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2014年7月10日(木)

「理論活動教室」 講師・不破哲三社研所長

●第2講「マルクスの読み方」(2)(全3回)

追跡 マルクス「恐慌の運動論」

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(写真)マルクスの『資本論』の草稿集と著書を年代順に並べ講義をする不破哲三社研所長=8日、党本部

 第4回「理論活動教室」が8日夜、党本部で開かれました。この日は第2講「マルクスの読み方」(全3回)の2回目で、不破哲三・社会科学研究所所長が『資本論』をテーマに講義しました。

 不破さんは、マルクスが20年以上も研究を続けた『資本論』のもつ二つの側面についての説明から講義を始めました。

 一つ目は、アダム・スミスやリカードウら古典派経済学の成果を継承しつつ、資本主義社会の仕組みや運動の法則を分析する科学的経済学を仕上げたことです。二つ目は、資本主義社会の発展法則の研究の中から、この社会の没落と社会変革の必然性を解明したことで、そこには高度な発展段階である未来社会論も含まれていました。これは、古典派経済学がまったくもたないものでした。

 不破さんは、特に二つ目の側面が、資本主義社会をどう変革するか、マルクスの経済学で「一番の大変革を遂げた部分です」と強調。今回から2回、この側面を重点的に講義すると述べました。

 そのうえで、「マルクスを歴史的に見ることが、どうしても必要です」と、『資本論』の歴史を振り返りました。

 マルクスも最初から「労働価値説」を理解できたわけではなく、「剰余価値」の発見にも時間がかかったことを紹介。『資本論』の執筆も、最初の草稿を書き始めた1857年から第1部の刊行まで10年近くを費やす、平坦でない長い歴史があることを示しました。

 「そのなかで、どう理論が発展したのかを見てほしいんです」と、不破さんが1冊ずつ机に並べたのは、『資本論』にいたる草稿や完成稿の数々です。『一八五七〜五八年草稿』や、その初めの部分だけで1冊の本になった『経済学批判』(1859年)、ノート23冊にびっしり書き込まれた『六一〜六三年草稿』、『資本論』として最初に書き上げた『六三〜六五年草稿』などで、その膨大さに参加者から驚きの声がもれました。

 65年に書かれた第2部第1草稿には、それまでの恐慌論を根本的に転換させる“大発見”が記述されています。その翌年、第1部完成稿の執筆が開始され、67年についに『資本論』第1部が刊行されたのでした。

 晩年、闘病しながらも1880年まで草稿の執筆を続けたマルクス。83年の死去後、エンゲルスが草稿を編集して第2部を刊行し、第3部は自身が亡くなる前年の94年に、ようやく出版にこぎつけました。

 草稿の日本語訳が出そろったのは1990年代後半のこと。不破さんは、その研究のなかでつかんだ特徴に触れました。

 マルクスは、難問にぶつかると思考過程やひらめきをそのまま書きつけるなど自由自在に書き、6部構成だった当初の構想も執筆のなかで発展させました。1部↓2部↓3部と順番通りではなく、手探りで活路を見いだす試行錯誤の連続でした。

 草稿のなかで65年の恐慌論の転換を知ったときは「衝撃でした」と力を込めた不破さん。何回も草稿を読み返して確かめるうち、「それまでなかなか理解できなかった記述が、発見前の“前史的”部分と発見後の“本史的”部分を分けて読むと、はっきり分かり、理論的発展の裏付けになりました」と語りました。

 あらためて、この歴史をつかむ意義を強調し、“大発見”の謎を解く本論に話を進めました。

“大発見”は、突然のひらめきで訪れた

 不破さんは、マルクスの恐慌論の三つの要素について解説しました。

 一つ目が、「恐慌の可能性」です。

 『資本論』に至る最初の草稿(『五七〜五八年草稿』)から、購買と販売の分離のうちに「恐慌の可能性」があることを示しました。

 どういうことか、不破さんは説明します。お金(貨幣)で商品を売り買いすることが当たり前の資本主義社会では、商品生産者は自分が作った商品をまず売り、商品を貨幣に換えて、再び生産活動を行います。ところが、貨幣経済では購買と販売の行為が独立して行われるので、自分の商品が売れるか売れないかは、やってみないとわかりません。ここに恐慌の可能性を見ました。

 二つ目は、「恐慌の根拠」です。資本主義以前には恐慌はありませんでした。資本主義になって恐慌が起こるようになったのはなぜなのか。

図

 不破さんは、「資本の公式」を、『資本論』でマルクスが使った記号を使い、ホワイトボードに書き込みます。(左上)

 この図式は、資本家が貨幣を労働力と、原料や機械などの生産手段に投資して生産活動を行い、剰余価値が付け加わった商品を販売して元の貨幣量より大きな貨幣を得る流れを表しています。

 「実はこの“資本の公式”の中に労働者が2回登場します」と不破さん。1回目は資本家が雇い入れる労働力の“売り手”として、2回目は商品の“買い手”として、です。

 資本家は、できるだけたくさん利潤を得るために労働者の賃金を抑えようとします。一方、商品の買い手としての労働者にはできるだけ大きな消費者であることを望みます――マルクスはこの矛盾に恐慌の根拠を見ました。

 しかし、市場経済には需要と供給の均衡が崩れた時に、値段や生産を調節する作用があります。その調節作用が、恐慌の場合には、どうして働かないのでしょうか。そこには、それを乗り越える特別の仕組みや運動があるはずです。この探究を、不破さんは「恐慌の運動論」と名付け、ここにマルクスの恐慌論の三つ目の要素があるとしました。

 不破さんは、『五七〜五八年草稿』を書いた時にはマルクスも「恐慌の運動論」について「かなり自信を持っていたようです」と話し、イギリス下院の委員会の報告書を批判したマルクスの新聞論説を紹介しました。

 議会の報告書は、恐慌の原因として、過度の投機や信用の乱用をあげていました。マルクスはそれを批判して、“これでは回答にならない。問題は、人々が、10年ごとの恐慌でこっぴどい警告を受けているのに、なぜ周期的に過度の投機の発作にとらえられるのか、その社会的事情の究明にあるのだ”と論じたのです(58年10月)。これは、自分は回答をもっているという自信がなければ言えない批判でした。

 この時、マルクスがもっていた恐慌の運動論は、恐慌を「利潤率の低下の法則」の作用で説明しようとするものでした。

 利潤率が資本主義の発展とともに低下してゆくことは、スミスやリカードウも気がついていましたが、そこに資本主義の危機を感じながらも、あいまいな議論で過ごしていました。マルクスは、それまでの経済学研究のなかで、利潤率の低下が、資本構成の高度化(総資本のなかで生産手段に投下される「不変資本」の比率が労働力に投下される「可変資本」に比べて大きくなること)に伴う当然の現象であることを解明し、古典派経済学で“神秘”現象とされていた難問にみごとな解決を与えたのです。

 これは、マルクスの経済学の一つの大きな「勝利」と言えるものでしたが、問題は、マルクスがこの発見を「恐慌=革命」説と結びつけ、恐慌の反復をこの法則の作用によって説明しようとしたところにありました。

 マルクスは、この立場での恐慌の運動論の探究を、『五七〜五八年草稿』、『六一〜六三年草稿』、そして64年、『資本論』第3部の最初の部分を執筆する時まで続けました。

この発見は、資本主義観に大転換をもたらした

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(写真)講義を聴く教室参加者

 マルクスにとって「恐慌の運動論」をめぐる“大発見”は、突然、訪れました。

 資本の流通過程を研究する、『資本論』第2部の第1草稿の執筆中に“ひらめいた”のです。1865年前半のことです。

 発見した運動形態は「流通過程の短縮」と呼ばれるものです。『資本論』第3部「商人資本の回転。価格」に詳しく書き込まれました。ここでは、商品の販売に商人資本が重要な役割を果たします。

 資本家の商品を商人資本に販売すると、商品が消費者に届いていなくても、資本家は商品を貨幣にかえることができます。そこで得た貨幣を再び生産に投下することが可能になります。商品が貨幣に転化される時間が先取りされ、それによって「流通過程が短縮」され、再生産が加速・拡大されるというのです。これによって、「架空の需要」による生産がすすみ、恐慌が準備されます。

 信用制度によって商人資本は、銀行から貨幣を借り入れて、買った商品を「売ってしまうまえに、自分の購入を繰り返すことができ」、「架空の需要」が拡大されます。こうして、マルクスは、消費の制限を超えて、生産が拡大し、ついには恐慌に至る過程をみごとに描いたのです。

 「余談ですが、最近、レーニンを読み返して発見しました」と前置きした不破さん。レーニンの著作『ロシアにおける資本主義の発展』の中で、このマルクスの到達した恐慌論を記述した『資本論』第3部の一節を引いていることを紹介し、「さすがです」と感想を語りました。

 不破さんは、この「運動論」の発見が、マルクスの資本主義観に大転換をもたらしたことを力説します。

 その第一が、恐慌を資本主義的生産の生活行路(経済循環)の一局面とする見地を確立したことです。資本主義経済は「中位の活気、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞」(『資本論』第1部「機械と大工業」)を繰り返すのが日常の当たり前の姿だという見方に変わりました。

 第二は、「利潤率の低下の法則」を資本主義の没落の根拠ととらえる見方を放棄したことです。実際、マルクスは「運動論」の発見以降、資本主義の「没落の必然性」に関連する内容では、「利潤率の低下の法則」について、まったく語らなくなりました。

 第三は、資本主義の生産力の発展を正面からとらえる経済学的な立場を確立したことです。

 そもそも利潤率の低下の基礎にある資本構成の高度化は、資本主義的生産の発展の指標となるものでした。これを資本主義没落論から切り離すことで、明快な立場をとることができるようになりました。

 不破さんは、このマルクスの到達した恐慌の運動論から現代の経済現象を見るとどうなるかと述べ、2008年の世界経済危機(リーマン・ショック)をとりあげました。

 金融資本が購買能力のない労働者に住宅を買わせようと特別な住宅ローン(サブプライム・ローン)を考え出し、銀行から借金してローンで当面の住宅の代金を支払わせる仕組みを作り上げました。不良債権を含む証券を特別な金融商品に仕上げて売りに出したことから、金融危機の原因となりました。住宅産業の側では労働者に支払い能力はないものの販売済みということで、“住宅バブル”が起こりましたが、実体は、銀行のテコ入れでつくりだされた「架空の需要」でした。

 不破さんは、「流通過程の短縮」「架空の需要」というマルクスの恐慌分析が、今でも現実の経済の解明で力を発揮している例証だと述べました。

 終わりに、不破さんは、『資本論』第1部を完成させた意義について語りました。その最後、「資本主義的蓄積の一般的法則」の結論部分のところで、マルクスは資本主義から社会主義に代わる過程を総論的に論じ、資本主義の高度な発展の中で何が準備されるかを書き込みました。

 不破さんは「マルクスが一番強調したのは、労働者階級の発展です」と述べます。「そこでは、労働者階級が資本主義のなかで鍛えられ、資本主義そのものの機構によって訓練され、結合され、組織されて反抗する。これが資本主義の必然的没落の中心内容で、『資本論』第1部を読む時に、そのことを読みとることが大事な点です」と強調し、未来社会論とともに次回に論じたいと述べ、講義の予告としました。


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