2023年2月11日(土)
主張
「建国記念の日」
戦争あおった歴史繰り返さず
きょうは「建国記念の日」です。この日は、戦前に「紀元節」として制定されました。明治政府が1873年、天皇の支配を権威づけるため、「日本書紀」に書かれた建国神話をもとに、架空の人物「神武天皇」が橿原宮で即位した日としてつくりあげたものです。科学的・歴史的根拠はありません。
ドイツ人医師の日記に
戦前の天皇制政府は、ことあるごとに「紀元節」を国家主義と軍国主義を国民に浸透させるために利用してきました。国を統治する全権限を天皇が握る専制政治の仕組みを法制的に確立した大日本帝国憲法(明治憲法)の公布も、1889年のこの日でした。
当時、東京帝国大学の教授として着任していたドイツ人医師エルウィン・ベルツは、同年2月9日の日記に、こう書きました。「東京全市は、十一日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。到(いた)るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容をご存じないのだ」(菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』)
1週間後の2月16日には、こうも記しています。「日本憲法が発表された。もともと、国民に委ねられた自由なるものは、ほんのわずかである。しかしながら、不思議なことにも、以前は『奴隷化された』ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって憤慨したあの新聞が、すべて満足の意を表しているのだ」
国民の権利と自由を奪った明治憲法体制は、こうして「紀元節」を節目に確立したのです。
その後、朝鮮半島の支配をめぐり清国と対立が激化し、日本の軍事費は増大します。93年、帝国議会の衆議院が政府を追及し、予算案から軍艦建造費を削除しました。これに対して明治天皇は、2月10日に「和協の詔勅」を出して政府への協力を求めました。
「詔勅」は「紀元節」の日の新聞に掲載され、議会は政府と妥協し、軍拡予算を承認します。94年に始まった日清戦争では、95年2月11日に清国艦隊の拠点・威海衛の陥落が公表され、新聞は日本軍の勝利を書きたてました。
1904年の日露戦争開戦にあたっても「紀元節」が利用されました。日本海軍が仁川と旅順にいたロシアの軍艦を奇襲攻撃して戦闘が始まりましたが、宣戦布告は2月10日でした。翌11日の新聞は、日露開戦と仁川・旅順の勝利を大々的に報道しました。
41年に始まったアジア・太平洋戦争でも、英国海軍の根拠地であるシンガポール攻略作戦を42年の「紀元節」にあわせて実施し、戦意高揚をはかりました。
岸田政権の大軍拡阻もう
戦争推進と深く結びついた「紀元節」は戦後、国民主権と思想・学問・信教の自由、恒久平和を掲げた日本国憲法の制定に伴い、48年に廃止されました。しかし佐藤栄作政権は66年、祝日法を改悪して「建国記念の日」を制定し、「紀元節」を事実上復活させました。
岸田文雄政権は、憲法の平和主義を投げすて、敵基地攻撃能力保有と大軍拡にひた走っています。歴史の教訓を忘れた暴走です。
2月11日にあたり、過去の侵略戦争が日本国民とアジア諸国に与えた惨禍を直視し、岸田政権の「戦争国家づくり」を阻む世論と運動を広げることを呼びかけます。








