2016年9月25日(日)
シンガポール・マレーシア 日本軍戦争跡をたどる(上)
銃剣で次々刺され
絵・記念碑は告発
旧日本軍が英連合軍を破り、シンガポールとマレーシアを占領したあと、敗戦までの3年8カ月の間に何をしたのかは、日本ではあまり知られていません。この問題で現地調査を長年続けてきたのが、高嶋伸欣(のぶよし)琉球大学名誉教授です。同氏が1983年から始めた教員や有志が参加するスタディーツアーが42回続いてきました。このツアーに参加して見えてきた日本の戦争の跡、そして市民との交流は―。(山沢猛、写真も)
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1年の気温が32度とほとんど変わらないシンガポール。その市街地の「先賢館」に8月18日、ツアーの一行10人が到着、続いて日本人会、日本人学校の生徒や教師が顔をみせ、50人余になりました。
謝さんの証言
この日、日本軍がシンガポールに侵攻し占領した時の体験を証言してくれたのは、謝昭思さん(84)です。
謝さんは当時10歳。一家は両親、母方・父方の兄弟たち計25人で、200頭のブタ、1000羽のカモを飼っていた豊かな農家でした。農地は今のシンガポール大学構内に当たります。
1942年2月15日、最初の日本兵1000人以上がやってきました。謝さんの過去数回にわたる証言記録を含め再現すると―。
「日本軍は次つぎとやってきてブタやカモなどを奪っていった。なくなると父たちをひどくぶった。ある日突然、家並みの端のおばの家から『助けて』という悲鳴が聞こえた。外に出てみると、ネットをかぶり体中に木の枝をつけた日本兵が家の人々を殺していた」
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「日本兵は私たちが隠れていた子ども用の防空壕(ごう)にもきた。15歳の男の子が床に膝をつき、指で地面に『先生、私たちは何をしてさしあげればいいのですか』と中国語で書いた。日本兵はその子の背後から銃剣で突き刺し、頭を殴って刺し殺した」
謝さんはいとこと夢中で逃げましたが、山のそばで捕まり刺され、倒れると何度も刺され、そのうち気が遠くなったといいます。
日本は賠償を
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息が苦しくて意識が戻ると、穴に入れられ土が軽くかけられていました。そこは家からかなり離れた場所で、少しずつはって家に戻ったら、妊娠7カ月の重傷の母と、刺された15歳の姉、生後18カ月の弟、重傷のおば1人がいて、父は即死でした。
悲観した母はカモ池のそばで死のうといいましたが、謝さんはやっと生き返ったのに「死にたくない、いやだ」と泣き叫んだら、近所の人が飛んで来て止め、遺体も埋葬してくれました。悲しく泣く毎日だったといいます。母は出産の直後に亡くなりました。
「母の死後、おばのもとで生活した。日本軍の命令で弟と2人、兵舎の皿洗いなどをしにいった。軍医がかわいがってくれご飯を食べられた。あるとき中国系の若い男女が日本兵に首を切り落とされるところを目の前で見た。それからは日本軍の所に行けなかった」
「日本は今からでも本心から賠償してほしい。この怒りは一生消えない。思い出すと悲しみでいっぱいになる」
謝さんは1998年、アジア・フォーラム横浜(吉池俊子代表)が、シンガポールの華字紙に出した「尋 二戦受害者」(第2次大戦の被害者を探しています)という広告をとりあげた記事を見て名乗り出た1人です。
謝さんが記憶をもとに描いた4枚の絵は、国立公文書館に展示され、インタビュー記録映像も保存されています。
憲兵隊の粛清
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ツアーでは日本軍がシンガポールに初めて上陸した海岸や激戦地など、10カ所近くを巡りました。
その一つが、チャンギ国際空港に着陸する大型機が頭上を横切る「チャンギ海岸」の記念碑です。英語、中国語、マレー語、タミル語、日本語で碑文が記されています。
「1942年2月20日、ここチャンギ海岸の水際で66人の華人男性が補助憲兵銃殺執行隊によって殺害された。この66人は…『抗日分子』一掃のため日本軍が展開したいわゆる大検証(「粛清」)で殺害された何万人もの華人の一部である」
「ここから数百メートル南のタナメラブサル海岸(現在はチャンギ空港滑走路の一部)は日本軍によって最も頻繁に使用された処刑場の一つであり、若者を含む千人を超える華人男性がそこで殺害された」
謝さん家族の殺害は、この大規模な華僑虐殺の前触れでした。2月18日、山下奉文第25軍司令官が「抗日分子」掃討を命じ開始されました。英連合軍との戦闘が終わった後の事件でした。
この「粛清」を実行したのが、占領後の治安を担った憲兵隊でした。1976年発行の『日本憲兵正史』(全国憲友会連合会発行)では「遺憾な粛清事件であり、この事件は大東亜戦争史上一大汚点となった」とみずから記しています。
占領開始の2月15日には毎年、市街中心部に白くそびえる「日本占領時期死難人民紀念碑」、いわゆる「血債の塔」で政府主催の追悼式が行われています。(つづく)
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