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2022年5月15日(日)

主張

沖縄本土復帰50年

不屈のたたかいが歴史動かす

 沖縄が1972年5月15日に本土に復帰してから50年です。日本は太平洋戦争の敗北後、52年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約で形の上では独立しました。一方、戦争末期に日本国内で唯一、住民を巻き込んだ熾烈(しれつ)な地上戦が行われ、数多くの犠牲者を生んだ沖縄は、講和条約により本土から切り離され、米軍の占領支配の下に置かれ続けました。沖縄の本土復帰とは、米国の軍事占領を終わらせ、「沖縄を取り戻す」ことでした。それを成し遂げた力は沖縄と本土の連帯したたたかいでした。

米解禁文書が記した力

 講和条約第3条は、▽日本は、米国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下に南西諸島(琉球諸島、大東諸島を含む)などを置くという米国のいかなる提案にも同意する▽そうした提案が行われ、国連で可決されるまで、米国はこれら諸島の領域と住民に対し、行政・立法・司法上の権力を行使する権利を持つ―と定めました。米国は信託統治の提案を実際にはしないで、沖縄の軍事占領を無期限に継続することが狙いでした。

 講和条約発効8周年の60年4月、「沖縄県祖国復帰協議会」が結成され、復帰のたたかいは全県民規模に広がります。本土でも、沖縄返還のたたかいが高まります。68年11月には、沖縄で復帰運動の先頭に立ってきた革新共闘統一候補の屋良朝苗氏が初めて実施された琉球政府主席公選で当選します。

 その直後に沖縄と日本を訪れた米国務省のリチャード・スナイダー日本課長は「われわれは返還問題で引き返し不能の地点(ポイント・オブ・ノーリターン)まで来てしまった」「日本でも沖縄でも(復帰の)圧力が高じ…返還をいつにするかを来年以後にのらりくらり引き延ばすことは、現実に期待できなくなった」と報告します(米政府解禁文書、68年12月24日付出張報告)。沖縄の本土復帰という歴史を動かす原動力となったのが、沖縄での島ぐるみのたたかいとそれと結んだ本土でのたたかいだったことは明らかです。

 沖縄県民は本土復帰にどんな思いを込めていたのか。

 復帰直前の71年11月、屋良主席がまとめた「復帰措置に関する建議書」は、沖縄の米軍基地は「民主主義の原理に違反して、県民の意思を抑圧ないし無視して構築、形成され」、「その基地の存在が県民の人権を侵害し、生活を圧迫し、平和を脅かし、経済の発展を阻害している」と告発しました。そのため県民は、「平和憲法の下で基本的人権の保障を願望」し、「基地のない平和の島としての復帰を強く望んでいる」と訴えました。

 しかし、復帰後、沖縄には日米安保条約・地位協定が適用され、米軍基地は存続しました。今なお全国の米軍専用基地面積の7割が沖縄に集中し、県民はさまざまな基地被害に苦しめられています。

基地のない平和の島へ

 沖縄の本土復帰50年に当たり玉城デニー知事は今月10日、「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」を岸田文雄首相に手渡しました。同建議書は、「基地のない平和の島」に向けた取り組み、辺野古新基地建設の断念、米軍特権を認めた日米地位協定の抜本的な見直しなどを求めています。

 その実現のためには、県民と国民の決して諦めない不屈のたたかいが何より必要です。


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