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2025年8月19日(火)

主張

シベリア抑留被害

官民一体の体制で実態解明を

 アジア・太平洋戦争末期、日本軍降伏後にソ連の最高指導者スターリンの秘密指令により、中国東北部(満州)や朝鮮北部にいた日本軍兵士ら60万人(推定)がシベリアに抑留されました。監視付き収容所(ラーゲル)に閉じ込められ、強制労働を課され、6万人といわれる人命が奪われました。

 戦後80年、抑留体験者が千人以下になるなか、歴史の教訓として未来世代に語り継ぐため、加害国のロシアの専門家らを交えて官民一体の体制で実態解明などに力を尽くすときです。

■日本軍が極秘要請

 悲劇はなぜ起きたのか。日本兵は武装解除され「日本に帰す」という言葉にだまされて貨物列車で極寒のシベリアなどに送られました。捕虜のすみやかな送還を明記した国際法や「ポツダム宣言」に反する重大な人権蹂躙(じゅうりん)です。

 秘密指令の背景に、大本営で活動していた朝枝繁春参謀がソ連軍の司令官に極秘要請していたことが不破哲三氏や元抑留者らの研究で明らかになっています。「武装解除後の軍人は『ソ』連の庇護(ひご)下に満鮮に土着せしめて生活を営む如(ごと)く『ソ』連側に依頼するを可とす」(関東軍方面停戦状況に関する実視報告)です。シベリア抑留はソ連と日本の戦争指導部の“合作”で引き起こされたものでした。

 東京・新宿にある平和祈念展示資料館で、100歳になりながら3年間の抑留体験の語り部活動をする西倉勝氏は、「つらかったのは強制労働。真冬に水道管を埋める作業は進まず、労働に応じた食事は黒パンと馬のエサになるコーリャンやアワ。飢えに苦しみ、野にあるタンポポまで煮て食べた」と証言します。

 犠牲になった6万人は飢えと寒さ、病気などで亡くなりました。生きて家族の元に帰れるはずの、不当な拉致犠牲者でした。

 2010年、元抑留者や遺族の粘り強い運動で超党派の議員立法で成立した「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)は、国の責任を初めて認めました。

 生存していた日本国籍の元抑留者約6万9千人に1人平均28万円の特別給付金を支給しましたが、日本の植民地だった台湾や朝鮮半島出身者は対象外でした。

■不戦の誓い後世へ

 それから15年、特措法の柱である実態解明とシベリアに残されたままの約4万人の遺骨収集事業は、コロナの感染拡大やロシアのウクライナ侵攻もあり大幅に遅れています。記録も遺骨もロシアにあります。ロシアとの外交交渉で調査の迅速化が必要です。

 外国籍抑留者への救済措置など特措法の改正や強化も急ぐべきです。

 元抑留者らが呼びかけて毎年8月23日に東京・千鳥ケ淵戦没者墓苑で追悼の集いが開かれていますが、国による追悼式典の開催を関係者は切望しています。戦没者が約2万人の硫黄島では政府主催で追悼式が行われており、国は要望を検討すべきです。戦争がもたらした悲劇を国民が共有し、憲法に基づく不戦・非戦の誓いを後世へ伝える手だても検討すべきです。


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