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2022年10月5日(水)

記者座談会 「日本共産党100年の歴史と綱領を語る」を読む(5)

国民との共同―統一戦線で政治を変える姿勢をつらぬく

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(写真)第33回衆院選挙で39議席を獲得し、笑顔で記者の質問に答える宮本顕治委員長(中央)=1972年12月、党本部

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(写真)全国革新懇の結成総会。意見発表する宮本顕治委員長=1981年5月26日、東京都内

第一の躍進と、第二、第三の躍進との違い

  日本共産党の党史を貫く第三の特質は、国民との共同―統一戦線で政治を変えるという姿勢を貫いてきた、ということだ。61年綱領確定から60年余のそれは、「政治対決の弁証法」と呼ぶべき支配勢力との激しいたたかいの連続だった。記念講演を聞きながら、多くの党員のみなさんが、その「生きた攻防」史を、自身の党員人生と重ね合わせながら、追体験したのではないか。

  60年余のたたかいを俯瞰(ふかん)してみると、今後に生かすべき歴史的教訓がくっきりと浮かび上がってくる。志位さんが、60年余の攻防には、日本共産党が躍進した三つの時期があると整理して、第一の躍進と、第二、第三の躍進との違いを指摘したのは、その一つだ。

  1960年代末~70年代の第一の躍進は、「60年代に粘り強く続けられた党建設の飛躍的発展という強固な土台のうえに実現した躍進」で、簡単には崩されなかった。1990年代後半の第二の躍進、2010年代中ごろの第三の躍進は、それぞれ重要な成果だったが、党の実力が伴わなかったことを反省的に述べている。

  第一の躍進の時期の攻防は、学生時代のことで記憶に鮮やかだ。党の躍進に対して、70年代中ごろから、国会を舞台にした「春日違憲質問」に象徴される、すさまじい反共大キャンペーンが行われたが、日本共産党は、「負けじ」と正面から大反撃した。ジグザグもあったけど、躍進は70年代末まで続いたんだね。

  党の自力あってこそだ。志位さんは、60年代から70年代のような、「強く大きな党をつくり、その力で選挙に勝ち、さらに強く大きな党をつくる」という法則的発展をかちとろうと呼びかけた。それは、歴史の教訓をふまえた結論といえるもので、胸にすとんと落ちた。

  歴史の教訓ということでいえば、前進している時期も、苦しい時期も、どんな時でも、統一戦線で政治を変えるという姿勢を堅持して貫くということが、いかに大事かということも、身に染みた。記念講演で印象深かったのは、社公合意や「二大政党」づくりなどで「日本共産党を除く壁」が立ちはだかった苦しい時期に、革新懇運動が粘り強く続けられてきたこと、「一点共闘」と呼んだ課題ごとの協力が各分野に広がったことなどに焦点があてられたことだ。

  実際、草の根で粘り強く続けられた共闘の努力は、その後の市民と野党の共闘を支える土台になっている。苦しい時代の頑張りが、次の時代を準備してきた。今後の市民と野党共闘の発展を考えた場合にも、大事な教訓だと思う。

新しい政治を生み出す「夜明け前」―それを現実のものにするために

  記念講演は、60年余の「政治対決の弁証法」を概括し、反共と反動のくわだては、国民の暮らしと平和を破壊する政治と一体のもので、その一歩一歩が、自民党政治と国民との矛盾を広げ、支配体制をもろく、弱いものにしていると断じた。歴史的スケールでの大局的な情勢のとらえ方には、元気をもらった。

  言い換えれば、「大局的・客観的に見るならば、日本はいま、新しい政治を生み出す『夜明け前』となっているといっても過言ではない」と。そうであれば、どうやって「夜明け」を現実のものにするのかだ。

  政治のゆがみを根本からただす日本共産党を躍進させてこそ、「夜明け」は現実のものになるが、その最大の力となり、保障となるのが、やはり強く大きな党をつくることだ。ここで、最初に確認した歴史の教訓を、もう一度かみしめる必要があるね。

  日本共産党の党勢の現状はどうなのか。志位さんは、その実態を率直に報告した。党員現勢約26万人、「しんぶん赤旗」読者約90万人―歴史的にみると、1965~66年の水準だと。そして、この事実を直視し、党建設の飛躍的前進をつくっていった1960年代の初心にたって、党づくりにとりくむことをよびかけた。

  60年代の初心とは? それは、“目標と期限を数字としてかかげて目的意識的・計画的に党建設にとりくむ”ということだ。戦前も戦後直後も、党建設の努力はそれぞれの条件のもとで行われたが、こういう目的意識的、計画的な党建設は、それまでの党の歴史でやったことのない開拓者的なとりくみだったという。

  この挑戦が初めて行われたのが、1959年の7回大会6中総で、次の8回大会までの「党勢倍加運動」の提起だ。党勢拡大を独自の課題として目的意識的に位置付けて、計画的に期日を決めて倍加しようとよびかける「党を拡大強化するために全党の同志におくる手紙」を採択し、当時の92%の支部が返事を書いたという。

  浜野忠夫副委員長の本『時代を開く党づくり』によれば、この方針にたいして、「党が大きくならないのは政治路線が間違っているから」「大衆闘争に力を尽くせば自然と増える。取り組みが弱いから増えない」「綱領が決まらないのに増えるはずがない」などの反対論、消極論が出たそうだが、それらを一つ一つ克服する中で、先人たちは、党づくりを前進させていったという。

  当時と今の状況とは違うけど、「目標と期限をかかげて目的意識的・計画的に」とりくんでこそ、党づくりが前進するというのは、変わらない真実だと思う。自ら決めた目標と期限に責任をもってやりきる党をつくろう―「60年代の初心にたって」というのは、そういうことなんだね。

党の歴史的発展段階と客観的条件 四つの「巨大な変化」に確信をもって

  今、そういう党をつくることは可能なのか。志位さんはこう問いかけて、60年代中頃と比較して、現在の党の歴史的発展段階、党をとりまく客観的条件を大きくとらえたときに、そこには巨大な変化があることを強調したいと、(1)綱領路線の発展(2)自民党政治の行き詰まり(3)党の政治的影響力の大きさ(4)国際政治での主役の交代―の4点を挙げたね。

  ここは、記念講演を聞いたとき、一つ一つ「そうだ」「そうだ」と合点がいったところだ。綱領路線の発展は、この記念講演のなかでも改めて整理されて確信になったし、自民党政治の行き詰まりは、「国葬」や統一協会問題をめぐって、毎日いやというほど見せつけられている。

  日本共産党の政治的影響力の大きさという点では、地方政治における存在感に注目した。60年代中頃の地方議員数は約1200人で、議席占有率1・5%程度だったのが、現在は2527人、議席占有率7・8%。最高時4500人くらいいた地方議員の数は、市町村合併による議員定数の大幅削減で減ったけど、議席占有率でみると最高時8・2~8・3%から少し減っただけで、基本は持ちこたえている。これはすごいと思った。

  国際政治での“主役交代”という点でいうと、何といっても核兵器禁止条約の成立だね。一握りの大国から、世界の多数の国々の政府と市民社会へと主役が大きく代わってきていることを示した。

  ロシアのウクライナ侵略の無法を糾弾する国連総会決議は140カ国超が賛成した。あのベトナム侵略の時は国連安保理も国連総会もただの一つの決議もできなかった。60年代、70年代と比べたら、まさしく「巨大な変化」だ。

  志位さんはこの章の結びとして、「歴史は決して無駄に流れてはいません。この巨大な変化を生かして、未来をひらく強く大きな党をつくるために力をそそぐ決意を、日本共産党創立100周年にあたって固めようではありませんか」とよびかけた。

  「しんぶん赤旗」も、よびかけにこたえて、次の100年に向かって、新しい前進を築くために全力をあげたい。記念講演はまちがいなく、その大きな力になるだろう。(おわり)


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