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2017年4月23日(日)

朝日訴訟受けつぐたたかい

元弁護団主任弁護士 新井 章さんに聞く

「個人の尊厳」への目覚め

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 憲法施行70年にあたって、朝日訴訟の意義と、現在の人権状況について弁護士の新井章さんに聞きました。(秋山豊、中祖寅一)


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(写真)あらい・あきら 1931年、群馬県高崎市生まれ。東京大学卒。朝日訴訟弁護団の主任弁護士を務め、第一審判決では憲法25条の生存権は国民の人間的生存を保障する法的権利であると認めさせました。このほか、砂川事件、百里基地訴訟など多くの憲法裁判に弁護人として参加しました。

 日本国憲法の施行から70年を迎えますが、朝日訴訟は戦争の傷が癒えない戦後初期の時代に人権のあり方を提起し、生存権保障の実現に道を切り開いた裁判闘争でした。

 重症の結核患者で岡山県の国立療養所に入所していた朝日茂さんが1957年に提訴し、当時の生活保護の水準は憲法25条に定める「健康で文化的な生活」を送るにはあまりに不十分で憲法違反だと国を訴えたのです。

 生存権の保障というと今では当然の考え方に思えるかもしれません。しかし、朝日訴訟を起こすまでの社会保障裁判の実態は、人権の香りなどまったくしない貧寒たるものでした。

 そういう裁判事情があるなか、東京地方裁判所の浅沼武裁判長による第一審判決は画期的なものでした。生存権は国民が持つ法的権利であり、当時の生活保護水準が、生活保護法ひいては憲法に違反することを認め、生存権の保障について十分な自覚のない日本の政治と司法に警鐘を鳴らしたのです。

 朝日訴訟は、患者の全国組織である日本患者同盟をはじめ、多様な労働者や市民による支援運動に支えられて取り組まれました。支援運動は次第に社会的・政治的な力へと広がっていき、最高裁段階では国民的広がりさえ持つようになりました。

 朝日訴訟は結果的には、高裁、最高裁の段階で訴訟としては敗訴で終わってしまいました。

 しかし、朝日訴訟には、浅沼判決が憲法25条は法的権利であると認めたことや、裁判闘争が進むなかで生存権と社会保障に対する国民の自覚とたたかいは燎原(りょうげん)の火のように何倍にも燃え上がっていったことなど、日本の戦後社会全体を通じてみても、社会的に、そして政治的に大きな意義を発揮しています。

 朝日訴訟をたたかった何千、何万という国民の汗、涙、喜びは、現在も、国民生活のあらゆる分野で生存権の保障を掲げて巻き起こっている運動や政治的要求の中に受けつがれています。

政治の責任果たさせる

 私たち弁護団も、政治的な立場や経験がまったく異なる人たちの支援を受けながら、たたかいのなかで成長していきました。

 私が朝日訴訟をたたかった動機は、朝日さんもふくめてさまざまな社会的条件に置かれているすべての国民に手を差し伸べる責任が政治にはあるのに、あまりにも貧弱ではないかという怒りでした。

 戦前の軍国主義とは違い、日本国憲法には国民一人ひとりが個人として、人間として尊重されるという発想が13条や25条などにちりばめられています。憲法が教える一番大事な心棒は、すべての国民を人間として尊重すべきだと政府に命じていることです。

 それを、単に条文上の話に終わらせるのではなく、生存権の保障を実体として築き上げていくことが大事なのです。例えば、保育士が人手不足に陥るなかで子どもの「うつぶせ寝」の問題などが深刻化していますが、国民生活の現場で25条の理念を実際にどういかしていくかが問われています。

25条と9条 一体に実現

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(写真)「生活保護を守ろう」と全国から4千人が集まった大集会=2015年10月、東京 ・日比谷野外音楽堂

 さらに突っ込んで言えば、すべての国民を個人として尊重するという憲法のテーゼ(命題)を実質的にいかすためには、25条と9条を一体的に実現しないといけないということです。すべての国民が人間として生をまっとうするためには、戦争を遠ざけ、平和を引き寄せる外交を行う責任が国にはあるのです。

 朝日訴訟をたたかった当時、多くの国民が日米安保条約の改定に反対し、平和を求めて安保闘争(59〜60年)に立ち上がりました。

 その安保闘争に結集した国民運動のうねりが裁判官に勇気を与え、浅沼判決が生み出された条件の一つになりました。その時代の政治に対し、国民の考え方や運動がどういう方向を向いているのかという問題は、裁判官の決断にとって重要な要素になるのだと思います。

 現在でも同じことが言えます。社会保障の拡充を裁判闘争や政治闘争のなかで訴えると同時に、安保法制のもとで自衛隊員を南スーダンに派遣した安倍首相の9条蹂躙(じゅうりん)に反対してたたかわなければいけないのです。

 いま、安保法制に反対する運動でも、待機児童の解消を求める運動でも、多くのたたかいのなかで、日本国憲法の根底にある「個人の尊厳」の確立ということに人びとの関心が集まっているのは非常に重要です。

生命の軽視許さぬため

 自分たちの人間としての価値を見直し、どう生きていくべきかという根本部分に多くの人びとの自覚が向き始めたのではないでしょうか。

 戦時中の話ですが、年上のいとこたちがいつの間にか姿を消していきました。赤紙が来て軍隊に取られ、しばらくしたらどこかで戦死して白木の箱で帰ってくるんです。

 私を大事にしてくれて、キャッチボールもした兄貴分のいとこもそういう命の消され方をしました。一人ひとりの人間の生命や存在価値を尊重しようというまなこがまったくなかった当時の政治権力によって、赤紙1枚でかんたんに生活環境から引き抜かれ、戦地に持って行かれて、あっという間に殺されてしまう。

 そういう許し難い生命の軽視を二度と犯させないために100カ条からなる「日本国憲法」があり、「個人の尊厳」はその一番の根っこに位置づけられています。

 人間として大切にされることなく粗末に扱われ、赤紙一つで危険な戦争に持っていかれる政治にノーと言えないほど、おぞましく残念なことはありません。

 だからこそ、いま憲法の根本である「個人の尊厳」の確立に人びとの自覚が向き始めていることに共鳴するし、喜ばしく思うのです。

 とりわけ、子どもを安心して預けられる保育所がなく、働きたくても仕事につけないという切実な生活的必要性から、お母さんたちが個人の尊厳についての自覚を深めていることは大切だと思います。

 子どもを育てる母親としてどう成長していくか、同時に、仕事に就いて社会参加を果たすためにはどう運動すれば良いのか。個人の尊厳に対する考えを深めるほど、子育てと仕事の両立といった問題から、戦争法を強行した安倍首相の政治を許してはいけない、私たちもデモに加わろうというふうに、社会的な関心や活動の分野が広がっていくと思うのです。

 それが充実していけば、憲法に「個人の尊厳」が謳(うた)われているのにもかかわらず、私たちだけが粗末に扱われて良いのかという思想や要求が生みだされ、どんなに厳しい権力状況にもへこたれない運動へと国民のたたかいは発展していくでしょう。


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