しんぶん赤旗

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日本共産党

2018年5月8日(火)

シリーズ 憲法の基礎

日米安保と9条 改憲阻んだ市民の岩盤

 日本全土に米軍基地を置き、自衛隊を米軍補完の軍事組織として活用する日米安保体制は、憲法9条と根本的に矛盾し、もともと9条改定を狙ってつくられました。1954年の自衛隊発足直後から9条改憲の動きが強まりましたが、対米従属下での9条改憲の動きは国民の反撃で挫折を繰り返しました。

 54年12月に成立した鳩山一郎内閣は積極的に「憲法改正」を主張し続け、55年の11月15日には自由党と民主党による保守合同で自由民主党(自民党)が誕生しました。自民党の政綱には「独立体制の整備」として「現行憲法の自主的改正」が掲げられました。

 しかし55年2月の総選挙でも、56年7月の参院選挙でも、改憲に反対する勢力が3分の1以上の議席を獲得。小選挙区制の導入(ハトマンダー)の試みも挫折し、改憲派は発議に必要な3分の2以上の議席の獲得に失敗しました。

 57年2月に岸信介内閣が成立し、岸首相は日米安保条約の改定に取り組みます。条約に日米共同作戦条項を盛り込み、その先にアジア・西太平洋での日米軍事協力を目指す意図を秘め、海外派兵のための改憲をもくろむものでした。

 この動きに対し、歴史的な60年安保闘争の高揚が起きます。社会党と日本共産党が共闘し、労働組合や市民団体、学生、市民らが立ち上がり、広大な国民運動に発展。連日、数十万人が国会を包囲し、岸内閣は条約改定を批准するも総辞職へと追い込まれたのです。安保改定から改憲への狙いも挫折しました。

 中曽根康弘元首相は後日、この当時を回顧し「どうして国民はわかってくれないのか」と思ったと語っています。そのうえで、「じっくり反省してみて、これは人間の壁というか、市民社会の岩盤ができたということなんだと」「(私はずっと)治める側にいたわけですが、治められる国民の側にたってみると、戦前戦中にわたりいろんな統制があって、官憲に威張られたり、非常に苦労してようやく自由と平和が得られたわけで、この自由と平和は絶対手放さないという意思が戦後の日本人の中にあった」(『天地有情』)。

(随時掲載)


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