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2023年10月31日(火)

主張

沖縄人民党合流50年

「基地のない島」へ不屈の決意

 1973年10月31日に沖縄で不屈のたたかいを繰り広げてきた沖縄人民党が日本共産党に合流し沖縄県委員会(瀬長亀次郎委員長)を確立して、きょうで50年です。

 人民党は47年の結党以来、米軍の過酷な弾圧に抗し、土地の強奪に反対する闘争をはじめ、祖国日本への復帰運動の先頭に立ち続けてきました。そこには「県民が島ぐるみで団結するならば、アメリカの植民地的な支配の現状を必ず変えられるという強い信念と、たたかいの前途を科学の力で見通してゆく先駆性」(『日本共産党の百年』)がありました。

強い信念と先駆性の発揮

 日本との講和条約(サンフランシスコ平和条約)も結ばれておらず、米軍の全面占領下に置かれていた時期の沖縄で、祖国復帰を口にするのはタブーでした。そうした下で祖国復帰を堂々と訴えたのが人民党でした。50年の沖縄群島知事選挙(1回で廃止)に立候補した人民党の瀬長亀次郎氏が4万人を超える県民であふれた立会演説会で祖国復帰を訴え、次の一節で演説を結んだことは有名です。

 「このセナガひとりが叫んだならば、五十メートル先まで聞こえます。ここに集まった人びとが声をそろえて叫んだならば全那覇市民まで聞こえます。沖縄の九十万人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波をこえて、ワシントン政府を動かすことができます」(『沖縄の心―瀬長亀次郎回想録』から)。

 この時、「カメさん(瀬長氏)の背中に乗って祖国の岸へ渡ろう」というキャッチフレーズも生まれ、後に祖国復帰は全県民の要求になっていきました。

 52年4月28日発効のサンフランシスコ平和条約は第3条で沖縄を日本から切り離し永続的な米軍統治を可能にしました。人民党は直ちにサ条約第3条撤廃の要求を打ち出しましたが、当初は多数の声になりませんでした。しかし60年に自民党以外の全政党、広範な労組・団体を結集し結成された沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)の活動方針に掲げられました。日米安保条約についても廃棄を主張しつつ復帰協での学習に取り組み、やがて闘争目標に据えられます。

 沖縄の革新民主勢力は68年の三大選挙(琉球政府主席、立法院、那覇市長)で歴史的勝利を収め、これが決定的な力となり、72年に沖縄の施政権返還が実現します。県民の島ぐるみのたたかいは条約上不可能とされた壁を打ち破り、祖国復帰を可能にしました。

 瀬長氏は「アメリカ軍の土地強奪に反対するたたかいや、祖国復帰闘争をすすめるうえで大きな励ましとなったのが(57年の)日本共産党の綱領草案」だったと語っています。同時に、共産党の綱領を決めた61年の第8回大会での宮本顕治書記長(当時)の報告が沖縄県民のたたかいを高く評価したことに「われわれのたたかいが綱領路線確定に寄与できたことに大きなよろこびを感じた」と述べています。(『沖縄人民党の歴史』)

連帯を通した歴史的必然

 沖縄人民党と日本共産党の合流は、対米従属体制に反対する連帯を通しての歴史的必然でした。両党の合流半世紀に当たり、辺野古の米軍新基地建設に反対するたたかいの前進、「基地のない平和で豊かな沖縄」の実現へ力を尽くす決意を改めて固め合いましょう。


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