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2014年9月22日(月)

若手記者が行ったハンセン病「重監房」

群馬・草津町の栗生楽泉園

人権の原点を見た

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 ハンセン病を知っていますか? 国は患者を強制隔離するなど、非人道的な政策を90年にわたり続けました。その象徴が、「重監房」と呼ばれた施設です。今年4月、群馬県草津町の国立ハンセン病療養所・栗生楽泉園(くりうらくせんえん)に「重監房資料館」が開館しました。「ハンセン病というだけで、なぜ人として普通に生きる権利を奪われなければいけなかったのか」。「しんぶん赤旗」若手記者7人で訪ねました。(北野ひろみ)


地図:国立ハンセン病療養所・栗生楽泉園

 栗生楽泉園の入り口から数分歩くと、薄暗くひっそりとした木々に囲まれた場所に「重監房」の遺構がありました。

 重監房は正式名称を「特別病室」といいます。1938年に同園に設置され、47年まで使用されました。「病室」とは名ばかりで治療は行われず、全国の療養所から「反抗的」とされた人たちを閉じ込めるための“独房”でした。

 資料館では、この独房の一部が原寸大で再現されています。

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(写真)「重監房資料館」の外観

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(写真)「重監房」の復元模型。独房周りの通路は屋根がなく、冬場は雪が積もった

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(写真)説明を受ける若手記者ら

 高さ4メートルのコンクリート塀に囲まれた独房は、4畳半の簡素な板張りです。各房へ行くまでに、鉄板が張られた、分厚いよろい戸をいくつも通ります。小さな入り口をくぐると薄い布団が一組とトイレの穴がひとつ。あとは高い位置にとられた小さな明かり取りの窓と食事の差し入れ口だけで、展示用のライトを隠すと中は真っ暗になりました。

 食事は握り飯1個分程度の麦飯に梅干しかたくあんと、具のないみそ汁か水が茶わん1杯。それが日に2回、朝と昼に差し入れられるだけでした。真冬は零下十数度まで冷え込むため、布団ごと床に凍り付いて亡くなっていた人もいました。

 「らいを病むが故にこの悲劇 なんというみじめさよ」。壁に入所者が残した言葉です。

 「暗い。布団も薄い」「これで真冬なんて無理」。房内に入った私たちはそう言ったまま黙り込みました。

 記録があるだけでのべ93人が収監され、房内で15人、退室したのち1年未満で8人が亡くなっています。亡くなるまで439日間収監された人もいました(最長549日間)。

“容易でない社会復帰”

 全国13カ所の療養所には今も1840人、平均年齢83・6歳(5月1日現在)の入所者が生活しています。

 明治維新後の日本は、大国との戦争に突き進む中でハンセン病を“国辱”と見なし「救護」の名の下、強制隔離の道へ進みました。根絶のため、結婚の条件として「断種・堕胎」手術が行われました。妊娠8カ月で堕胎させられた女性もいました。

 「らい予防法」廃止(96年)以降も社会の偏見や差別は根深く残り、入所者らの社会復帰は容易ではありません。

 「人権の故郷として残せ」。資料館開館を見届けるように亡くなった、ハンセン病違憲国賠訴訟・全国原告団協議会の谺雄二(こだま・ゆうじ)前会長は、療養所の保存、重監房の復元を訴えてきました。

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(写真)明かり取りの窓は身長168aの記者の頭の高さ、食事差し入れ口は手と茶わんが通る程度の高さしかない

 園の歴史を説明してくれた、栗生楽泉園入所者自治会の藤田三四郎会長は、谺さんらとともに人権回復を求めた訴訟に勝利したとき「長い長いところを通って、やっと光を見た」と話します。若い人たちへ伝えたいことを尋ねると「己を愛するように他人を愛し、思いやってほしい」。

「真実知り、伝えたい」

 参加した記者(20、30代)の大半が学校教育でハンセン病について習った記憶はありません。らい予防法廃止のニュースや、映画や小説、大学の授業で初めて知ったという記者もいます。

 資料館の展示には、1947年に日本共産党員の来園が重監房の存在を広く知らしめるきっかけになったと記されています。当時の「AKAHATA=アカハタ」(47年9月16日付)も、「生きる願い 患者側、真相摘発へ」と、患者の決起を伝えています。

 「真実を知り、同じ過ちを繰り返さないために伝えたい」―。国民に寄り添い、真実を追究する赤旗記者としても原点にかえる思いでした。


重監房資料館

 電話0279(88)1550

 個人見学はフルオープン期間(4月26日〜11月14日)のみ。


 ハンセン病 らい菌への感染・発症により末梢(まっしょう)神経のまひや皮膚が侵される病気。らい菌は感染力が弱く感染しても発症するとは限らず、現在は発症自体がまれ。体の一部が変形するなど後遺症が残ることがあったために、不治の病と言われ差別や偏見の対象になりました。

年表:ハンセン病 主なできごと

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