側から見た国際政治発展の内的な論理を明らかにする上で「歴史をひらく」意義をもったと思います。

 山口 不破さんは、この研究は、スターリン時代の空気を吸った世代が果たすべき課題だと思っていたと書いています。『前衛』連載中に寄せられた感想をみると、その時代に苦闘した人たちが、苦闘の根源は何だったのかを知って、うれしく感じているんですね。当時、正しいと信じて、実は誤りもおかしたかもしれない。しかし同時に、スターリンの害悪と徹底的にたたかう部隊も生み出した。自分の生きた時代を、歴史を開く立場で、もう一度見直したのではないかと思います。

 不破 日本共産党は、ソ連の覇権主義と正面からたたかい抜くと同時に、スターリン理論を打ち破って、科学的社会主義の理論の本来の姿を復活させ、現代的に発展させてきたからこそ、スターリンの覇権主義の総決算ができるのですね。その点で、スターリンの巨悪についての今回の研究は、日本共産党の政治的実践および理論活動の基盤があったからこそできたものだと、実感しています。

 山口 膨大な研究で、大変な苦労があったと思います。お疲れさまでした。 

 不破 ありがとうございます。

(おわり)


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