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2012年11月24日(土)

フィリピン米軍基地撤去から20年

はじまりは反原発運動

“近い将来、日本でも”

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 「日本の反原発運動の広がりを見ると、近い将来、日本からも米軍基地がなくなると思う」。フィリピンの友人の言葉です。20年前の1992年11月24日、フィリピンから約100年存続した米軍基地が完全になくなりました。 (豊田栄光=元マニラ特派員)


写真

(写真)バターン原発原子炉内の核燃料容器

 フィリピンの米軍基地撤去の出発点は反原発運動でした。原発建設反対↓親米マルコス独裁政権打倒↓米軍基地撤去と、国民の運動が発展しました。

 フィリピンは、マルコス大統領(65〜86年)時代の76年、米企業から原発を購入することを決めます。72年に戒厳令を布告し、国民を弾圧する態勢を整えた後でした。

いまは観光施設

 建設場所はマニラから直線距離で80キロのバターン州モロン。84年に原発は完成しましたが、一度も稼働することなく、いまでは原子炉も見学できる観光施設になっています。

 昨年6月、私はバターン原発を訪ね、記事にしました。(2011年7月3日号日曜版と同4日付日刊紙)

 79年の米スリーマイル原発事故を機に、フィリピンでは反原発運動が活発化。81年に全国ネットワーク組織「非核フィリピン連合」が誕生しました。

 戒厳令下の運動は命がけでした。住民の証言によると、デモ隊に銃口を向ける軍に、若い女性15人が立ちはだかったことも。「私たちを殺してもいい。でも原発は動かさないで」と叫ぶと、気迫負けした兵士が立ち去ったといいます。

 原発建設費用の当初の見積もりは6億ドル。最終的には23億ドルに膨張しました。これは国民の負担。マルコス大統領に支払ったわいろ分を、米企業が加算して請求した結果だとみられています。

 「非核フィリピン連合」事務局長のコラソン・ファブロス弁護士は振り返ります。

 「バターン原発は汚職の象徴。米国は米企業の利益と米軍基地維持のためには、独裁腐敗政権でも支える。米国の“真の姿”を国民がしっかりと認識したことで、反原発運動は米軍基地撤去への運動に進化したのです」

 86年にマルコス政権は崩壊し、アキノ新大統領はバターン原発を運転前に閉鎖。87年には上院の批准がない限り、外国軍の駐留を認めない憲法が、国民投票により制定されました。91年9月、上院が米軍基地存続条約の批准を拒否し、92年に米軍基地は完全に撤去されました。

 2年前、経済発展が著しいスービック米海軍基地跡地を取材しました。雇用は基地時代の2倍、約9万人に増加。ビーチでは遠足の小中学生が遊んでいました。米軍基地のフェンスで分断された沖縄県名護市辺野古の浜とは大違いです。

絵空事ではない

 日本にも好機が到来しています。都知事選には、脱原発、米軍基地のない東京をめざす宇都宮けんじさん(前日弁連会長)が立候補を表明しました。

 総選挙で、即時原発ゼロ、日米安保条約廃棄を掲げる日本共産党が躍進すれば、市民とともに日本を変える力はアップします。原発も米軍基地もない国が絵空事でないことは、フィリピンの歴史が示しています。


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