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2017年4月18日(火)

2017とくほう・特報

戦争は教室から始まる。軍国少女・少年を再びつくってはいけない

教育勅語“教材否定せず” 戦争体験者ら批判

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 安倍政権が行った「教育勅語を教材にすることを否定しない」との閣議決定(3月31日)に批判が広がっています。1890年(明治23年)に発布した教育勅語がなぜ、21世紀のいまなのでしょうか。戦争体験者や研究者から告発が相つぎました。(阿部活士、武田恵子)


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(写真)1938年当時、福岡県久留米市の小学校の教室。黒板の右上には伊勢の「皇大神宮」の写真入りの額が、左上には、皇居「二重橋」の写真入りの額が掲げられている。両方をつなぐ形で「國史年代表」が貼られ、年代表の始まりは神代となっている(北村小夜さん提供)

 「戦争は教室から始まります。私のような軍国少女を再びつくってはいけない」

 こう話すのは、元教員の北村小夜さん(91)=東京都大田区在住=です。

国語の授業も「忠孝」「愛国」

 生まれ育った福岡県久留米市の小学校を1938年(昭和13年)に卒業。卒業時にもらった授業風景の写真を見せてくれました。

 黒板に、「我が國民性の長所短所」「長所 忠孝の美風」「國土 島國 擧國一致 熱烈な愛國心」などの文字が書かれています。

 「これ、修身の授業じゃないですよ。国語です。戦前・戦中の教育の目的は、教育勅語に基づいた愛国的な国民を育てることでした。それを育てるための国語であり、数学であり、理科でした」

 教育勅語は、「朕(ちん)惟(おも)フニ我カ皇祖皇宗(こうそこうそう)(天皇の先祖代々)」という神話で権威づけ、「臣民」(君主に支配される人民)に向けて指図したものです。「朕」とは天皇の自称です。

 北村さんは、「国民が臣民とされた時代の教えです。どこが悪いのかをはっきりさせることが大事」と前置きし、「たとえどんなに真理を語っていようとも、君主に指図をされるいわれはない。戦後できた日本国憲法は国民主権です。教育勅語は国民主権の憲法と相いれないのです」といいます。

“不敬事件”がたちまち拡大

 なぜ、明治政府は教育勅語をつくったのか。

 「自由民権運動で高揚した人民のたたかいに対抗するためにもつくられたが、天皇の名前で勅語にしたので、当時の社会では神聖不可侵のものとなりました。たちまち“それは教育勅語に反している。不敬だ”と不敬事件が広がりました。人を陥れる材料に使われました」

 日本近代史を専門とする岩井忠熊立命館大学名誉教授の指摘です。

 教育と宗教の衝突として有名なのが、クリスチャンとして教育勅語を拝むことを拒否した内村鑑三の不敬事件(1891年)でした。信教・信仰の自由がなく、彼は一高の教職を追い出されました。

 東洋大の前身である哲学館で倫理学を教えていた中島徳蔵の「事件」(1902年)がありました。イギリスのムイアヘッドのテキストを使いました。そのなかで、“皇帝が不正を働いた時には、これを殺すことは倫理的に間違っていない”とありました。“教育勅語からみてテキストとしてふさわしくない”と、中島氏は哲学館を排斥させられました。

 教育勅語が日本社会にもたらした弊害について、岩井さんは語ります。「欧州で普及されていた学説の紹介も『不敬』事件とされて事実上禁止になるのです。日本人の多様な思想形成は、教育勅語を軸にした教育を通じてタブーを抱えてしまい、世界的な視野を失ってしまいました」

 さらに、「教育勅語は、臣民にたいし天皇のために忠誠を誓い、命を捨てろというものです。外に向かっては、“中外に施してあやまらず”と世界に広めようという意志を示します。のちの太平洋戦争に至る八紘一宇(はっこういちう)の思想に通じるものです。日本が世界の中心であって、天皇の意向を世界に広めることが八紘一宇。侵略戦争に突き進むうえでの精神的な考えです」。

 過去の侵略戦争と植民地支配に無反省な安倍政権のもとでの教材化は、新たな火種を抱えることにもなります。

少女みずから「戦争をした」

 教育勅語で育てた軍国少年は、国がおこす戦争に疑いを持たない兵士となっていきました。戦死を前提にした特別攻撃隊(特攻)に志願させられた青少年が続出しました。さきの岩井さんもその一人です。

 少女の場合は―。

 冒頭の北村さんは自ら「戦争をした」と語ります。強烈な記憶があります。久留米市の工兵隊から中国に出兵した3人が爆弾筒を抱えて上海の鉄条網を突破した「爆弾三勇士」の「栄光をたたえる」旗行列が32年にありました。旗につられ参加し、おとなに抱き上げられた上から見る「日の丸」の旗の波に魅せられました。

 海軍予備学生に行ったボーイフレンドが「この世で会えなかったら靖国で会いましょう」と書き置きしたときには、「どうしたら靖国で会えるだろう」と考えて、「戦死」を覚悟して、日本赤十字社の救護看護婦養成所に入ります。

 「教育勅語は、天皇が言ったから、神がつくった国だからこうしなさいということですね。そして、最後は、『朕のために命を差し出せ』ですよ。また再び、そんなことをするのか、安倍政権に問いたいですね」と話します。

道徳の教材に使えない代物

 岩井さんは、教育勅語は道徳の教材としても失格だったといいます。

 日清戦争(1894年〜95年)後に、第二の教育勅語をつくる動きがありました。

 公家の西園寺公望が2度目の文部大臣になった時です。「日本も産業革命期に入り、市民社会ができつつあった。これからの時代、今までの教育勅語は力を失う。新しい教育勅語を出さないといけない」と主張しました。

 「西園寺という当時の支配階級のなかでも、それまでの教育勅語にかえて、新しい市民社会の道徳をつくる必要があるというのです。西園寺の病気辞任で新教育勅語は挫折しましたが、教育勅語ができてから10年たらずで使えない代物と思われていました。それを今ごろになって教材にするなど時代錯誤も甚だしい」と岩井さん。教材化の動きを警告します。

 「当時、子どもたちは教育勅語で育てられ、国がおこす戦争に積極的に参加する、私のような特攻隊に行くような子どもをつくりだしたわけです。日本の国家社会を支える青少年をつくりだそうという力が教育勅語の賛美として働き、戦前をよみがえらせようとしていると思います。絶対に許してはいけない」

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(写真)学校で実際に使われた巻物仕立ての教育勅語の謄本(提供・沖縄県平和祈念資料館)

教育勅語の謄本

 『教育勅語の研究』の著者・岩本努さんによると、文部省が当初作成し、手元にあった教育勅語の謄本原版は、関東大震災の火災でなくしました。その後、字体を変えて再発行したといいます。

 一枚の紙きれの教育勅語の謄本は、学校現場では読み上げたり、保管するために巻物に仕上げていました。

 「1行17字、19行」の形式です。岩本さんは、「この形式は写経と同じ。お経を唱えるように覚えやすくしたと思います」といいます。


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