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2012年4月19日(木)

公務員バッシングの正体

神戸女学院大学教授 石川康宏さんに聞く(3)

「全体の奉仕者」の意味は

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(写真)大阪市議会開会日に「職員・教育基本条例を撤回せよ」とデモ行進する市民=2月28日、大阪市役所前

 財界の巻き返しの動きとして、1980年代には政府の各種会議に経団連や日経連などの財界団体幹部を参加させる、いわゆる「諮問委員会政治」が広められます。戦後はじめて法人税率が引き下げられ、大企業のもうけの自由を拡大する「規制緩和」路線が明確になり、さらに国の形の問題としては、国家は防衛、外交、対外経済政策に専念し、国民生活は自治体まかせにすればよいという議論も強まります。労資協調の色合いを強くもった連合という労働組合(全国組織)の結成を、財界が大歓迎したのは89年のことでした。

財界と政府一体

 90年代の後半には橋本「六大改革」の一つに「行政改革」が位置づけられ、その後、2001年に、他省よりも格上の行政機関となる内閣府がつくられ、そこに経済財政諮問会議がつくられます。そして、この会議の議員に経団連と経済同友会の幹部が入りこみ、政府首脳と一体になって、この国の特に経済政策を動かすようになっていきます。

 現在の公務員バッシングにつながる「公務員制度改革」論は、こうしてこの国の形や公務のあり方を、財界の願いにそってつくりかえるという流れのもとに登場したものです。

 自分の生活を国や自治体に頼るなという「自己責任」論を国民に浸透させ、「小さな政府」づくりの名目で、住民生活をささえる公務を縮小し、あるいはそれを民営化します。

 財界の利益に直結しない公務は不必要なものであり、利益のじゃまになるものは解体するということです。それが「官から民へ」「官は怠惰で不合理だ、競争のある民にまかせた方が合理的だ」―こういうスローガンのもとにすすめられました。

 その結果、保育や介護など福祉の民営化がすすみ、国立大学も投げ捨てられるといったことが起こりました。公務員の削減や公務の解体、あるいはそれを正当化するために繰り広げられた公務員バッシングは、何より住民の生活や学びの権利の喪失に結びついていたのです。

 先日、大阪の橋下市長が、公務員は「国民に対して命令をする立場」だと言い放ちましたが、その橋下氏のバックには関西経済同友会など大きな財界団体がついています。不法な「思想調査」アンケートが問題になりましたが、ああいう強権的な姿勢も、公務員を一部大企業への奉仕者にかえることを、大きなねらいの一つとしたものです。

 このように80年代以後の政治の流れを大きくふりかえるとき、私はあらためて公務員とは何か、公務労働とは何か、それは誰のためにあるもので、どういう人間が担うべきものなのか、こうした根本の問題を考えることが必要になっていると思います。70年代までは、大いに論じられた問題でした。

 基本点にふれておくなら、公務員がどうあるべきかという問題は、国や地方の政治がどうあるべきかに直結します。財界がやりたい放題を行う政治なのか、国民のくらしを守る政治なのか、それによって公務員の果たす役割は大きくかわってくるわけです。

 その意味では、私たちは個々の公務員の行動ばかりに目を奪われるのでなく、この国の政治は公務員に何を行わせようとしているのかという、政治の根本に注目することが必要です。根元にある悪政を野放しにしておいて、公務員には善政を求めるというチグハグは、私たち主権者の責任で正すことが必要です。

住民と手を結び

 もう一つ大切なのは、憲法が公務員を「全体の奉仕者」だとしていることの意味の問題です。仮に政治が財界の利益ばかりを追求しようとするとき、「上司の命令だから仕方がない」とするのが当然なのか、それとも「全体の奉仕者」であることに反すると思われるときには、これに異を唱えることができるのか。そういう問題があるわけです。憲法は「国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令…の全部又は一部は、その効力を有しない」(98条)と書いていますから。

 この点の現場での実際は、具体的な「力関係」に大きく左右されるでしょう。だからこそ「全体の奉仕者」たろうとする公務員と、「全体の奉仕者」にふさわしい公務を必要とせずにおれない住民は、日頃からしっかり手をとりあうことが必要です。公務労働論にとどまらない、公務労働運動論が重要です。(つづく)


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