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2016年12月30日(金)

2016とくほう・特報

「満蒙開拓団」と中国残留孤児

国策で8万人犠牲

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 現在の中国東北地方に敗戦までの13年間存在した日本のかいらい国家「満州国」―。そこに国策により日本全国から「青少年義勇軍」を含む「満蒙開拓団」約27万人(敗戦時)が送られました。日中双方で多くの犠牲者を出し、中国に取り残された残留孤児・残留婦人を生みました。この「満蒙開拓団」の悲劇はなぜ生まれたのでしょうか。(山沢猛)


「集団自決」生き残ったが35年後帰国、国の支援求め

山形県在住 佐藤 安男さん(79)

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(写真)開拓団があった場所を示す元残留孤児の佐藤安男さん

 山形県高畠町に夫婦で住む佐藤安男さん(79)は、「中国語はしゃべれるけれど、日本語はあまりわからないね」と笑います。

 1980年1月に42歳で帰国した残留孤児です。現在、中国残留帰国者山形の会代表を務めます。

 佐藤さんの両親は「満州にいけば20町歩(=約20ヘクタール)の大地主になれる」という政府の宣伝文句に誘われ「渡満」します。現在の黒龍江省の佳木斯(ジャムス)市近くに、第9次板子房(バンズファン)置賜郷開拓団として入植しました。学校一つ、井戸が二つありました。

 父親が敗戦の年に召集され、残されたのは、母、8歳の佐藤さん、6歳の弟、1歳の妹の4人でした。

380人以上が火に

 1945年8月9日、旧ソ連軍が中国東北部にいっせいに侵攻。佳木斯市に逃げようとしましたが、途中で武装した一部の現地人に襲われ、再び板子房に戻りました。近くの開拓団も来て数百人になっていました。

 13日夜、開拓団は武装集団に包囲されました。「どうしようもない、自殺しようという話がそのとき出たんだ。学校の中にみんな入ってから周りに灯油をまいて火をつけた。おれは死にたくないから、一番後ろにいて窓を押さえた板をはがして家族で出た。最後に出たときに屋根が崩れて背中にやけどを負った」

 この集団自決から逃げたのは三十数人で、380人以上が火の海で死んだと後に生き残りの女性に聞きました。

地図:中国東北部

 佐藤さんたちはトウキビ畑に2カ月隠れました。雨が毎日降っていました。「妹が泣くんだ。泣くと匪賊(ひぞく)から見つかるといわれ、母親は自分の子どもを殺せないから、他の女の人が抱いていって殺したの」。母親もそこで亡くなりました。

 近くの村に行き、弟とも離れ離れになり、連れていかれたのが、その後佐藤さんを支えてくれた養父・郭新民さんのところでした。

 「小日本鬼子(シアオリーペンクイツ)」といじめられ学校に3カ月しか行けませんでした。17歳で農場の馬車を引き、24歳で中国人女性(妻・春子さん)と結婚しました。

 中国の「文化大革命」のときには「おやじ(郭さん)が紅衛兵に捕まって、なぜ日本人の子どもを育てたかと問い詰められた。ひどかったよ」。そんな体験から、日中国交回復から6年後、1978年になってやっと決心し中国公安局に帰国を打診。翌年に北京の日本大使館に手紙を出したところ、日本から返事が来たのです。家族5人でうれしくて泣きました。

国賠訴訟に参加

 1980年に帰国し高畠町に。心臓病で入院中の父に会いましたが、日本語がまったくわからず泣きっぱなしでした。「9カ月後に父が亡くなるまで一言も話せなかったことが、今でも残念だ」

 「日本政府は帰国の旅費は出したけれど、身元保証人(父)がいるから終わり、という態度で何の援助もなかった。日本語も一人で勉強した」

 「普通の日本人と同じように生活したい」と、全国の残留孤児・残留婦人とともに国家賠償請求訴訟に参加。山形では弁護団の支援をうけ34人が提訴しました。2007年に政治解決が実現し、翌年4月に新支援法が施行され、佐藤さんたちの生活は改善されました。日中友好協会山形県連合会は14年、「平和の碑・中国残留帰国者の墓苑」を建立。佐藤さんは建設委員長を務めました。


語り継ぐ「満蒙開拓平和記念館」

“負の遺産”学び“正の遺産”へ

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(写真)開拓団の再現住宅を前に説明する野口次郎さん

 長野県阿智村にある「満蒙開拓団」に特化した全国唯一の歴史資料館「満蒙開拓平和記念館」(河原進館長)。交通の便がいいとはいえない記念館に、連日、バスや車での見学者が絶えません。

 「せっかく開拓団でいったのに、ソ連侵攻のとき日本軍に置き去りにされ、約8万人の人が亡くなりました」。案内ボランティアの1人、野口次郎さん(86)が来館者に開拓団の歴史を紹介するコーナーで説明します。体験者の生の映像、音声も流されています。

「平和な日本を」

 来館者の感想には―「涙が止まりませんでした。時の指導者の無知により多くの日本人、中国人を苦しめる結果になりました。平和な日本を祈ります」(長野・男性)、「私も満州からの引き揚げ者。父母が苦しみながら幼い私を連れて帰ってくれたこと、感謝の一念です」(三重・女性)

 開拓団員の2世である寺沢秀文同館専務理事は「満蒙開拓という“負の遺産”から学んでもらえることはたくさんあると思います。戦争の悲惨さ、平和の尊さを知ってもらうきっかけになれば、それは“正の遺産”に変わる」と「語り継ぐ」大切さを語ります。

 8年の準備期間をへて3年半前に開館にこぎつけました。

“人間の盾”役に

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(写真)旧拓務省による「満州農業移民募集」のポスター(満蒙開拓平和記念館提供)

 1931年に中国侵略戦争の発端となる「満州事変」が日本の関東軍の謀略で起こされました。翌32年に清国最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を担ぎ出し中国東北部に「満州国」を設立しましたが、実体は関東軍が実権を握るかいらい国家でした。関東軍は「移民百万戸(五百万人)移住計画」を発表。開拓団を最も多く送り出したのが長野県で約3万3000人、中でも飯田・下伊那地方が最多でした。

 農家の8人兄弟の三男だった寺沢さんの父・幸男さんも政府の誘いに応じ、吉林省の水)曲柳(すいきょくりゅう)開拓団に入りました。

 しかし、この「満蒙開拓」は多くが本来の開拓とは言いがたく、開拓団が入植したのは、「満州開拓公社」などが中国人の農地や家を半強制的に買い上げ追い出したところでした。

 「日本軍と政府は、開拓団を『満州』防衛の“人間の盾”の役割をも担わせて送り込みました。ソ連国境近くに配置された『満蒙開拓青少年義勇軍』の14〜17歳の少年たちもそういう役割を担わされました」(寺沢さん)

 旧ソ連が侵攻したとき、関東軍はすでに「満州」の4分の3を放棄し「南満州」地域に後退。放棄地に置き去りにされた年寄り、女、子どもだけの悲惨な逃避行がここに始まったのです。寺沢さんの長兄はわずか1歳で命を落としました。

中国人の悔しさ

 敗戦直前に召集された父はソ連軍の捕虜になり、3年間シベリアで抑留。ようやく帰国すると下伊那郡松川町の増野(ましの)地区の広大な原野を仲間と開墾しました。

 「父は子どもの私によくいいました。『こんどこそ本当の開拓の苦労を重ねる中で、自分たちの大切な畑や家を日本人に奪われた中国の農民の悔しさ、悲しみがよくわかった。あの戦争は日本の間違いだった。中国の人たちには本当に申し訳のないことをした』。この言葉が記念館建設の運動、帰国者支援にボランティアで取り組んできた私の原点です」と寺沢さんは話します。


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