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2015年8月14日(金)

証言 戦争 沖縄の秘密部隊

兄は軍医に射殺された

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 太平洋戦争の末期、沖縄で大本営直属の秘密遊撃隊「第2護郷隊」に召集され、負傷した17歳の青年が、部隊幹部によって、「射殺」されていたことが沖縄戦から70年の夏、元隊員の証言で明らかになりました。 (山本眞直)


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(写真)71人の少年兵が「戦死」した第2護郷隊の碑。左上は高江洲義英さん=恩納村

14歳から18歳が護郷隊に入隊し

 護郷隊は、1944年9月に大本営勅令で編成された秘密部隊。劣勢に追い込まれた陸軍が「本土決戦」「国体護持」を掲げた沖縄での「持久戦(捨て石作戦)」で米軍の「後方かく乱」のための遊撃戦部隊として編成。同10月から45年3月までに第1、第2護郷隊合わせて約1000人の少年兵(14歳から18歳)を召集しました。

 部隊幹部は諜報(ちょうほう)・防諜・謀略・破壊活動を専門とする秘密戦要員の育成機関、陸軍中野学校出身者。沖縄には42人が配置され、「護郷隊の歌」の一部歌詞と中野学校校歌は同じです。

 護郷隊は不十分な戦闘訓練、その場しのぎの遊撃戦突入が多く、「米軍の手りゅう弾を拾い、体にくくりつけて出撃し、樹木にひっかかって自爆した隊員もいた」(名護市の元隊員)といいます。

 隊員のうち162人が戦死(第2護郷隊は71人)しました。

 今回射殺が明らかになったのは、県北部、東村高江出身の高江洲義英(たかえす・ぎえい)さん。日本共産党沖縄県委員会の元副委員長、高江洲義一さん(77)の次兄です。

 軍幹部による射殺を証言したのは同村出身で、当時15歳だった仲泊栄吉さん(86)。6月23日、恩納村の「第2護郷隊の碑」での追悼式に参列した義一さんに打ち明けました。

 「45年6月2日、私が負傷した隊員を恩納岳のかやぶきの野戦病院に送り届け、隊に戻ろうとしたとき、くぼ地に座っていた義英さんに向けて軍医が拳銃を撃ったが、はずれ、義英さんがかぶせられていた毛布をはずし、ニヤっと笑った。そばの隊員がすぐに毛布をかぶせ、軍医が2発目を撃った」

 義一さんにとっては衝撃の証言で、「射殺は兄の前からですか、後ろからですか」と聞くのがやっとでした。

 以前から護郷隊について調べてきただけに「やはりそうだったか」という実感もあったといいます。

半狂乱の母の姿忘れられぬ記憶

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(写真)「話して荷がおりた」と涙ぐみ、義一さん(左)と手を取りあう元隊員の仲泊栄吉さん=5日、東村

 義英さんは、米軍の砲撃による大腿(だいたい)部の負傷が原因で「45年6月1日に戦死」とされていました。同隊にいたいとこが手厚く埋葬、48年に遺骨を収集されていました。しかし当時、いとこは義英さんの父には戦死を伝えていましたが、戦争で末娘、末息子、祖父が死亡していただけに母には告げませんでした。

 義英さんの「戦死」で、義一さんには消えない記憶があります。

 「墓前で母は兄の頭蓋骨を両手で抱きしめて、“ああ、義英よ、なんでこんな姿になったのか”、と人目はばかることなく号泣した。納骨を拒む母の半狂乱の姿に、私も大粒の涙を流した」

 仲泊さんは5日、東村の自宅を訪れた義一さんに「傷病兵は撤退前に懸命に歩行訓練をしていた。歩けなかった傷病兵は義英さんと同じ目にあっていたと思う」と話しました。

 仲泊さんの手をしっかりと握り、「よくぞ真実を伝えてくださった」と義一さん。こう語りました。

 「拳銃を握った軍医を責める気はない。殺害は大本営の組織的命令であり、アジア・太平洋での無謀きわまる侵略戦争と沖縄県民を平然と犠牲にした、日本軍の許しがたい戦争遂行責任が本質だ。次兄が望むのは、安倍政権が戦争法案で戦場に若者を再び送りだすことをやめさせることだと思う」


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