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2014年5月15日(木)

「理論活動教室」  講師・不破哲三社研所長

●第1講「日本共産党の理論活動史」 (後半)

科学的社会主義を発展させる

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 日本共産党の理論的な到達点を継承し、理論活動の後継者を養成するための第2回「理論活動教室」が13日、党本部で開かれました。講師は不破哲三・社会科学研究所所長で、この日のテーマは、第1講「日本共産党の理論活動史」の後半です。


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(写真)ソ連崩壊後に入手した資料(手前)を紹介しながら講義する不破哲三社会科学研究所所長=13日、党本部

 不破さんは、1968年8月にソ連と東欧4カ国の軍隊が、改革運動の起こったチェコスロバキアに武力侵略し、これに対し民族自決権を擁護した日本共産党のたたかいを紹介しました。

 マルクスやレーニンの自決権に関する文献の本格的研究も開始。「勝利したプロレタリアートは、他国にその“恩恵”を押しつけるようなことをしたら、自分の勝利をも台無しにしてしまう」という、エンゲルスの名言も使い、痛烈な批判を展開しました。それは、形ばかりの批判で済ませていた西欧の党とはまったく違った態度でした。

 同時に、この問題を通じて研究の必要を感じたのが、社会主義の政治体制の問題でした。不破さんがロシア革命後の歴史を調べると、干渉戦争のさなかでも複数の政党が存在していたこと、最初から「一党制」を原則としてはいなかったことも分かりました。レーニン全集を読むなかで、ソビエトの全国大会で反革命派の発言をレーニンが結語で批判していることに気づいたのがきっかけだったと明かしました。

 複数政党制の問題は、次の党大会を待たずに「テスト」する機会がめぐってきました。68〜69年に毎日新聞が、当時存在した五つの政党に、「政権をとったらどんな安全保障政策をとるのか」を語らせる企画をしたのです。他の4党が野党の立場で質問し、それに答えるというやり方です。日本共産党の主張も15回連載で掲載されました。不破さんは、「これが当時の紙面です」と見開きの紙面をかざして紹介しました。

 共産党をやりこめようと自民党を代表して質問にたったのは中曽根康弘氏でした。「(共産党政権は)複数政党の存在を認めますか。政党支持の自由、こういう関係はどうですか」という質問に、宮本顕治「首相」が「それは認めます」と即答。あてが外れた中曽根氏は「現在と同じような自由さを認めるわけですね」とさらに質問。宮本氏は「憲法を守る限り政党の差別はしません」ときっぱり答えました。

マルクスを徹底的に研究し、現代に生かす

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(写真)不破さんの講義を聞く参加者

 宮本顕治書記長(当時)が、発達した資本主義国での革命の展望は「新しい、人類の偉大な模索と実践の分野」と報告し、政治体制論の本格的研究の開始となった画期的な大会が、第11回党大会(70年)です。

 「名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する」(綱領)、「暴力で民主主義制度を破壊する行動をとらない限り、政府に反対する政党を含めて、すべての政党に活動の自由が保障される」「民主主義的達成は、社会主義日本に発展的に継承される」という決定が、大変な反響をよびました。

 議会とは「暴露と扇動の演壇」だと単純化されたこともあったなかで、議会活動の本来の任務を明確に規定し、「人民的議会主義」という用語を定着させたのもこの大会でした。

 73年の第12回党大会で、プロレタリア「独裁」と訳されていた「ディクタツーラ」という用語を「執権」という訳語に改めました。その後不破さんはこの用語を、マルクスは「ある階級、政治勢力が権力を全部握ること」として使い、独裁とはまったく縁がないことを、マルクス・エンゲルス研究で明らかにしました。また、この概念を強力革命と結びつけたレーニンの定義が、当時のロシアの状況を反映した誤った規定であることも解明しました。

 76年の第13回臨時党大会で「マルクス・レーニン主義」という言葉を「科学的社会主義」という呼称に変更しました。「マルクス・レーニン主義」の表現は、スターリン以後のものであり、そこでとなえられてきた理論や規定のなかには、科学的社会主義の本来の立場から外れたものが多く含まれていました。不破さんは、「それらの『定式』を総点検する覚悟だった」と振り返りました。

 この党大会で、「自由と民主主義の宣言」を採択しました。その内容は世界的に驚きをもって受け止められました。その事例として不破さんが紹介したのは、7年後の83年に東ドイツで開かれたシンポジウムでのこと。日本共産党の代表が報告した「宣言」の内容を、西ドイツの新聞が、詳しく引用して、「モスクワの刻印を持つ『教条主義的共産主義者』には、これは『異端者』の声として響いたに違いない」と書いたと紹介しました。

 ソ連は79年12月25日、日本共産党への干渉の過ちをブレジネフ書記長が公式に認めました。ところがその翌々日の27日、驚くべきことに、ソ連がアフガニスタンに侵略を開始したのです。

 日本共産党は、ソ連大使館から届いたソ連のでたらめな通報に三つの質問をぶつけ、アフガニスタンに「赤旗」記者だった緒方靖夫さんを派遣し、ソ連があらかじめ数日前から1万人の空挺(くうてい)部隊を送り込み、宮殿を襲撃したことをつきとめました。80年2月の第15回党大会で、ソ連の党代表のいる前で、徹底的に批判しました。西欧の党の代表はソ連崩壊後、「あのとき同時通訳のイヤホンから繰り返されたアフガニスタンという言葉が今も耳に残っている」と述懐しました。「私も、改めて自分の報告を調べてみたら28回言っていました」という話に会場が沸きました。

 不破さんは、70年代後半に起きたカンボジア問題にも言及。当時のポル・ポト政権が大量虐殺とベトナムへの侵攻を繰り返したことに対して、ベトナムは国境を越えて反撃しました。日本共産党は、ソ連のアフガニスタン侵略とは違って、ベトナムのとった行動には道理があると解明したことを語りました。

 85年の第17回党大会では、綱領から「資本主義の全般的危機」論の規定を削除しました。世界情勢を常に「資本主義の危機」ととらえ、ソ連の発展こそがこの危機をつくりだし深刻化させる決定的な推進力になっているという、ソ連第一主義の決まり文句でした。これもスターリンが広め、戦前から長く使われてきた、誤った定説でした。

 「この削除によって、世界情勢をありのままに、いろんな角度から世界を分析する力が生まれました」と強調しました。

世界的激動のなかで鍛えられた理論活動

 1991年のソ連崩壊後、クレムリンから集めた膨大かつ雑然とした資料によって、野坂参三の裏切りだけでなく、ソ連の日本共産党に対する干渉攻撃の全ぼうが、記録として次つぎ明らかになりました。「調査した文献は、すべてで660通くらいでした」と紹介すると、会場からは驚きの声がもれました。

 党衆院議員だった志賀義雄がソ連の言いなりになり、党の方針に反して部分的核実験停止条約に国会で賛成したのが1964年。それが、のちに反党組織をつくった志賀の「公然と分かった最初の反党行為でした」。しかし、資料によって、志賀が60年代はじめからソ連にこっそり手紙を書き続けて「自分を売り込んでいた」ことが明らかになったのです。また、ソ連が日本への文化代表団を装って日本共産党を攻撃する工作部隊を送り込んでいたことも判明しました。

 「日本共産党はそうした内実は知りませんでしたが、当時の対応やたたかいの一つひとつが節々で相手の急所を突いていたことが、この資料で分かりました」

 干渉攻撃の実態を明らかにするために「赤旗」で93年1月から6月まで「干渉と内通の記録」を連載し、「165回もの長さは、これが最初で最後です」と振り返った不破さん。資料をもとに新たな反共攻撃をしてくるマスコミに反論するため、138日間の掲載日数で1日3回分載せるなどして同年の東京都議選に間に合わせました。

 「連載でつくづく感じたのは、覇権主義の実態が分かったことと、覇権主義にのみ込まれた多くの国の共産党の悲劇的な状態でした」。ソ連が資金援助する体制をつくって各国の党の活動を縛り、支配していたのです。

 不破さんは続いて、綱領を一部改定した翌94年の第20回党大会では、ソ連がいかに反社会的で国民を抑圧する、社会主義とはまったく違った体制だったかを解明した意義を語りました。

 次に、不破さんは中国との関係正常化について話を進めました。干渉主義をまったく反省していなかった中国が変化したのは98年のことです。

 当時の中国指導部は、毛沢東派による「文化大革命」の弾圧で地方に追われていた人が多く、干渉攻撃について知らない人がほとんど。日本側の道理に基づいた説明を受けて分析し、同年6月、根本的な関係正常化の合意に結びつきました。不破さんは、合意内容の全文をテレビや各新聞で報じた中国側の姿勢に真剣さや誠実さを感じたと述べ、領土問題を抱える現在の状況をふまえ、「ものごとの変動を見極め、党として一番正確に対応することが大事です」と指摘しました。

 台湾と中国の緊張が激化したとき、率直に意見を述べて中国側の対応に影響を与えたエピソードを交えながら、関係正常化を機に幅広い野党外交路線を確立してきた意義や成果も説明しました。

 続いて、不破さんは20回大会でソ連の体制の実態とその崩壊を解明するなかで、「『ソ連はだめだった』とするだけでなく、社会主義そのものについての議論を本格化して、マルクスがどういう立場で未来社会の展望を開き、どういう立場で資本主義の変革論を基礎づけたのか、全面的に洗い直さないといけない」と痛感したと話しました。

 配布資料を示しながら、ソ連崩壊後の95年から執筆した「エンゲルスと『資本論』」を皮切りに丸20年、マルクス・エンゲルスの理論をつかみ直す仕事を続けてきた自身の研究史を紹介しました。

 マルクスが“恐慌即革命”という見方をあらためた時期に、執筆中の『資本論』の内容に大きな転換が起こったことも、この探究のなかで新しく解明された点でした。マルクス・エンゲルスを歴史のなかで読み直そうと2006年から雑誌で「古典への招待」の連載を始め、07年からは、これまでまとまったものがなかった「革命論」を学べるように『革命論研究』を講義し、著作にまとめました。そしてマルクス・エンゲルスの書簡選集(3冊)などを背景説明をつけて刊行した意味を語りました。

 最後に、不破さんは50年の党の理論活動を振り返り、力をこめて次のように語りました。

 「党の理論活動は、二つの覇権主義による横暴やソ連の解体という激動のなかで、科学的社会主義を守り抜き、発展させる闘争でした。

 スターリン時代をへて理論的には大変荒廃した状態が世界にありました。『マルクス・レーニン主義』の整然とした理論体系が継承されたかのように見えて、内容はエセ理論体系で、理論の重要な部分がねじまげられたり、隠されたりしました。日本共産党は、いかなる権威も恐れず干渉主義とたたかうと同時に、理論面でも誤りは断固としてただしてきました。

 マルクス・エンゲルスを徹底的に研究し、その発展方向を全力で発掘する。それを金科玉条とせず、マルクスの目で現代日本と世界を分析する。これが、私たちがしてきた理論活動です。

 ぜひみなさんが身につけて古典にあたってほしいし、現実の理論に使ってほしい。党の理論的、政策的財産をくみ取るときも、それを踏まえてください。それがこの教室を開いた意義です」


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