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2014年5月18日(日)

2014 とくほう・特報

基地ない平和な島へ 沖縄の心

本土復帰42年 建白書の思い 現地にみる

4人に1人が犠牲になった地上戦 米軍に強奪された生きる糧の土地 だから――

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 「基地の島」から「核も基地もない平和な沖縄」を願って沖縄が本土復帰してから15日で、42年がたちました。しかし、「米軍がいまだに占領地でもあるがごとく傍若無人に振る舞っている」(2013年1月、沖縄県全体の建白書)現実は、変わっていません。太平洋戦争末期の沖縄戦で、本島で最初の上陸地点だった中部の読谷(よみたん)村と、米軍新基地計画とたたかう名護市を歩き、県民の平和への思いの“原点”を改めてみました。 (阿部活士、岡素晴)


黙認耕作地奪われる

読谷

写真

(写真)トリイ通信基地内に広がる「黙認耕作地」

 那覇市から車で約1時間半。密集する住宅や商店が並ぶ国道6号沿いに、金網フェンスと赤い鳥居が見えます。トリイ通信基地です。米陸軍が世界を監視する戦略通信網の最重要施設です。

 日米両政府は、名護市辺野古への新基地建設とあわせ、嘉手納基地以南の米軍基地を統合する代わりに、トリイ基地に施設を増やそうとしています。

 「基地の返還でなく移設だった。基地の機能強化になる。村づくりを阻害する」。こう話すのは、池原栄順副村長です。

 読谷村の海岸には、1945年4月1日、米艦船群が押し寄せました。6月23日の組織的戦闘終結までに県民4人に1人が犠牲になりました。生き残った村民は収容所に押し込まれ、占領された村の95%が基地にされました。

 村民と行政が一体となったたたかいで基地は、現在36%にまで減りました。池原氏は、こう話します。

 「沖縄では戦争のためにたくさんの人が犠牲になった。基地は戦争のための施設だね。戦争はないほうがいい、だから基地はいらないと。誰もが納得する」

イモでヒット

 もともと農村地帯だった読谷村。「返還される軍用地は、商業施設や宅地より農業に利用しようとした」と話すのは、同村の大城友誼建設経済部長です。

 とくに着目したのは、砂地で乾燥する中部地域の土質に適したイモです。農・工・商が連携した「平成元年の村おこし運動」で、イモを加工してタルトにしました。爆発的にヒットしました。

 難題は、イモゾウムシといった害虫です。現在も、この害虫が広がらないように、生イモの本土への搬入は制限されています。

 大城部長は、害虫を撲滅させるためにも、基地はいらないと思っています。「生活圏で駆除しても、嘉手納弾薬庫や基地内にわれわれは入ることができない。害虫の撲滅は、完全にはできない」

子や孫のため

 トリイ通信基地内にも青々とした農地が広がっていました。土地を取り上げられた農家が、その引き換えに「黙認耕作地」として、米軍に農耕を認めさせた土地です。

 なのに、今回の基地統合で約20ヘクタール、米軍直轄と日本の「思いやり予算」による基地整備で約20ヘクタールと、全体の3分の1の「黙認耕作地」が、奪われようとしています。

 「地代を米軍からもらっているから基地拡大になかなか言い切れない」。こう話す女性(78)は、「キビのあとにイモを、連作しないといけないのに、2000坪もとられた。さらに基地が拡大されたら本当に困る」と訴えます。

 反対の声をあげたいという人もいます。収容所やかやぶきの仮住まい生活をした照屋清善さん(71)もその一人です。「基地に囲い込まれた元の集落には湧き水があり、拝所もある。浜は米軍の保養ビーチにされているが、神聖な伝統行事と憩いの場。われわれが取り戻したい故郷です」

 1960年代後半に千葉の大学で学んだ照屋さん。「沖縄を返せ」と沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)と連帯する本土のたたかいに参加しました。

 あれから42年、新基地建設や欠陥機・オスプレイの配備まで強行される事態に、県内41首長・議長らが怒り普天間基地の閉鎖・撤去と「県内移設」断念を迫る「建白書」に署名、政府に提出されました。いま「基地のない島」を願う“オール沖縄”の旗印になっていると実感するといいます。

 最近も、「祖国復帰闘争碑」が建つ島北部の辺戸岬に訪ねたといいます。

 「安倍首相は『海外で戦争する国づくり』として沖縄をまた捨て石にしようとしている。子や孫のためにも、そうはさせない。復帰闘争のときのように本土と連帯するたたかいで、憲法が生きる平和な沖縄にしたい」

たたかいの歴史学ぶ

名護

写真

(写真)名護平和委員会の仲間とともに座り込みする大西初子さん(右から2人目)=11日、沖縄県名護市辺野古

 米海兵隊普天間基地(沖縄県宜野湾市)に代わる新基地建設を日米両政府が押し付けようとしている名護市辺野古。十数年にわたるたたかいでまかれた種が新たな展開を導いています。

 新基地建設を阻止するヘリ基地反対協議会の座り込み開始から4月で10周年を迎えた辺野古のテント村。毎月19日、「この日を忘れないように」と、2月から名護平和委員会のメンバーが座り込みを始めています。

 19日は10年前の座り込み開始の日で、今年1月には「海にも陸にも基地は造らせない」と訴える稲嶺進名護市長の再選によって名護市民の誇りを示した日。昨年6月に急逝した名護平和委員会の前会長、大西照雄さん(享年70歳)の月命日でもあります。

 大西さんと二人三脚で行動をともにしてきた日本共産党の具志堅徹市議は「いま海外の著名人たちが辺野古のたたかいに連帯の意思を発信しています。そのきっかけをつくったのは大西さんだった」と話します。ジュゴンやアオサンゴなど、世界的にも貴重な命を宿す辺野古の海の地形、自然環境を知り尽くしていたという大西さん。海外に何度も足を運んで、自然保護の運動家らに訴えてきたことが実を結んでいるといいます。

 「19行動」には大西さんの妻、初子さん(69)も参加しています。「これまでは辺野古にあまり来たことがなかったけれど、現場に来て現実と向き合うことで平和のためにたたかおうとの思いになります」と語ります。

 初子さんや「19行動」のメンバーは青年期、基地のない平和な沖縄を夢見て復帰運動に力を尽くした世代です。日本政府は新基地建設を強行しようと、仲井真弘多知事を屈服させて抗議活動を弾圧する方針を示し、着工前倒しさえ狙っています。

 「安倍政権のやり方に恐怖すら感じますが尻込みしてはいけない」。照雄さんが亡くなる直前まで病床で言っていた「チルダイ(意気消沈)するな」の言葉を初子さんはかみしめます。「沖縄県民は、いざとなったら団結して立ち上がる。たたかいの歴史から学びとった遺伝子のようなものが血液の中に流れているような気がする」

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