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2018年8月10日(金)

命かけ民意貫いた翁長知事

県民が心一つになるために

 「戦後、自分が持ってきたわけでもない基地をはさんで保守だ、革新だと県民同士がいがみあってきた。基地問題を解決しないと、沖縄県が21世紀にむかってしっかりと羽ばたけない。これが私の思いだ」。2014年12月10日、沖縄県庁1階ロビーで開かれた知事就任式。翁長雄志氏が目指していた沖縄の未来像が、この言葉に凝縮されています。

 (政治部副部長 竹下岳)


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(写真)総選挙で訴える翁長雄志知事=2017年10月18日、那覇市

振興策で分断

 戦後、米軍の占領下で「基地の島」にされた沖縄県。県民は占領当局によって分断させられ、土地を奪われ、事故や犯罪など「基地あるがゆえ」の苦難にさらされてきました。

 復帰後は日本政府の「基地と引き換えの振興策」による分断が続きました。その最たるものが、基地の「県内たらい回し=普天間基地の辺野古移設」でした。

 1950年、保守政治家の家系に生まれた翁長氏は、自民党県連幹事長を務めるなど、「保守の王道」を歩んできました。同時に、幼少のころから、基地をめぐる県民の対立に疑問を持ち続けていたといいます。

 転機となったのが、旧日本軍による集団自決の強制を否定した教科書検定問題でした。県民は怒り、2007年9月、保守も革新も一丸になった県民大会が開かれ、翁長氏は反対運動の先頭に立ちました。

 この時、「県民は自らの尊厳と誇りを自覚し、自分たちの足で歩きたい、自分たちで決定したいと考えるようになった」と翁長氏は指摘しています(『戦う民意』)。後にこうした思いを「誇りある豊かさ」と表現し、知事選公約の表題にしています。

 以来、翁長氏は保守政治家として、辺野古新基地建設やオスプレイ配備反対の先頭に立ち、13年1月には、県内全会派・全首長・議長らによる「建白書」をとりまとめ、政府に突き付けたのでした。

 安倍政権に屈して辺野古新基地容認に転じた仲井真弘多前知事らによる裏切りの中、翁長氏は屈せず、「辺野古新基地ノー」の圧倒的な民意に寄り添う決断を下します。14年11月、翁長氏は約10万票の大差で圧勝し、史上初の「オール沖縄」県政が成立しました。

平和の懸け橋

 「辺野古新基地阻止を県政の柱にすえる」。就任以来、こう訴えてきた翁長氏は圧倒的な民意を背景に、史上最も民意を踏みにじる安倍政権に対して一歩も引かず、あらゆる権限を行使してたたかい続けてきました。

 安倍政権は国家権力を総動員して新基地建設を推進してきました。厳しい局面が続きましたが、それでも工事は遅れ、今なお全体の数%しか完了していません。県民の不屈のたたかいと翁長県政が一体となった成果です。

 埋め立て予定区域に軟弱地盤の存在が明らかとなり、知事権限を行使すれば新基地が頓挫するという展望が広がる中、翁長氏は膵臓(すいぞう)がんにむしばまれました。それでも今秋の県知事選を視野に、7月27日、埋め立て承認撤回を表明しました。

 「自分の手で撤回したかった」。こう言い残して旅立った翁長氏は、最後まで民意に寄り添い、民意に自らをささげました。基地問題を解決し、真の地方自治を確立し、日本とアジア、そして世界との平和の懸け橋となる沖縄を夢見ながら―。

“覚悟は本物”

 「オール沖縄」県政の意義は、沖縄県だけにとどまりません。2015年9月、安倍政権が圧倒的な民意を無視して強行した安保法制=戦争法の廃止を掲げた「市民と野党の共闘」の動きが始まりました。そのモデルとなったのが、「保守」「革新」の立場を超え、辺野古新基地阻止で一致してたたかう「オール沖縄」の流れです。

 4年前の県知事選直前、翁長氏へのインタビューの機会がありました。印象的な言葉がありました。「組織に属していると、なかなか一歩脱しきれない。そうであるのなら、すべて破滅するかもしれない私が一歩踏み出せば、必ず多くの方々に理解してもらえる」

 長年属していた自民党を離れ、“破滅”を覚悟しながら県民の心を一つにする。「この人の覚悟は本物だ」と確信しました。

 「オール沖縄」形成における翁長氏の貢献は絶大なものがあります。しかし、その背景には基地をめぐる分断を乗り越えて団結を実現しようとたたかってきた、県民の長い苦闘があります。それが結実したのが、翁長県政なのです。

 もはや後戻りはありません。「オール沖縄」のさらなる発展へ、たたかいは続きます。


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