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2015年8月14日(金)

8・15特集<上>

侵略と植民地支配の51年

これを「間違った戦争」と認めない安倍政権

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 「戦争する国」づくりへ安倍晋三政権が成立をねらう戦争法案の国会審議がつづくなか、戦後70年の敗戦の日を迎えます。日本の戦争が何を意味しているのか、また戦後の日本の歩みから何がいえるのかをみました。


「非戦の感性  捨てるのか」

 「いつも国会前に立つと、かつての戦争に短い生涯を強いられた先人たちが近くにいてがんばれと背中を押してくれる気がするんです。憲法9条に表された非戦の感性を軽薄に投げ捨てることは、あの悲惨な戦争で亡くなった先人にたいしあまりにも冒瀆(ぼうとく)的な態度ではないでしょうか」

 7月末に国会近くで開かれた戦争法案に反対する「学生と学者の共同行動」で、一人の大学院生がこう話しました。「非戦の感性」を受け継ぐ思いに満ちた発言でした。

 中国への侵略戦争とつづくアジア・太平洋戦争の14年間に、2000万人以上のアジア諸国民と、310万人の日本国民が犠牲になりました。日本の戦争は台湾を奪い取った日清戦争(1894年開始)から実に51年になります。

 日本は1945年8月14日に米・英・中をはじめとする連合国のポツダム宣言を受け入れました。この宣言はカイロ宣言(43年)の実行を明記し、日本が日清戦争で「盗取」した台湾を中国に戻すこと、朝鮮の「自由独立」を求めました。ポツダム宣言は50年をこえる日本の侵略戦争と植民地支配の全体に審判を下したものでした。

ネルー「日本は恥知らず」

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(写真)独伊三国同盟の調印式。1940年9月27日、ベルリンのヒトラー総統邸で。前列左から駐独日本大使・来栖三郎、イタリア外相チアノ、ヒトラー。右に立つのはリッベントロップ独外相。左下は調印書表紙の一部(『画報日本近代の歴史』から)

 日清戦争、日露戦争とはどういう戦争だったのでしょうか。

 明治維新(1868年)で資本主義の道に入った日本の指導者たちは、早く欧米列強と肩をならべて植民地をもつ帝国主義大国になることをめざしました。最初に目をつけたのが朝鮮でした。当時朝鮮半島は清国の権益とされていて、日本と清国のどちらが朝鮮半島の支配権をとるかが、日清戦争のいちばんの問題でした。

 日本はまず朝鮮の王宮を占領し国王をとらえたうえで、先制攻撃で清国への戦争を開始しました。清国に勝利して、台湾を奪うとともに、朝鮮を支配下におきました。日本は戦争後、公使(大使)指揮のもと王宮に乱入、反日の中心だった朝鮮王妃・明成皇后(閔妃、ミンピ)を殺害しました。1910年には韓国併合条約を強要し植民地にしました。

 日清戦争で奪えなかった満州(中国東北部)の権益をめざして始めたのが、日露戦争(1904年開始)でした。これも日本は仁川・旅順での先制攻撃で戦争をはじめ、勝利後の講和条約で、南満州鉄道(満鉄)の権益をとり、ロシア領の南樺太もとりました。

 戦後70年の安倍首相談話についての有識者懇談会の報告書(6日)は、日本が日露戦争で勝利したことが「多くの非西洋の植民地の人々を勇気づけた」「植民地化にブレーキをかけた」とのべています。しかし、事実は正反対で、日露戦争は満州と朝鮮半島の支配をめぐる日露双方からの侵略戦争でした。

 インド独立運動の指導者で戦後最初のインド首相になったネルーは、著書で日露戦争での日本の勝利がアジアの諸国民を喜ばせたとのべたすぐ後で、次のように実態を告発しています。

 「ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まずさいしょになめたのは、朝鮮であった」「日本はその帝国政策を遂行するにあたって、まったく恥を知らなかった。日本はヴェールでいつわる用意もせずに、大っぴらで漁(あさ)りまわった」(『父が子に語る世界歴史』)

中国領土を「生命線」と

 日本の次の標的は、中国でした。31年9月、中国の関東州に配置された日本の関東軍は、南満州鉄道を自分で爆破して「中国に攻撃された」という謀略で戦争をはじめました(満州事変)。政府は現地の日本外交官から「日本軍が爆破したようだ」という電報をうけとりながら戦争を容認。昭和天皇も翌年には「関東軍の将兵は果断神速」「その忠烈を嘉(よみ)す」と称賛する勅語をだしました。

 満州事変に先立ち、後に外務大臣になる松岡洋右(ようすけ)元満鉄副総裁が「満蒙は我が国の生命線である」という議会演説をおこない、これが侵略戦争のスローガンとして広がりました。いずれも中国領の満州と内蒙古が日本存立のために不可欠だという宣伝です。

 安倍内閣の戦争法案でいう「存立危機事態」の存立と同じ理屈です。“狭い国土の日本が生きるうえで他国の領土がどうしても必要だ”という手前勝手な侵略の口実でした。

 1937年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件によって中国全土に侵略戦争を広げた日本は、国民党政権の首都だった南京での大虐殺など幾多の事件をおこし、「三光作戦」(焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす)といわれた蛮行をひろげました。しかし、中国人民の抗日解放運動の全土での高揚を前にして、敗戦の日まで、抜け出せない戦争の泥沼に入り込んでいったのです。

戦争違法化の流れに逆行

 日本の戦争は、戦争そのものを違法とした第1次世界大戦(1914〜9年)以後の世界の流れにも逆らうものでした。

 兵器の近代化による第1次世界大戦の未曽有の惨害や、ロシア革命後の世界的な革命運動と反戦平和運動の高揚によって、世界は戦争そのものを違法とする方向に動き出していたのです。1928年にはパリ不戦条約の締結へと発展し、戦争放棄、紛争の平和的解決が協定されるにいたりました。

 ところが、日本はみずから参加した国際法のとりきめを踏みにじり、「満州事変」をおこし、33年には国際連盟を脱退、37年に中国への全面戦争を開始し、40年9月に軍国主義とファシズムの日独伊三国同盟を結んで、世界再分割をめざす第2次世界大戦の起爆国になりました。領土拡張と資源獲得をめざし「大東亜共栄圏」の名でアジア・太平洋地域の侵略にのりだしたのです。

 日本が「満州事変」といい、日中全面戦争を「日華事変」といったのは、当時「中立法」の下にあった米国からの物資輸入が止められるのを恐れたこと、また「戦争」というと捕虜の扱いなど戦時国際法を守らなければならなくなり、手を縛られたくないという戦争指導部の思惑もありました。このことが中国と東南アジアでの捕虜虐待や住民の大量殺害を生む重大要因の一つになりました。

決断遅れ国民全体が犠牲

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(写真)1943年10月21日、神宮外苑競技場で開かれた出陣学徒壮行大会。東京近辺の学徒数万人が女子学生など観衆が見守るなか行進。沖縄戦のころに特攻隊員として出撃を命じられた学徒も多くいました(同『画報』から)

 41年12月のアジア・太平洋戦争開始時には、真珠湾奇襲、シンガポール攻略などで“快進撃”といわれましたが、翌年6月のミッドウェー海戦での日本機動部隊の壊滅後は敗北につぐ敗北でした。44年中頃には日本の戦争指導部も戦争に負けたと判断するようになってきました。大本営の作戦失敗で50万人の将兵が命を失ったフィリピン戦の敗北は、戦争終結の決定的な機会でした。しかし、天皇はじめ戦争指導部は“もう少し戦果をあげてからでないと、交渉が有利にできない”とくりかえしました。

 45年2月に近衛文麿元首相が「共産革命の進行」をあげながら、「敗戦はもはや必至」「一日も速やかに戦争終結」を天皇に上奏しましたが、態度は変わりませんでした。

 “戦果”に固執せず終戦を決断すれば、3月以降におきた国民的惨劇である東京大空襲など本土空襲、沖縄戦、原爆投下、ソ連の満州侵入など連続した出来事もありませんでした。

 最近公開された映画「日本のいちばん長い日」などで描かれた天皇の「聖断」は遅すぎただけでなく、「国体」という天皇絶対の政治体制を守ることを最優先にしたため国民全体が犠牲になったのが実態です。

餓死した「英霊」たち

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(写真)1942年8月21日のガダルカナル島。米軍の同島上陸に対してグアム島から一木(いちき)支隊が派遣されましたが、激戦で全滅。軍司令官は同島での死者2万人、そのうち戦死5000人、餓死1万5000人と報告しています(同『画報』から)

 戦場に送られた兵士・軍人たちの運命はひどいものでした。日本軍の戦没者230万人のうち、半数以上が餓死だったのです。戦争の現地を陸軍軍人として体験してきた歴史学者の藤原彰氏が著書『餓死(うえじに)した英霊たち』で、各戦線での戦死者、餓死・栄養失調による病死者数をあげて紹介しています。

 「日本軍戦没者の過半数が餓死だった。戦闘の中で華々しく戦って名誉の死を遂げたのではなくて、飢えと病気にさいなまれ、痩せ衰えて無念の涙をのみながら、密林の中で野垂れ死んだのである。…軍隊が行動し戦闘するためには、軍隊と軍需品の輸送手段である交通と、弾薬、資材、食糧などの軍需品を供給する補給を欠かすことができない。…ところが日本陸軍では、作戦がきわめて重視されていたのに比べて、作戦遂行のために不可欠の交通と補給があまりにも軽視されていた。…その結果が、大多数の将兵を無残な餓死に追いこんだのであった」

 その最初の出来事が「餓島」といわれたガダルカナル攻防戦であり、東部ニューギニア、中部太平洋の島々でした。また、「白骨街道」といわれた旧ビルマのインパール作戦の無謀、フィリピン戦の大量餓死、中国での「大陸打通作戦」などもそうでした。

 そして「生きて虜囚の辱めを受けるな」という「戦陣訓」と陸軍刑法の罰則とによって日本の兵士は「餓死か玉砕かという選択を、いやおうなしに迫られることになった」(藤原氏前著)のです。

 若者に死を強制した特攻作戦は、降伏の選択を閉ざした大本営による極限の非人間的非道の「戦法」でした。

 そもそも、日本の戦争遂行の仕組みは、専制的な政治支配体制のもとで、軍事・外交・内政の全局をつかみ、戦争指導に一貫して責任を負った人物が「満州事変」以後を見ても一人もいませんでした。天皇は陸海軍の統帥権をもつ大元帥で戦争指導会議に継続して出た唯一の人物であり、戦争遂行の最大の責任者でしたが、実際には大本営参謀がたてた作戦に若干の質問をし補足をする程度でした。

 軍隊の餓死、国際法無視の暴虐、国民の運命よりも「国体」が大事、戦争指導部の無責任―、アジア侵略の実態とともに、こうした事実を語り伝えていく必要があります。この戦争を「間違った戦争」とも認めない人物が「安倍政治」を推進しており、それは日本の歴史的後進性であると知らせることが、戦争法案廃案の確かな力になります。(山沢猛)

51年に及んだ日本の侵略戦争

1894年7月  日清戦争(〜95年3月)、日本が台湾を奪取

1904年2月  日露戦争(〜05年9月)

  10年    韓国併合

  19年    韓国で三・一独立運動、中国で五・四運動

  31年9月  満州事変

  33年3月  日本が国際連盟を脱退

  37年7月  盧溝橋事件、日中戦争はじまる

    12月  南京大虐殺事件

  39年9月  独がポーランド侵入、第2次世界大戦はじまる

  40年9月  日独伊三国軍事同盟

  41年12月 アジア・太平洋戦争はじまる、日本軍がマレー半島上陸・真珠湾攻撃

  42年6月  ミッドウェー海戦で日本大敗北

  43年12月 米・英・中がカイロ宣言

  45年2月  フィリピン戦敗退

     3月  東京大空襲

     3月  沖縄戦(6月23日まで)

     5月  ドイツ降伏

     7月  ポツダム宣言発表

     8月  広島・長崎に原爆

     8月  ポツダム宣言受諾、敗戦

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