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2015年8月14日(金)

8・15特集<下>

憲法を支えに戦後70年

平和求める世論と日米安保のせめぎあい

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 安倍首相の戦後70年談話に関する有識者会議の報告書(6日)は、戦後の日本について「第二次大戦後、日本は、日米安全保障条約が可能にした軽武装、平和路線の道を一貫して歩み、経済発展にまい進してきた」「日本が…一度も外国から攻撃を受けることなく、平和を享受できたのは、日米安保体制が作り出した抑止力によるところが大きい」などと安保条約=日米同盟礼賛論を展開しています。

 しかし、これは歴史を歪曲(わいきょく)する議論です。アメリカはみずからの世界戦略に日本を組み込み、「戦争する国」にしようとし、自民党などがそれに追随してきました。一方、憲法9条を守り、生かし、平和を希求する国民の世論と運動とが脈々と続き、その力が歴代政府を縛り、「戦争する国」への道を阻んできたのが実態です。

日本の「再軍備」を許さず

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(写真)安保条約締結後に握手する吉田茂首相とダレス特使=1951年9月8日(出典『日本近現代史を読む』)

 アメリカの戦略と国民の世論と運動が最初に衝突したのは、憲法が制定されてまもなくでした。

 戦後の日本の原点は、軍国主義の除去と民主主義の確立を基本的な内容とする「ポツダム宣言」にありました。それを具体化しふたたび戦争をしないという日本国民の決意と願いによって生まれたのが日本国憲法(1947年)でした。

 ところが、アメリカは、ソ連との「冷戦」が確定的になると、憲法施行の翌年には日本に再軍備を迫るようになります。当時のロイヤル米陸軍長官は1948年1月、演説で日本を「反共の防波堤」にする政策を表明。国防長官が日本の「再軍備」研究を指示し、研究をへて翌年2月には、米統合参謀本部の決定として「日本の限定的再軍備」の方針が確定します。この方針では、「人的資源の節約」のために日本の軍隊創設を「望ましい」とし、その立場から「新憲法の改正を実現するための探求を行うべきだ」と再軍備と憲法改定を日本に押し付けようとしました。

 この方針のもと、朝鮮戦争(50年6月〜53年7月休戦)勃発の直後に、自衛隊の前身となる警察予備隊が発足。日本全国にあった米軍基地は空爆や輸送に利用され、日本は朝鮮戦争の前線基地となりました。51年にはサンフランシスコ講和条約とともに、日米安保条約(旧安保条約)が締結され、日本全土どこでも米軍基地をつくることができる(全土基地方式)という世界に例のない従属的な軍事同盟に組み込まれました。

 しかし、国民はすべての交戦国との平和を回復する全面講和を求める運動や各地で展開された米軍基地拡張反対のたたかいなど、戦争への動きにきびしく対決してきました。

 その一つが、東京都砂川町(現立川市)で米軍基地拡張に反対した砂川闘争です。たたかいの中で不当逮捕事件が起こり、裁判闘争の末、「米軍駐留は憲法九条に違反する」という画期的な東京地裁判決(伊達判決、59年)が出されます。これを覆そうとアメリカ政府が介入し、最高裁に直接上告(跳躍上告)し、伊達判決を破棄したのです。この時の最高裁判決は安倍内閣が集団的自衛権行使の“根拠”だと強弁する「砂川判決」(59年)です。

 戦後の改憲をめぐる歴史に詳しい渡辺治一橋大学名誉教授は「安保、再軍備、改憲に反対した50年代の国民の運動は改憲の危機を壊しただけでなく、基地反対の運動などによって米軍基地を自由に使用できなくなるという危機感をもたせました」と指摘します。

 54年に発足した自衛隊も、憲法が禁じる「戦力」ではない、「軍隊ではない」との解釈を取らざるを得なかったのです。

集団的自衛権禁止 明確に

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(写真)60年安保闘争時の東京・銀座でのデモ行進=1960年7月2日

 アメリカが次に狙ったのが、自衛隊を共同の戦争体制に組み込むことでした。ただ、この時代は米ソ対決のもと「極東」での戦争体制でした。

 この仕組みがつくられたのが、1960年の安保改定でした。安保改定では、自衛隊と米軍の共同作戦を義務づけられました(第5条)。そして1978年には、「日米軍事協力の指針」(ガイドライン)で、共同作戦計画づくりがはじめられます。

 しかし、この企ての最初から国民の大闘争、「安保改定反対闘争」が立ちはだかります。「安保条約改定阻止国民会議」(安保共闘)のもと、地域の共闘組織は2千に達し、60年5月の衆院強行採決後には、500万から600万人の労働者が抗議のストライキに参加、反対署名は2千万を突破しました。

 渡辺氏は「安保闘争に恐れをなした自民党政府とアメリカは政策転換を余儀なくされます。米軍基地の自由な使用に集中し安保改定の目的であった日米共同作戦態勢づくりは78年のガイドラインまで、大幅に遅れざるを得なくなりました」といいます。

 60年代にアメリカはベトナムに軍事介入し、地上軍を50万人以上派遣し、大規模な侵略戦争を行います。日本の自衛隊は直接戦争に参加しませんでしたが、沖縄を含む日本の米軍基地はベトナム戦争の出撃拠点、兵たん基地として重要な役割をはたします。

 これに対して侵略戦争への加担に反対する立場から、ベトナム戦争反対運動、沖縄の本土復帰運動などがたたかわれました。国会の状況にも変化が生まれました。

 渡辺氏は「72年には共産党の議席は38議席に躍進し、社会党や公明党も含めて、国会で政府の安保・防衛政策を鋭く追及しました。政府は防戦一方となり、自衛隊合憲をいうため、その活動にさまざまな制約を設けざるを得なくなりました」と指摘します。

 自衛隊を違憲とする憲法裁判闘争がたたかわれ、73年には札幌地裁で自衛隊違憲判決(長沼裁判)を勝ち取ります。

 砂川裁判をはじめ多くの憲法裁判にかかわった内藤功弁護士はいいます。「砂川から長沼に続く諸闘争で追い込まれた政府は9条の解釈を整理します。集団的自衛権の行使は許されないとした『72年政府見解』はその一つです。自衛隊の合憲性を守る一方で、自衛隊の任務や活動などに、集団的自衛権行使の禁止、海外派兵の禁止などの制限を設けざるをえなかったのです」

 「海外での武力行使は許されない」という縛りは、日米軍事同盟体制も大きく制約することになりました。さらに、政府は国民の批判に応えざるを得なくなり、非核三原則、武器輸出三原則、防衛費GNP1%枠などを打ち出したのです。

戦争法案反対 空前の運動

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(写真)衆院特別委員会での戦争法案の強行採決に抗議し廃案を求める人たち=7月15日夜、国会正門前

 終戦70年談話の有識者懇報告書(前出)は「湾岸戦争において巨額の財政援助をしたにも拘(かか)わらず、国際社会に評価されなかったことは、日本に大きな衝撃を与えた」とし、これを機に「現在まで続く日本の積極的平和主義の歩みが始まった」と描いています。

 しかし、日本政府が実際にやってきたことは、ソ連崩壊後、「ならず者国家」などに矛先を向けたアメリカの「先制攻撃戦略」にそって自衛隊の海外派兵を拡大するなど、地球規模の共同作戦体制を強化することでした。

 その第一歩として、政府は1992年にPKO(国連平和維持活動)協力法を制定し、自衛隊の海外派兵に道を開きました。97年には、これまでの日米安保条約を超えて「日米防衛協力」の対象地域を「日本周辺地域」とする新ガイドラインを確認。日本側は、これを法律化した「周辺事態法」を成立させました。

 2001年の米同時多発テロを受けてアメリカはアフガニスタン戦争、イラク戦争を開始しました。小泉内閣は真っ先にアメリカへの支持を表明。米側の「ショー・ザ・フラッグ(旗を立てよ)」「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(地上部隊を出せ)」の要求に応え、「テロ対策特別措置法」「イラク特別措置法」を次々に強行成立させ、海上自衛隊をインド洋に、次いで陸上自衛隊と航空自衛隊をイラクに派遣しました。

 イラク派兵の実態は、サマワで陸自宿営地が14回もの攻撃を受け、空自輸送機が命がけの回避行動を取るなど戦闘の一歩手前でした。しかし、自衛隊の活動は「武力行使と一体化しない」「非戦闘地域」に限るなど、憲法上の制約・「歯止め」によって、自衛隊員の犠牲者が出ることは避けられました。同時に、こうした制約がある限りアメリカの全面的な要求に応えることができないとして、米国内からは公然と日本に集団的自衛権の行使を要求する動きも出てきました。

 一方、海外派兵の拡大、9条改憲の動きに反対する国民の運動は急速に広がり、04年につくられた「九条の会」は08年に7000を超え、同年の「読売」世論調査では改憲反対が賛成を逆転して多数となりました。

 2012年に再登場した安倍内閣はこうした国民運動に挑戦し、明文改憲、改憲手続きを緩和する96条改憲を策しましたが、それがつまずくと、昨年7月、集団的自衛権を禁じたこれまでの憲法解釈を百八十度転換する「閣議決定」を強行。今国会に、それを具体化した戦争法案を提出し、成立に執念を燃やしています。これは、「非戦闘地域」など憲法上の「歯止め」をはずし、米国の戦争にいつでもどこでも自衛隊を参戦させるものです。

 しかし、同法案は審議すればするほど戦争法案としての本質が明らかになり、「反対」「違憲」の声が多数となっています。若い世代や女性たちが「憲法を未来に引き継ぎたい」「本当に(法案を)止める」と立ち上がれば、戦争体験者など年配の世代も「戦争を繰り返すな」と行動し、多くの学者・研究者・法曹界・文化人が知識人としての責任と誇りにかけて声を上げています。戦争法案に反対するたたかいは、その広さと深さ、自覚的・創意的なエネルギーの発揮という点で戦後の国民運動の歴史の中でも空前の広がりをみせています。

 「戦争か平和か」。日本の政治が歴史的岐路に立つ中、戦後70年を迎えます。

安倍政権の源流はどこにあるか

戦犯勢力の温存と自民右派勢力の策動

 安倍首相は過去の日本の戦争を「侵略戦争」だったとも「間違った戦争」だったとも認めようとしません。この安倍政権の逆流の源流はどこにあるのか。

 侵略戦争を推し進めた日本の支配層は敗戦と極東国際軍事裁判(東京裁判)で深刻な打撃を受けました。東京裁判ではA級戦犯25人が有罪とされ、元首相・東条英機ら7人が絞首刑に処せられました。

 しかし、米ソ冷戦の激化とアメリカによる日本の反共基地化という国際情勢を背景に、岸信介(東条内閣の商工相)らA級戦犯容疑者は不起訴・釈放され、有罪となったA級戦犯も仮釈放・赦免されました。その後、A級戦犯の一人、賀屋興宣(東条内閣の蔵相)は池田内閣の法相に、岸は自民党総裁・首相にまでなりました。

 これは日本の政界に、侵略戦争への無反省という他国に例のない性格を刻むものとなりました。日中国交回復を実現した田中角栄首相も、その後の竹下登首相も、日本の行った戦争は侵略戦争だったと考えているのかという日本共産党の国会での追及に“後世の歴史家が決めるものだ”と答弁するほどでした。

 しかし、90年代に自民党単独政権が終えん。非自民連立政権の細川護熙(もりひろ)首相は就任会見で「侵略戦争だと認識している」と明言(93年)し、自民・社会・さきがけ連立政権の村山富市首相は終戦50年談話(95年)で「植民地支配と侵略」への「反省」「お詫び」を初めて表明しました。

 これに衝撃を受けた自民党の右派勢力は「歴史・検討委員会」を結成、“あの戦争はアジア解放と日本の自存自衛の戦争だった”とする『大東亜戦争の総括』を発表しました。この潮流はさらに、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(教科書議連)を発足させ、“戦争礼賛論”を歴史教科書に持ち込む運動を支援しました。

 この「歴史・検討委員会」に国会議員に当選したばかりで参加し、「教科書議連」に当選4年目で事務局長に抜てきされたのが、安倍晋三氏でした。安倍氏はこうした「大東亜戦争肯定」論の異質な潮流の中心で育成されるとともに、自民党幹事長、官房長官、首相へと押し上げられていったのでした。

 第2次安倍改造内閣誕生時の18人の自民党閣僚全員が、改憲右翼団体「日本会議」の国会議員連盟か、天皇中心の国づくりを目指す「神道政治連盟」の国会議員懇談会のメンバーでした。まさに、侵略戦争の美化・礼賛一色の内閣です。

(若林明、入沢隆文)


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