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2025年8月15日(金)

戦後80年

侵略戦争と植民地支配 正面から向き合うとき

 戦前の日本軍国主義による侵略戦争によって、軍人・軍属などの戦死者や民間人の犠牲者は310万人以上、アジア・太平洋地域では2000万人以上の犠牲者が生まれ、史上最大の大惨害がもたらされました。その終戦から80年、政府が憲法違反の大軍拡と「戦争国家づくり」をすすめています。さらに、侵略戦争と植民地主義を肯定・美化する歴史逆行の勢力が政権の中枢にいたことが、外国人への敵意と差別をあおる排外主義の勢力を生み出し、参院選での伸長につながっています。天皇制政府による過去の侵略戦争と植民地主義に向き合うときです。


韓国併合 今も不法性を認めず

 戦前の日本軍国主義による侵略と36年間の植民地支配は、朝鮮半島の人々から国を奪い、人間の尊厳を奪い、言葉や名前すら奪いました。その傷痕と怒りは今も消えず、今日の日韓関係を考える上でも、これとどう向き合うかが問われています。

 日本の天皇制政府による朝鮮への植民地支配はどのように進められたのか―。明治維新から間もない1875年、日本はソウル入り口の江華島に軍艦を派遣して挑発し、砲台を占領して大砲などを強奪。76年に不平等条約「日朝修好条規」を押しつけて朝鮮への圧迫を続け、日清戦争(94~95年)で本格的に朝鮮侵略に乗りだしました。

 94年当時、朝鮮では官吏の腐敗と重税に反対して東学農民運動が起こっていました。朝鮮王朝政府の要請で清国(中国)が出兵したのに対抗し、日本は要請もないのに、6000人もの大軍を派遣しソウルを制圧。清との開戦直前、朝鮮王宮を軍事占拠して国王と王妃を拘禁し、軍事的脅迫のもと日本よりの政権をつくり、清に戦争をしかけました。同時に日本軍は、東学農民軍を大量虐殺し、その犠牲者は5万人に迫ると言われています。

 続く日露戦争(1904~05年)は韓国(1897年に朝鮮から改称)と中国東北部を巡る日露双方による侵略戦争でした。日露戦争中の04年に日本は韓国政府に「第1次日韓協約」を結ばせ、財政と外交の事実上の実権を掌握。日露戦争終結後は、外交権を取り上げ、韓国統監府(初代統監・伊藤博文)を設置させる「第2次日韓協約」を締結しました。

 さらに第3次協約(07年)で軍隊を解散させ、司法・警察権も掌握。1910年に「韓国併合条約」を押しつけ、韓国を日本の完全な植民地にしました。

 民衆は、こうした植民地化に抵抗、韓国全土に「反日義兵闘争」(06~11年)が広がりました。これに対し日本軍は、村落を焼き払い、義兵を大量に殺害し、見せしめに日本軍に非協力的な民衆を殺傷。苛烈な弾圧を加えました。

 韓国併合は、日本軍の侵略、殺害、脅迫、軍事的圧殺によって実現したものでした。

 その後、天皇制政府は、45年までの36年にわたり朝鮮半島を植民地支配しました。日本では植民地支配を巡り“インフラも整備し、朝鮮の近代化に寄与した”といったゆがんだ俗説が振りまかれています。しかし、インフラ整備の目的も、あくまで日本の天皇制政府を支え侵略戦争を遂行することにあり、だからこそ朝鮮総督府(初代総督・寺内正毅)は植民地下の民衆を徹底的に弾圧しました。

 10年の併合条約の調印直後、結社は解散、政治集会も禁止。憲兵と警察が暴力的支配を行いました。土地調査事業では、多くの農民から土地の所有権を奪取。取り上げた土地の大部分は日本人に安く払い下げられました。

 これに対し朝鮮の民衆は19年3月、独立をめざす「三・一独立運動」を起こし、約3カ月にわたって朝鮮全土に広がり、数百万人が参加したと言われます。総督府はこの運動にも軍隊を動員してすさまじい弾圧を行い、死者7000人、負傷者4万人、逮捕者は5万人に及びました。

 日本が37年に中国全面侵略を進めるようになると、朝鮮の民衆を戦争にかり出すため、朝鮮の文化を破壊し、日本の天皇のために進んで命を捨てる人間をつくりだす「皇民化政策」を推進しました。

 同年には「皇国臣民ノ誓詞」を制定し、「心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします」と毎日唱和させました。学校では日本語だけで教育を受けさせ、朝鮮語の使用を禁止。40年には名前を日本式に変えさせる「創氏改名」を実施しました。

 30年代後半に入ると日本では成人男性の徴兵により、労働力不足が深刻になり、朝鮮の人々も日本の炭鉱や鉄工所、軍需工場などへ強制的に動員されました。戦況が悪化した44年には徴兵制も適用。朝鮮から23万人が戦場に送り込まれました。

 日本軍は各地の戦場に、戦時性奴隷制である「慰安所」をつくり、植民地にした朝鮮や台湾、アジアの占領地、日本国内の女性たちを「性奴隷」として移送しました。

 戦後、日本政府は韓国との国交正常化交渉で「韓国併合」を不法・不当なものと認めませんでした。今も植民地支配の不法性を認めず、被害者らが求めている謝罪と賠償を拒み続けています。

領土拡張 中国・アジアに拡大

 戦前の天皇絶対の専制政治が、領土拡張と他国の支配を目指す本格的な侵略戦争に踏み出したのは、朝鮮支配を目的とした1894年の日清戦争と1904年の日露戦争です。朝鮮の次の目標は中国でした。

 日露戦争に勝利した日本は、遼東半島の一部(旅順・大連など)、南満州鉄道の権利を獲得。中国へ領土を拡張する足がかりを得ます。これらの権益を守るために南満州(中国の東北地方)に関東軍を配置。天皇に直属する強力な部隊となりました。

 第1次世界大戦が開始した頃、天皇制政府は15年に中国を従属国にするような「二十一カ条の要求」を中国政府に突きつけました。

 27年に外務省と陸海軍、関東軍の首脳が参加した「東方会議」が開催され、武力で中国の征服を計画。田中義一首相が行った訓令「対支政策綱領」の中で、「満蒙(まんもう、満州とモンゴル)」を中国から切り離して日本の支配下に置く「満蒙分離」方針を初めて明示。日本軍の武力出動もありうると明記しました。

 中国東北部に対する本格的な侵略戦争となる31年の「満州事変」は、45年の敗戦に至る「十五年戦争」の発端となりました。これを計画、実行したのは関東軍で、南満州鉄道の路線を爆破し、中国軍の攻撃だと偽り軍事行動を開始(柳条湖事件)。天皇制政府も謀略と知りながら追認しました。半年ほどで満州全域(遼寧、吉林、黒竜江の3省)を占領し、32年3月に関東軍によるかいらい国家「満州国」を建国。33年2月にはモンゴルの一部だった熱河省へ侵略を広げ、「満州国」に取り込みました。

 「満州事変」後、天皇制政府は領土拡大の次の目標を北京や天津など中心都市のある華北から内モンゴル一帯に定めます。37年7月に北京近郊で日本軍が発砲を受けたという事件(盧溝橋事件)を口実に、日本は対中国全面侵略戦争=日中戦争に乗り出します。

 日本軍は一撃で中国を屈服させる戦略でしたが、中国は抗日民族統一戦線を結成し抵抗しました。日本軍は占領した南京で捕虜や一般市民などを殺りく、1日1000人の女性を犠牲にする性的暴行、建物への放火、家具や現金を略奪するなどあらゆる蛮行を尽くしました。農村では農作物を奪い農家を焼き払いました。犠牲者数は約十数万人から20万人以上とされています(南京大虐殺、37年12月から)。他の占領地でも「三光作戦」(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)を展開し、生物化学兵器まで使用しました。

 日中戦争の行き詰まりを打開しようと、天皇制政府は40年中ごろから領土拡張主義の新たな野望に踏み出し、豊富な資源を持つ東南アジアを制圧する南方作戦に取りかかります。40年9月、南方侵略をドイツの了解の下に進めるため日独伊三国軍事同盟を締結。日本がドイツ、イタリアの欧州で支配権を認める一方で、ドイツ、イタリアがアジア・太平洋にまたがる広大な「大東亜」地域で日本の支配権を認めるものでした。

 同時に南方作戦の足場を確保しようと、蒋介石(しょう・かいせき)政権への援助ルート遮断を名目に北部フランス領インドシナ(仏印・現在のベトナム北部)に進駐。こうした南方進出の一方、日本は戦争に必要な物資の大部分を米英から購入していたため、対米交渉を続けていましたが、41年7月、アメリカの事前の警告を無視して南部仏印にも進出します。アメリカはただちに対日石油輸出禁止の経済制裁を実行しました。

 日本は41年11月、天皇出席の「御前会議」で対米英戦争を決定。日米交渉ではアメリカは中国や南方の侵略を認めませんでした。41年11月26日に日本に示した回答(ハル・ノート)はアジアを「満州事変」以前の状態に戻すことを要求。しかし、同日に日本の機動部隊は真珠湾攻撃を目指して南千島から出航していました。

 12月8日、天皇制政府が東南アジア全域にわたる侵略戦争を始めると同時に、アメリカの真珠湾に奇襲攻撃する「アジア・太平洋戦争」に突入しました。日本は半年間に東南アジアの主要部分を占領。戦争を続けるために必要な物資を手に入れるという思惑でした。

 42年のミッドウェー海戦とガダルカナル作戦で日本軍が敗北すると戦局は大きく転換し、日本軍の敗戦が続きます。44年から米軍はB29による日本本土への空襲を開始し、45年の東京大空襲をはじめ諸都市を爆撃。原爆投下によって広島では約14万人が、長崎では約7万人が年末までに亡くなりました。その後、ソ連が対日参戦し、日本は8月14日にポツダム宣言受諾を決定。15日に天皇は国民に敗戦を伝えました。

 「満州事変」から15年にわたる侵略戦争は、2000万人以上のアジア諸国民と310万人を超える日本国民の命を奪い、日本軍の戦死者の半数以上が餓死と戦病死でした。

世界の本流 補償と謝罪 時効なし

 日本や欧米が行った植民地支配や奴隷制度は、人種差別などいまなお続く不当な抑圧や搾取、南北経済格差などに大きな影響を与えています。抑圧された人々や国々は謝罪や補償を求めて声を上げ、正義の追求を続けてきました。

 こうした声に応えたのが「ダーバン宣言」です。アパルトヘイト(人種隔離)を打ち破った南アフリカのダーバンで2001年8月から9月にかけて開かれた「人種主義、人種差別、外国人排斥および関連する不寛容に反対する世界会議」で採択され、植民地支配と奴隷制度は過去にさかのぼって非難されなければならないとしました。以来、植民地支配や奴隷制度に“時効”はないとの考えが普及し、過去の過ちを謝罪し、補償に向けて踏み出す動きが広がっています。

 ダーバン宣言は、奴隷制を「人道に対する罪」と規定。「植民地主義が起きたところはどこであれ、いつであれ、非難され、その再発は防止しなければならない」とし、「この制度と慣行の影響と存続が、今日の世界各地における社会的経済的不平等を続けさせる要因である」と指摘しました。

 21年にはダーバン宣言の採択から20周年を記念する国連のハイレベル会合が開かれ、人種差別や外国人嫌悪と闘う主要な責任は国にあると指摘し、法整備などを行うよう促す政治宣言を採択しました。国連のグテレス事務総長は、人種差別の根源に「数世紀にわたる奴隷制度と植民地の搾取」があり、「過去の犯罪が現在に及ぼす影響を認識せねばならない」と強調。バチェレ国連人権高等弁務官(当時)は、植民地支配の補償には、謝罪のほか、損害賠償、再建、記憶の継承、教育などの広範な措置が必要だと強調し、補償は「(宗主国が)奴隷制度や搾取によって経済を豊かにしてきたことを合わせて考えられるべきだ」と述べました。

記憶の継承も

写真

(写真)色とりどりの衣装で奴隷制廃止から150年を記念した式典に参加した人たち=2023年7月1日、アムステルダム

 会合では、植民地支配や根強く残る人種差別の補償のあり方について、謝罪だけでなく、記憶の継承や次世代の教育など包括的な対応を求める声が上がり、補償を求める議論はさらに発展を見せています。

 市民の運動や植民地支配を受けた国々の要求を受けて、近年、過去の植民地支配や奴隷制度を謝罪し、補償に踏み出す動きが広がっています。

 20年5月、米国で起きた黒人男性殺害事件をきっかけに、人種差別に反対する「BLM(ブラック・ライブズ・マター)」運動が広がると、運動により社会に構造的に組み込まれた人種差別に光が当たり、奴隷制度や植民地支配を見直す動きに発展。南北戦争時に奴隷制の存続を主張した「南部連合」にちなんだ記念建造物の撤去や施設名の変更が各地で進み、過去の奴隷制度や人種差別を謝罪し、独自に賠償や補償を行う自治体も相次ぎました。

 BLM運動に連帯する市民運動は米国以外にも拡大し、欧州では植民地被害を受けた国々の要求に応える動きにつながりました。

 ドイツ政府は21年5月、旧植民地のナミビアでの大虐殺を認めて謝罪し、補償金の提供を発表しました。ベルギーでは22年6月に国王が旧植民地のコンゴ(旧ザイール)を訪れ、過去の植民地支配に「深い遺憾の意」を表明。オランダは同年12月に政府が植民地支配について公式に謝罪し、翌年7月には国王がこれに続きました。

 24年10月に南太平洋のサモアで開かれた、英国とその旧植民地国を中心に構成された「英連邦」の首脳会議では、英国が関与した奴隷貿易と奴隷制への賠償問題が議題になりました。英国が議論に後ろ向きの姿勢を示す中でも、会議は旧植民地国の要求に基づき、大西洋奴隷貿易と奴隷制度に関する「補償的正義」について、「対話を行うときが来た」と明記したコミュニケに合意しました。

 これらの国は、植民地国から不法、不当に持ち出した「略奪文化財」の返還も進めています。

 先住民政策を問い直す動きも広がっています。メキシコは21年5月、大統領が16世紀以降のスペインによる植民地支配や独立後にも続いた先住民への迫害を謝罪。オーストラリア政府は同年8月、「過去の出来事を申し訳ないと思うだけではなく、その責任をとる」として先住民同化政策への賠償を決定しました。

 22年7月には、ローマ教皇がカトリック教会によるカナダの先住民への虐待を謝罪。先住民への同化政策に対する謝罪や補償は、デンマークやニュージーランドでも進められています。

 こうした世界の流れに逆らい、日本では、1995年の「村山談話」などで示してきたアジア諸国に対する「植民地支配と侵略」の事実を薄める試みが続いています。

反省欠く自民

 とくに12年に第2次安倍政権が発足して以降は、毎年8月15日の全国戦没者追悼式の式辞からアジア諸国に対する侵略戦争への言及が一掃されました。15年の戦後70年にあたっての首相談話では、朝鮮半島の植民地化を進めた日露戦争を賛美。侵略戦争への無反省は、その後の自民党政権でも踏襲されてきました。

 先住民政策を巡っても、19年にアイヌ民族を初めて先住民と規定する「アイヌ施策推進法」が成立した一方、政府による謝罪は行われていません。

 日本共産党は24年1月の第29回大会決議で、「人権問題の前進、奴隷制と植民地支配の歴史的責任を明らかにする流れ」が「世界の本流」として発展していると明らかにしています。ダーバン宣言と、それに続く各国の取り組みを強調し、「こうした世界の流れに照らしても、いまだに過去の侵略戦争と植民地支配への真摯(しんし)な反省を欠いた自民党政治のあり方が厳しく問われなければならない」と指摘しています。

 過去の歴史と向き合う世界と連帯し、真摯な反省に基づく謝罪や補償にいまこそ踏み出すときです。


歪曲と欺瞞の「安倍談話」

 戦後70年(2015年)に安倍晋三首相(当時)が出した「安倍談話」は、「植民地支配と侵略」への反省を過去のものとし、歴史の事実を乱暴に歪曲(わいきょく)する内容でした。

 同談話は「侵略」「植民地支配」に触れています。しかし、誰が行ったのかを明確にしていません。「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も…」「圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は19世紀、アジアにも押し寄せました」と言うように、日本が「侵略」し、日本が「植民地支配」を行ったとは述べていませんでした。さらに、「反省」と「お詫(わ)び」も過去の歴代政権が表明したという事実に言及しただけで、安倍首相の言葉としては語らないという欺瞞(ぎまん)的なものです。

 「村山談話」(1995年)は、日本の「国策を誤り」「植民地支配と侵略」を行ったという歴史認識を示し、「痛切な反省」と「心からのお詫びの気持ち」を表明。「日韓パートナーシップ宣言」(98年)には、「日本の韓国に対する植民地支配への反省」という表明が日韓共同の公文書で初めて書き込まれました。

 日本軍「慰安婦」問題については、「河野談話」(93年)で軍の強制を認め、「心からお詫びと反省」を表明していましたが、「安倍談話」は一言も触れていません。「安倍談話」はこれら“三つの重要文書”からの重大な逆行でした。

 「安倍談話」は、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」と日露戦争での勝利を評価しました。

 日露戦争は、朝鮮や中国東北部(満州)の支配権をめぐる日露双方からの侵略戦争でした。その帰結として、朝鮮半島の植民地化=「韓国併合」が行われたのです。

 日露戦争直後に、ロシアの敗北を帝国主義の抑圧に苦しむ諸民族が歓迎したという事実はありますが、すぐに真実は明らかになりました。インドの独立・建国の父の一人、ジャワハルラル・ネールは『父が子に語る世界歴史』で「その(日露戦争)直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった」と指摘しています。


日本の侵略戦争と戦後の80年

1874年5月  台湾出兵(~同年10月)

  75年9月  江華島事件。日本軍が朝鮮側の砲台を攻撃し一時占拠

  94年7月  日清戦争(~95年4月)。下関条約で清朝に台湾を割譲させ日本が奪取

  95年10月 日本公使館守備隊などが李氏朝鮮の王妃・閔妃(ミンビ)を殺害

1904年2月  日露戦争(~05年9月)

  10年8月  韓国併合

  14年9月  青島攻撃(~同年11月)などで第1次世界大戦に参戦

  18年8月  シベリア出兵(~25年5月)

  19年    韓国で三・一独立運動、中国で五・四運動勃発

  27年5月  山東出兵(~28年)

  31年9月  満州事変(~33年5月)

  33年3月  日本が国際連盟を脱退

  37年7月  盧溝橋事件。日中戦争始まる

     12月 南京大虐殺事件

  39年9月  独がポーランド侵入。第2次世界大戦始まる

  40年9月  日独伊三国軍事同盟

  41年12月 アジア・太平洋戦争始まる。日本軍のマレー半島上陸・真珠湾攻撃

  42年6月  ミッドウェー海戦で日本大敗北

  43年12月 米・英・中がカイロ宣言

  45年2月  フィリピン戦敗退

     3月  東京大空襲。前後して全国各地に大規模な空襲攻撃

     3月  沖縄戦(~同年6月23日)

     5月  ドイツ降伏

     7月  ポツダム宣言発表

     8月  広島・長崎に原爆投下

     8月  日本がポツダム宣言受諾し敗戦

     9月  日本政府が降伏文書に調印

  46年4月  20歳以上の男女が投票権を行使した戦後初の総選挙実施

  46年11月 日本国憲法公布。第9条で戦争放棄と戦力不保持を規定

  48年11月 極東国際軍事裁判(東京裁判)で戦争犯罪人25人が有罪に、うち7人に死刑判決(翌12月に絞首刑執行)

  50年8月  マッカーサー指令に基づき警察予備隊設置

  51年9月  サンフランシスコ平和条約、日米安保条約締結(52年4月発効)。同平和条約で日本は東京裁判判決を受諾

  52年10月 警察予備隊を保安隊に改編

  54年7月  保安隊の陸上自衛隊への改組などにより陸自、海自、空自が発足

  60年1月  日米安保条約改定(同年6月発効)

2014年7月  安倍内閣が集団的自衛権行使容認の閣議決定を強行

  15年9月  集団的自衛権の行使などを認める安保法制=戦争法の成立強行

  22年12月 岸田内閣が安保3文書を閣議決定。敵基地攻撃能力保有や軍事費を国内総生産(GDP)比2%とする大軍拡目標明記


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