2015年1月13日(火)
『スターリン秘史―巨悪の成立と展開』第1巻を語る
人民戦線と「大テロル」が並行
日本共産党の不破哲三・社会科学研究所所長が『前衛』で好評連載中の「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」をまとめた第1巻が、昨年11月に刊行されました。テーマは「統一戦線・大テロル」。不破さんと石川康宏・神戸女学院大学教授、山口富男・社会科学研究所副所長の3人に、本の読みどころなどを語ってもらいました。
覇権主義の角度から「巨悪」の全貌に迫る
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―最初に不破さんから、今回の研究の意義をお話しいただければと思います。
不破 ソ連の大国主義・覇権主義との闘争のなかで、1982年に「赤旗」に「スターリンと大国主義」を連載したのですが、その時は公開の資料しかありませんでしたから、肝心の1930〜40年代の問題はごく簡潔にしか書けませんでした。
ソ連崩壊後、流れ出てきた内部資料を使ったスターリン問題の研究や著作が世界的にずいぶん出ましたが、大量テロルや独裁など国内問題が中心で、国際的視野で覇権主義を研究したものはほとんどなかったのです。この角度からの仕事は、ソ連の覇権主義とたたかってきた私たちしかやれないと思って取りかかりました。
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『ディミトロフ日記』をタテ糸、内外資料をヨコ糸に
不破 その直接のきっかけとなったのは、『ディミトロフ日記』に出合ったことでした。ベトナム共産党とコミンテルンの関係を書いた日本の研究者の著作(2005年)を読んでいたら、コミンテルンの解散の2年以上も前に、スターリンがディミトロフに解散を促していたという話が出ていたのです。初めて聞く話で、典拠をみると、『ディミトロフ日記』からの引用でした。英文を手に入れて読んでみると、これまで謎だと思っていたいろいろなことが、思わない形で解けてゆくのですね。
スターリンは完全な独裁者でしたから、側近にも担当分野のことは知らせても自分の考えや方針の全体像は知らせない。重要な決定でも会議で決めるわけではないから、記録も残らない。だから生の記録は本当に少ないのです。そのなかで、ディミトロフは1934年から1948年までの約15年間、スターリンの近くにいて、自分が聞いたスターリンの発言は、忠実に『日記』に書いていました。このようにスターリンの言動を直接記録したものはほかに例がありません。
スターリンはディミトロフにも自分の真意は明かさず、いつも政略的に対応しているのですが、ともかく『日記』からはその時々のスターリンの肉声が聞こえるのです。これをタテ糸に、内外の資料をヨコ糸にして編みあげれば、スターリンの覇権主義の実態が分かると考えて研究し、『前衛』で連載を始めたのが一昨年の2月号、やっと今年7月号(第30回)で完結するところまできました。
山口 スターリンの覇権主義の問題を中心に、各国の内政から外交、国際政治、戦争史に話が及ぶ大きな歴史研究ですね。研究の舞台となった国と登場人物は、ざっと見ても、十数カ国、数百人規模でしょう。
スターリンによる戦慄(せんりつ)すべき事実の数かずが明らかになるわけですが、決して暗い読後感で終わらない。科学的社会主義の事業に対する誤解や疑問の発生源の一つになっている巨悪を、正面からとらえて実像を明らかにし、乗り越える姿勢がすわっているから、読んで面白いのだと思います。
石川 特に関心を持っているのは、1930年代に大きく変質したとされるソ連社会が一体どういう社会だったかについてです。ポスト資本主義をめぐる議論の中には、ソ連=「社会主義」=「あんな社会になりたくない」という議論が強く残っています。それに対し、社会主義とも、そこへの過渡期とも、縁もゆかりもない社会だったといわれる意味を、より深く理解したいと思っています。
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2013年に行った「『古典教室』を語る」鼎談(ていだん)の際、不破さんは覇権主義の問題でソ連やスターリンに対する認識が深まっていった過程を話されました。そこを、もう少しうかがえればと思うのですが。
不破 スターリン批判は、彼の死後間もなく、ソ連で開始されたのですが、覇権主義の批判は完全に欠落していました。私自身は、1964年3月、党本部の任務に就くまで、世界の共産主義運動のなかでソ連はしかるべき役割を果たしていると思っていました。学生のころは、スターリンの著作やスターリン公認の『ソ連共産党小史』をいちばん熱心に勉強したほうでした(笑い)。党本部に来て初めて、ソ連と激烈な水面下の闘争が始まっていて、相手はまさにソ連の大国主義・覇権主義の無法だということが分かったのです。それまでイギリスの歴史家E・H・カーの本などはかなり読んでいましたが、一番の転機は、スターリンの後継者たちの覇権主義とのたたかいの中で、そういう目でソ連とその歴史を見たことでした。
石川 なるほど、半世紀にわたる問題意識と研究の集成ということですね。
スターリンの言動の真意を探究する
山口 そこには、独特の特徴もありますよ。タテ糸にした『日記』を徹底的に読み込むと同時に、それだけでは分からない歴史の脈絡を、ヨコ糸にした関連文献の利用でつかんでゆくのです。例えばコミンテルン第7回大会(1935年)での反ファシズム統一戦線への路線転換のさいに、なぜディミトロフが登場してくるのか。スターリンの真意はどこにあったのか。その節目や相互関係が、「なるほどそうだったのか」という感じで明らかにされる。それに、読者とともに問題を考えるという研究スタイルが貫かれているので、話にスーッと、引き込まれます。
不破 脈絡をつかむことに関連するのですが、スターリンはディミトロフに対するときも、どうしたら彼を心服させ、自分の有能な道具として使えるかという策略をもって対しています。だから、『日記』に書かれたスターリンの言葉をそのまま受け取ってはだめなんですね。スターリンがどんな意図で発言したか吟味して初めて真意が分かります。
ディミトロフは最後までスターリンの信奉者として活動しますが、自分は共産主義者のつもりで、革命家としての善意をもっていました。戦争中、スターリンがユーゴスラビアの解放闘争を白眼視した時には、一生懸命スターリンへの説得を試みたりしました。それでも、スターリンは彼を排斥せず、最後まで利用し続けるという独特の関係があったので、そういう裏まで読みとらないといけませんでした。
石川 各国の政治史など、ヨコ糸のばく大な知識がないとできない仕事ですね。
不破 大まかな歴史は知っていても、詳しい知識を持たないところからの挑戦でしたから。例えば、1930年代のスペイン内戦史なども、簡単には手をつけにくい暗黒面を感じていて、研究しないままでいました。今度思いきって調べてみて、やっと暗黒面と感じていた事態の真相が分かりました。私自身の頭の中でも、世界現代史がだいぶ変わってきましたよ。
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コミンテルン第7回大会の光と影
山口 第1章では、ドイツ国会議事堂放火事件(1933年2月)の容疑者とされたディミトロフがその年の裁判でナチス・ドイツ権力と対決します。この法廷闘争が、『日記』や当時のジャーナリスト・鈴木東民のルポも使って生なましく再現されています。ディミトロフが獄中で手錠をはめられて数カ月過ごした苦労や、ドイツ語しか話せない人とドイツ語を話せない人がどうして会談できるのかなど、ナチス政権の謀略を暴いてゆく論戦ぶりも分かり、この裁判の歴史的意味を強く印象づけられました。
不破 この論戦は当時、世界を驚かせたのです。ディミトロフは、亡命先のドイツで活動していたブルガリアの共産党員で、世界的にはまったく無名の人物でしたからね。
スターリン、ディミトロフに注目
石川 ディミトロフが、革命的気概に燃えているのがこの本でよく分かります。論戦も優れており、ナチス政権側の論拠を次つぎと覆しました。でも、これほどの人物が、スターリンの道具にされてしまうんですよね。そのことを思うと、たたかいの姿が痛ましくも見えました。
山口 そこの謎解きがなされているのではないかな。無罪を勝ち取ったディミトロフが、34年2月にモスクワに渡る。「オーストリアの労働者への手紙」を作成するディミトロフに、スターリンが念入りな指導と柔軟な対応をおこなう。それにディミトロフが感激し、心服していく過程が、『日記』や関連資料で、手にとるように明らかになってゆきます。
不破 スターリンは、ディミトロフの裁判闘争を見て「この男だ」と目をつけたんでしょう。それで、ソ連に迎え入れ、実際に人物を見て、ディミトロフをコミンテルンの長にすると決めたのです。そのときのスターリンは、反ファシズムの人民戦線の立場とは、まだかけ離れた立場にいました。それでも、ファシズムの台頭にもかかわらず、社会民主主義に「主要打撃」を向けるとか、社会民主党をファシズムと同列に置く「社会ファシズム」論――これらはみんなスターリンがコミンテルンに持ち込んだ方針だったのですが――、それらの失敗が明らかになったあとでも、旧来型のこうした方針に縛られているコミンテルンの連中ではダメだと考え、おおもとから改革しようという考えがあったんです。
そこで、ディミトロフが、コミンテルン第7回大会(1935年)で主報告をすることに決まり、新しい方針を出そうとします。ところが、旧来路線に固執する執行委員は誰も相談に乗らない。『日記』に「墓場のなかだ!」と書き付けています。そのときスターリンに送ったのが、報告草案の骨子をまとめた「覚え書」(34年7月)でした。
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路線転換の裏で次の局面への布石も
不破 この「覚え書」にスターリンの書き込みをした文書があるのですが、これは、これまでの研究では、ディミトロフの構想した戦術転換に反対だという意思表示だとされてきました。しかし、現実はそうではなかった。コミンテルンは「墓場だ」と嘆いていたディミトロフが、この書き込みを出発点にスターリンとまる1日議論して「徹底的な討議!」と感動の言葉を『日記』に書き付けています。“打てば響く”深い討議ができ、確信をもって大会準備にあたります。スターリンの考えも彼との対話を通じて発展する、そういう相互関係があったのですね。
この時、スターリンがとったのは、ディミトロフを中心に、必要な路線転換を思い切って発展させよ、という立場でした。ただ、将来を考えて、この大会にいくつかの重大な枠をはめています。一つは、旧来路線の根本的な総括を徹底的に回避させたことです。
また、それまでのコミンテルンには「長」という役職はなかったのに、書記長という部署を新たにつくって、ディミトロフを任命したことも、その一つです。ディミトロフはすでに何をするにもスターリンの了解なしにはやらない人間になっていたから、結局、コミンテルンはすべてスターリンの決裁で動かされる上意下達の機関に変わりました。
この大会のこういう否定面は、ほとんど注目されませんでした。各党の自主性を強調した大会とよく言われていますが、内実はまったく反対で、第7回大会以降、各国の代表が集まる公的な会議は一切開かれなくなりました。
反ファッショ統一戦線の大会ということで世界に名をはせた大会でしたが、スターリンは、将来のさらなる方針転換への布石を周到に準備していました。レニングラードの党指導者キーロフの暗殺事件(34年12月)も、「大テロル」への引き金としてスターリン自身が起こしたもので、最も重大な布石でした。
山口 第2章で、ディミトロフの「覚え書」に対するスターリンの書き込みが全文紹介されていますが、これもはじめての本格的な研究ですよ。第7回大会でのコミンテルンのいわゆる“路線転換”が、脇役どころか、スターリン主導ではかられていったことが、はっきり示されました。
第3章で、コミンテルンの指導機構の変化をスターリンの覇権主義の狙いとの関わりで明らかにしたのも、面白いですね。覇権主義の巨悪を見据えるという点で、ここでも、大きな見方を与えたものだと思います。
スターリンとヒトラー
石川 ディミトロフと話し合うなかでスターリンも発展していくというお話がありましたが、スターリンも大きな課題を前に迷うような時には、いろいろな人の知恵に学ぶということがあったのでしょうか。
不破 スターリンが本当に革命家だったら、革命の戦略はそう簡単に転換できないですよ。彼にとって、第7回大会での転換は、対ソ戦争を公然と呼号して政権についたヒトラー・ドイツにどう対応するか、ソ連防衛という当面の緊急課題を根底においた対応措置でした。そのために必要なら、自分が唱えてきた路線でも平気で捨てるのです。こういう転換は、そのあとも、何度もくりかえされました。
実際、スターリンがどの程度本気でヒトラーを「敵」と見ていたのかには、疑問があります。「テロ独裁」国家というファシズムの規定にしても、スターリンの方が、ヒトラーよりも先に、大規模なテロに乗り出しているわけですから、ヒトラーが「テロル独裁」だからこれに対抗するという理屈は、スターリンには本来ないのです。
スターリンの元通訳の回想録があって、ヒトラーが政権獲得の後の34年6月、ナチスの突撃隊幹部を大量に虐殺するという事件が起こった時、スターリンが「ヒトラーって男は大したやつだ。政敵を片づけるのにあれが一番いいやり方だ」と絶賛したと書いています。ほかの傍証がないので「秘史」には書かなかったのですが、ありうる話でした。
だから、フランスやイギリスとの連合戦線や反ファシズム人民戦線運動でヒトラーを包囲するという路線の限界がはっきりしたときには、百八十度の方針転換が平気でできるのです。
山口 第7回大会で反ファシズム統一戦線という、その後の歴史に生きる方針がつくられた一方で、コミンテルンの変質が起き、テロルも始まっている。その歴史をどう見たらよいのか。不破さんは「スターリンを動かした国家的利害と社会的進歩の運動の歴史的利害が大きな意味で合致した場合には、共産主義運動に、世界史を前進させる大きな力と成果をもたらした」と述べ、「スターリン時代の世界の共産主義運動の歴史を研究する場合には、こういう歴史的な視点がどうしても必要です」と言います。歴史を振り返るときに、考えさせられる大事な提起ですね。
石川 スターリンは、いつごろから、ヒトラーがもたらすソ連の国家的危機を乗り越えるための国際環境づくりを考えたのでしょう。
不破 推測ですが、スターリンは、ヒトラーが政権をとったときすぐに、ソ連への侵略を防ぐあらゆる手段をとる必要があると考えたと思います。
スターリンはそれまでのコミンテルン執行委員会総会にはすべてタッチしてきましたが、33年11〜12月の第13回総会には目もくれませんでした。この総会は、ヒトラーが政権をとりナチ以外の政党を禁止して専制独裁体制を確立した後に開かれました。しかし、コミンテルン中央の政治的な感覚と思考の貧しさをさらけ出し、これまでどおり「ドイツ革命近し」の決まり文句を繰り返すものでした。ヒトラーに対する国際的な包囲網を構築するには、コミンテルンの組織と活動の再編が必要でしたが、コミンテルン指導部にはその能力がないことを、スターリンはよく見ていました。
山口 コミンテルンの執行委員会総会は、29年から33年までに4回開かれていますが、ドイツでのナチスの登場と第1党になっていく過程をまともに見ていなかったことがこの本で明らかにされ、驚きました。「社会ファシズム」論や「主要打撃」論も、そもそもがスターリン由来だったという、その歴史と過程も明らかにされましたね。
大会では過去の路線の自己批判はなかった
不破 若いころ、第7回大会でピークがおこなった、前大会以来の執行委員会の活動についての報告を読みました。そのときは良いものだと思い込んでいましたが、今読み返すと、本当に自己批判がない(笑い)。コミンテルンの誤りにまったく口をぬぐって、路線を大転換しながら、転換という意義づけをしないのです。
石川 スターリンは一面、驚くほど賢いですね。
不破 「巨悪」の知恵、狡知(こうち=悪がしこい知恵)の働き方はすごいですよ。
山口 スターリンの巨悪をきちんと見たからこそ、ピーク報告の問題点をつかみ出せたのですね。平板に読んでいたら気づかない論点です。
石川 スターリンについては、いいところも悪いところもあるという両論併記的な評価がありますが、不破さんが明らかにしたのは、根本にソ連の国家的利害を貫く自己中心主義があるということですね。結果として歴史の進歩につながる場合にも、単純に「いいこともした」ととらえることはできないわけですね。
不破 スターリンの「巨悪」と、コミンテルンを通じてその指導下にあった世界の共産党の運動とを、同じ目で見るわけにはゆかないのですね。コミンテルンが1935年に統一戦線方針を打ち出した時には、全世界で多くの党が反ファシズムの闘争の先頭に立ちました。41年にソ連がドイツに攻め込まれて反ファシズム戦争の側に立たざるをえなくなったときにも、各国の共産党はレジスタンスの闘争を展開しました。これらの闘争は積極的意義を持ったし、歴史に残る役割をしました。しかし、39年以後の独ソ同盟時代には、上から押し付けられる誤った方針のために、出口のない混迷を余儀なくされました。
石川 ところで、ロシア革命を体験したスターリンが革命家としての自覚を失うのは、どの時点でのことでしょう。
不破 スターリンの主観的な意識の判定はなかなか難しいのですが、1922〜23年にスターリンの立場の有害性を見ぬいたレーニンが、スターリンの大国主義と粗暴な官僚主義に対する「最後の闘争」を決意したころには、すでにかなり危険性を強めていたでしょうね。それでも、20年代の「反対派」との闘争の時には、革命家という立場で、「マルクス・レーニン主義」を尺度に、比較的よく考えた論争をやります。その時は、ソ連一国で社会主義が成立するのか、世界革命が勝利しない限り成立できないのかが、論争の大きな争点でした。しかし、「反対派」が壊滅すれば論争の必要がなくなります。
28年から始まる「農業集団化」のあたりからは、自分の立場に理論的な一貫性を持たせようとする努力も、もうやらなくなってゆきます。とくに「大テロル」以後は、ヒトラーと手を結ぶことも、スターリンの決定一つで進んでゆきます。スターリンの自覚うんぬんでなく、この段階では、ソ連という存在そのものが、革命とも社会主義とも無縁なものに変質したとみるべきでしょうね。
この段階になると、スターリン自身が、いろいろな問題で自分の主張をころりと変えても、まったく意に介さないのです。『スターリン全集』は第13巻、34年の著作まで出して、刊行を中断してしまいました。自己誇示の好きなスターリンには珍しいことですが、ヒトラーや第2次世界大戦の各段階の評価など、立場がころころ変わっていて全集を続刊するとボロが出るからではなかったかと、邪推しています。(笑い)
「大テロル」は何を目的としていたか
山口 第4章、第5章で取り上げた「大テロル」について話を進めましょう。1934年12月のキーロフ暗殺事件は、35年から38年に荒れ狂った「大テロル」の発火点になりました。
スターリン自身がすべてを取り仕切った
山口 今回の研究では、この事件の「疑惑」を告発したフルシチョフの2回にわたる報告を取り上げています。不破さんは、そこであげられた「疑惑」にこだわり、キーロフ事件の仕掛けをつくれる人物は、スターリン以外にいなかったと論証しています。
不破 スターリンは、この事件をソ連共産党の敵対勢力によるものだと位置づけ、その犯罪集団を断罪するという名目でテロ作戦を実行したのです。その段取りは、ヒトラーが専制独裁体制樹立の口実とした33年2月の国会議事堂放火事件と似ています。
スターリンは、キーロフ暗殺直後、現場に行く車中で、“容疑者は短期間の即決裁判で銃殺せよ”など、その後の作戦要領とも言える仕掛けをメモに書きました。これは後「十二月一日法」と呼ばれ、「大テロル」の法制的基盤となります。この経過から見ても、キーロフ暗殺が起きたときには、スターリンの頭のなかにすべて筋書きがあったのですよ。
これを境に、ソ連社会の相貌がすっかり変わったと思います。
石川 この本には、フルシチョフの「秘密報告」(1956年)と合わせて、ゴルバチョフ時代にソ連共産党の政治局特別委員会が「大テロル」を調査したことも紹介されています。彼らはどういう動機で調査したのでしょうか。
不破 ソ連全土で無実の人が無数に弾圧され殺された「大テロル」の根本に何があったか言わないわけにいかなくなったのが、ソ連共産党第20回大会でした。フルシチョフの報告はいいかげんなもので、彼は、第22回党大会(1961年)でも、キーロフ事件についてもう少し詳しい報告をしますが、調査を徹底しないうちに失脚します。
ゴルバチョフ自身もいいかげんで、スターリンの「農業集団化」をほめたたえたりしていました。しかし、いま話題に出た政治局特別委員会は、「大テロル」がスターリンの意識的な計画で生み出されていった全経過を調べ上げました。調査結果をまとめた報告書は89年に「ソ連共産党中央委員会通報」に連載され、米国の歴史学者ラカーの著書『スターリンとは何だったのか』でその重要部分が紹介されています。
これには、スターリン自身が、キーロフ暗殺事件をはじめ「大テロル」の筋書きを描き、調査機関に拷問の結果まで詳しく報告させていた経過が出ています。ところが、この報告が、なぜかソ連でも米国でも、ほとんど利用されないままになっていました。
「大テロル」の真相を隠す道具立て
山口 不破さんは、スターリンが仕掛けた陰謀のシナリオが3段階で進化を遂げていくのを、「大テロル」の経過全体を分析して読み取ってきました。報告書に示された調査結果は、この分析の結論の裏づけとなりましたね。
レーニン時代からソ連共産党の幹部だったブハーリンをモスクワ裁判で弾圧する仕掛けも、スターリン自身がつくっていたことには驚きました。スターリンは、一連の弾圧裁判を、「見世物裁判」に仕立てあげ、ロシア語、英語による記録本をつくって、世界各地にばらまきました。それだけ見ると本人たちが罪を認めたように読めますが、そこにいろんな仕掛けがあったわけですね。
不破 ブハーリンの遺書を読むと、ブハーリンもスターリンの真意を知らなかったのですね。スターリンに弾圧された人たちは誰も真相をつかまないまま殺されてゆきました。
スターリンの病的な猜疑心(さいぎしん)によるものだとか、スターリンはNKVD(エヌカーヴェーデー=内務人民委員部)にだまされてテロをやっているのだという見方が広くありました。ブハーリン夫人のラーリナさえ長期に収容所に送られながら、スターリンが真相を知れば助けてくれると思っていたんです。
石川 さらにスターリンはテロをソ連社会の全体に広げるため、超法規的な「トロイカ体制」を各地につくっていったのですね。
不破 スターリンは「農業集団化」の時、反対する農民を「富農」としてすべて追放します。「富農」かどうか判定するのに、地方の党委員会書記やソビエト執行委員会議長らで三人組をつくり、即決裁判で農民の追放を進めました。それが「トロイカ体制」です。
スターリン自身が1千万人追放したと言っているように、膨大な人間を弾圧する仕掛けでした。おまえの地方では何万何千の人間を整理せよ、超過達成せよ、という調子です。
石川 そのような行為に対して、社会の中から抵抗は出てこなかったのでしょうか。
不破 出てくる条件がなかったのでしょう。戦争中の日本みたいなものです。ただ、日本共産党の幹部たちは、天皇絶対の専制体制が敵だと分かっていました。しかしソ連では、誰にも真相が分からないまま弾圧が広がりました。
NKVDの責任者を務めたベリヤは収容所体制を一つの有力な「産業」部門にまでしました。収容所という非常に安い労働コストで、大運河や原爆をつくりました。日本のシベリア抑留者もベリヤ部門に配属されたのです。
ポーランド共産党解散の本当の目的は?
山口 スターリンが1937年にポーランド共産党を解散させ、非公表にする措置を取って、闇の中の出来事にしようとしたことも裏づけられましたね。スターリン死後、56年2月、ソ連、ポーランド、イタリア、ブルガリア、フィンランドの5党による共同声明が発表され、ポーランド共産党解散の誤りを認めました。不破さんは、ポーランド共産党の解散について、スターリンの領土拡張主義に向かう地ならしという特別の目的があったと喝破しています。
不破 ポーランド共産党の解散というのは本当に無理な話でした。海外の「階級敵」の危険があるといって、スターリンの指導のもとでNKVDがソ連在住の亡命者やコミンテルンの機構のメンバー、他国の亡命中の幹部まで大量に逮捕、弾圧します。特にその矛先を向けられたのがポーランド共産党です。
ポーランド共産党の書記長のレンスキーや、亡命してパリで非合法活動をしていた指導部もコミンテルンに呼ばれ、到着するとすぐにNKVDの管理下に置かれ、処刑されました。レンスキーの「自白書」には、党をつくった最初からスパイで、指導部にも地方にも全部スパイを配置したと書いてあります。スターリンは、パリにいた指導的幹部もソ連で活動していた幹部も根こそぎ絶滅したのです。
石川 ユーゴスラビアのチトーも危ないと思ったときがあったが、38年10月ごろまでに共産党解体の危機は去ったと回想していましたね。スターリンが、「大テロル」を終結させると決めたきっかけは何でしょうか。
不破 専制体制の確立という目的がほぼ達成されたこと、くわえて対ドイツ政策の変更の必要性があったと思います。スターリンは、「ドイツの指図によるソ連へのテロ」を口実に「大テロル」をやってきた。それをそのままに続けていたのでは、独ソ間に友好関係を結ぶことはできません。それには、38年中に「大テロル」を清算する必要があった。
山口 「大テロル」を終結する方法も、非常に特徴的ですね。
不破 コミンテルン第7回大会で執行委員会に送られたソ連共産党の幹部で、「大テロル」の執行役だったエジョフとモスクヴィンは、38年末に解任されます(その後処刑)。こういう具合に、テロを組織した責任者がすべてテロで殺され、真相が闇にほうむられるわけです。
「世代の絶滅」で個人専制の体制きずく
山口 不破さんは、スターリンは何を目的に「大テロル」をおこなったのかという問いに対し、「大テロル」以前と以後で何が変わったかを見れば、答えが出てくると述べています。
そうすると、スターリンが専制的な独裁体制を確立したことがズバッと出てくる。単なる反対派の排除ではなく、スターリンの決定に無条件に服従する政治体制をつくることに目的があった、と。
石川 スターリンは、国内では政敵をすべて排除し、コミンテルンを上意下達の機関に変質させながら、それでも自分の行為を社会主義・共産主義の言葉で飾りつづけます。スターリンはなぜ、世界の共産主義運動の指導者たりえたのでしょうか。スターリンを疑うことのできない空気は、どのようにつくられたのでしょう。
不破 個人の専制支配を可能にするには、個人崇拝、スターリン絶対信仰がないとダメです。それで、スターリンは「世代の絶滅」を強行したのです。レーニン時代は、ソ連共産党内でもコミンテルンでも、自由な討論がおこなわれました。だから、レーニンとその時代を知っている人がいると困るのです。政策転換が求められるときに、批判勢力になる可能性があるからです。
「大テロル」が終結した翌年39年のソ連共産党大会の代議員名簿を調べると、代議員1570人のうち、十月革命以前に入党した人は34人しかいません。たったの2%です。革命前の入党者は、ほとんど絶滅してしまったのです。
「公開裁判」もすごい役割を果たしました。外国の共産党が真相をつかめないなか、かつての指導者が、死刑になると分かっていながら裁判で誤りを認めたわけで、裁判の公正さを装うものになりました。
反ファシズム人民戦線運動も、ある意味で、「大テロル」を覆い隠す役割を果たしました。独ソ不可侵条約が結ばれる直前、人民戦線を支持する米国の知識人の間でソ連の人気がものすごく上がりました。「大テロル」と「公開裁判」を目の前にしながら400人がソ連支持の声明を出した。スターリンは、反ファッショ人民戦線運動の威光も利用して指導性を保ったのです。
もう一つは、38年に『ソ連共産党小史』を出したことです。コミンテルンの決定もなしに、イタリアやフランスなど主要共産党指導部の連名で、革命の武器として勉強せよという声明を出しました。指導性を確保するため、あらゆる手段を使っていたのです。
山口 今度の研究は、スターリン覇権主義をめぐる研究に、新しい飛躍をもたらしました。スターリンの巨悪をきちんと認識し、歴史の真実を明らかにしてゆくことは、科学的社会主義の事業を発展させるためにも、大きな財産になります。
今年は、戦後70周年ということであらためて歴史が振り返られるでしょう。世界の平和・民主主義の秩序がどうつくられたのか知る上でも今度の研究から学ぶものは大きいと思います。
不破 予告編ですが、これまで私たちは、日本共産党の「五〇年問題」の経緯を解明してきましたが、スターリンが、資本主義国の中で日本にだけ武装闘争を要求した理由が謎でした。今度の研究では、その答えを探究することも一つの課題となりました。
コミンテルン 1919年、レーニンの指導のもとにつくられた国際組織、共産主義インタナショナルの略称。1943年に解散。日本共産党は22年に加入。
全6巻が順次出版されるのにあわせ、鼎談をおこなう予定です。