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2024年8月3日(土)

主張

日清戦争130年

アジア侵略の歴史 直視する時

 日本がアジアに植民地を持つ起点となった日清戦争から今年で130年です。その歴史を直視し反省することは、日本がアジア諸国との平和と友好の関係を確立するうえで不可欠です。

 1894年8月1日、明治天皇は清国に対する「宣戦詔勅」を出しました。「詔勅」は、日本が朝鮮の悪政の改革や治安維持、独立擁護に努めていると主張する一方で、清国が朝鮮を「属邦」扱いして内政に干渉していると非難しました。

 そのうえで「詔勅」は、日清戦争の目的を「速(すみやか)に平和を永遠に克復」することだとのべました。しかし、日清戦争の経過全体を見れば、それはまったく成り立たないものでした。

■先に攻撃した日本

 94年2月、朝鮮で官吏の腐敗と重税に反対する大規模な農民反乱が起こりました(東学農民革命)。朝鮮政府は鎮圧のため清に出兵を要請し、これに対抗して日本も朝鮮に派兵しました。外国の侵略を警戒した農民軍は朝鮮政府と和睦しました。

 朝鮮政府は日清両国に撤兵を求めましたが、日本は清が拒否すると見越して、日清共同で朝鮮の内政改革にあたることを清に提案し、軍隊を居座らせました。そのため日本と清・朝鮮との関係が緊迫しました。

 7月23日、日本軍は朝鮮王宮に攻め入り国王高宗らを監禁し、高宗の父大院君を復権させて親日派政権をつくりました。そして清の軍隊を朝鮮から追い払うよう依頼する文書を出させ、開戦の口実にしました。

 7月25日、日本軍は清の軍艦を奇襲し日清両国の戦闘が始まりました(豊島沖海戦)。このように日本側が侵略を意図し先に攻撃した事実は見過ごせません。

■力ずくで民衆鎮圧

 日清戦争の主戦場は朝鮮でした。日本軍は朝鮮各地で食料や人馬を強制的に徴発し、戦争を遂行しました。朝鮮の民衆は抵抗し、10月には農民軍が再蜂起したのに対し、日本軍はせん滅作戦を展開しました。

 9月の平壌会戦と黄海海戦で日本軍が勝利した後、戦局は日本が優位となり、遼東半島や山東半島にまで侵攻しました。清は和議を申し出て、95年4月、下関条約が結ばれました。清は日本に台湾・澎湖(ほうこ)諸島と遼東半島の割譲を約束しました。遼東半島はロシア・フランス・ドイツの「三国干渉」で返還させられましたが、日本は初めて海外に植民地を持つに至りました。

 下関条約締結後の95年10月、日本軍は朝鮮王宮を襲撃し、日本の支配に抵抗する王妃・閔妃(ミンビ)を殺害しました。事件は衝撃を与え、朝鮮各地に「義兵闘争」が広がりましたが、日本軍は力ずくで抑圧しました。

 台湾では植民地化に反対する住民が「台湾民主国」成立を宣言して抵抗したのに対し、日本は大軍を派遣して武力鎮圧をはかりました。この「台湾征服戦争」は20年も続きました。

 日清戦争は、朝鮮への清の影響を排して日本が支配することをめざした侵略戦争であり、朝鮮や台湾の民衆の抵抗を抑圧する戦争でした。軍事的対応の拡大が戦争に帰結したのです。その反省に立って日本は、戦争と武力行使、武力による威嚇を禁じた現行憲法を制定しました。今こそ歴史の教訓に学ぶときです。


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