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2017年7月13日(木)

2017とくほう・特報

弾圧された戦前の経済学者・河上肇のおい 河上荘吾さん(88)が語る

治安維持法の時代復活は許さない

貧乏根絶と反戦平和――貫いた信念 自分たちも

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 「治安維持法が荒れ狂った時代を二度と許してはならない」。治安維持法の現代版、「共謀罪」法と安倍政権に怒るのは戦前の経済学者で日本共産党員・河上肇のおい、河上荘吾さん(88)です。内心の自由、結社の自由さえ認めない暗黒時代を当時の「特高刑事」の名刺も示して告発し、“社会の羅針盤”をもった生き方が大切だと語ります。(阿部活士)


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(写真)河上肇の歌碑の前で思い出を語る河上荘吾さん

 荘吾さんの父・河上左京は東京の画家でした。京都大学教授だった河上肇は、左京の10歳違いの兄です。肇の『貧乏物語』(1917年)の表紙は左京が描きました。

翻訳や入党が「罪」とされて

 生家は山口県岩国市錦見(にしみ)にあります。住宅街にある板塀と瓦の門構えの一軒家。いまも荘吾さんが暮らしています。

 肇の『第二貧乏物語』(30年)は、当時の科学的社会主義の入門書としてベストセラーになりました。日本共産党(22年7月15日創立)に頼まれて32年、「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(三二年テーゼ)を翻訳しました。

 肇は同年8月、日本共産党に入党しました。53歳のときです。その感激を「たどりつきふりかへりみればやまかはをこえてはこえてきつるものかな」と詠みました。

 検挙された肇は、翻訳や入党が治安維持法違反とされ、懲役5年に処されました。37年6月に出獄したものの、恩給だけの生活は健康を害しました。いつも監視される保護観察処分は44年2月まで続きました。

 戦争がおわった45年、公然たる活動を開始した日本共産党は10月に京都の自宅で栄養失調のため病床にあった肇を激励しましたが、翌年1月、67歳で永眠しました。

防空ずきんに「臍曲(へそまがり)」の文字

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(写真)河上さんが保存している憲兵と特高の名刺

 肇が入獄した33年、荘吾さんの父・左京は家族で、祖母・タヅの面倒をみるため生家に引っ越しました。荘吾さん4歳の時です。

 「兄貴は、おれの太陽だ。戦争は終わると予見し、社会の発展方向について正しい見通しを与えてくれた」

 父が語った河上肇像です。

 肇は出獄後ひそかに書き続けた「自叙伝」や激励の手紙を生家に送りました。父はその原稿を朝食のあとにタヅのために読むことが何度かあったといいます。

 家の外は、“戦争は勝った”“天皇陛下万歳”という軍国主義一色になるなか、「家のなかはそんな空気はみじんもなかった」と荘吾さん。

 父は手先が器用で、防空ずきんに「臍曲(へそまがり)」という文字を浮き彫りにした手づくりの「記章」をつけていました。

 「臍曲」には深い意味が込められていました。「表面は従うようだが、心は権力の側に向いていないぞという意思の表れです」と荘吾さん。

 「この家は閉門になった」とのうわさが立つなか、父は隣近所と違うことは避けていました。祝日に「日の丸」を掲げるのは子どもたちの役割にしました。父は本心とは別に「おいおい、旗たてんにゃ」と催促しました。

 米軍の空襲警報のサイレンがしばしば鳴った時期です。荘吾さんは父の肝を冷やす“事件”を起こしました。

 その日酒かすを食べ過ぎて、学校で覚えた皇太子誕生の祝い歌を歌ったのです。

 「鳴った鳴ったポーポ サイレン夜明けの鐘まで 天皇陛下およろこび」

 歌のサイレンは皇太子誕生のお祝いですが、歌った当時のサイレンといえば空襲警報。天皇が喜ぶはずのない空襲警報を「お喜び」と皮肉を込めたつもりでした。しかし、天皇をちゃかすと“不敬”で特高の取り締まり対象になります。

 外で歌を聞いた父親が怒鳴りこんできました。「用心せんといけんぞ」

 それから、家に憲兵や特高が現れ始めました。父は適当にあしらい、逆らうようなことはなかったといいます。

 荘吾さんが透明ファイルにしまっている古びた名刺は7枚。特高は、「岩国警察署勤務 特高刑事 津森忠雄」「岩国警察署 特高刑事 須山静男」など6枚。いずれも住所も電話も記されていません。憲兵は1枚だけ。

「特高は繰り返しやって来て、子どもの素行から親の本心、肇の動向を探ろうとした。父の警戒心は正しかった」

「共謀罪」廃止 肇の詩を贈る

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(写真)泥棒が残した置き手紙

 戦後、河上肇の生き方を庶民はどうみていたのでしょうか。

 荘吾さんは大事にしている古びた“紙切れ”を出しました。空き巣に入った泥棒が走り書きしたものです。

 「汗が出たからハンカチだけもらって行く 悪かった 御免なさい せっかく入ったけど 河上博士の生家だと気が付いたから盗らない」

 この文面を見ながら「働くもののための社会の実現を主張して河上肇は抑圧され攻撃されましたが、多くの人たちが自分たちの味方として好意をよせていたと思う」と語る荘吾さん。同じひとすじの道・日本共産党に入党し、2002年まで党山口県東部地区委員会で専従活動をしてきました。

 荘吾さんと二人三脚で戦後を歩んできた妻・シノブさん(85)は、パーキンソン病で不自由な口調ながら「河上肇は、貧乏の根絶と戦争反対、平和のために『いいことはいい』と信念を貫いた。私たちもそれに続く家族です」といいます。

 荘吾さんは、「共謀罪」廃止のたたかいをすすめる次の世代に贈る言葉は河上肇が最期に残した詩のとおりだといいます。

 詩は、こう結んでいます。

 「空しくわれ病床に臥(が)して 思いを天下の同志に馳(は)せ 切にその奮起を祈つてやまず」


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