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2016年2月9日(火)

『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』第5巻を語る(下)

対日戦終結の過程で無数の国民的悲劇が

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 山口 第24章は「対日戦の終結」です。ヤルタ会談(1945年2月)とポツダム会談(同年7月)について、英米ソ3国の当事者の発言と公の会談記録で組み上げられています。

ヤルタ会談―カイロ宣言にそむく千島列島のソ連引き渡しの密約

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(写真)左から山口富男、不破哲三、石川康宏の各氏

 不破 この『ヤルタ秘録』(写真、時事通信社)は55年の『世界週報』の付録として出たものなんです。ヤルタ会談に至る経過を書いた、アメリカ国務省の、唯一の貴重な記録です。この古い本を残しておいたおかげでこの章の前半が書けました。(笑い)

 山口 ここでの解明には今の日本の政治や社会につながる問題が多く含まれています。代表的なのがヤルタ密約です。スターリンが、アメリカの求めていたソ連の対日参戦を覇権主義的な領土・権益獲得の機会と結びつけていく過程が生なましく示されています。

全く無視されたカイロ宣言

 不破 アメリカの国務省はソ連が千島を要求することを承知していて、研究します。国務省の大統領への進言は、「南千島」と「北千島」を区別して南千島は日本に、北千島は国連のもとにおいてソ連を管理国とする形で解決しようというものでした。しかし、ルーズベルト大統領がそれを読んだ形跡はなく、ヤルタ会談でソ連の対日参戦を取りつけるため、千島を引き渡してほしいというスターリンの言い分を無条件で認めるんです。

 44年10月のモスクワでの協議から45年2月のヤルタ会談にいたる米ソ協議の中で、「カイロ宣言」の「領土不拡大」の条項が、米ソの双方で一言も問題にされなかったのは、重大な問題でした。

 この密約には、中国東北部の利権をソ連に引き渡すことも入っています。当事者で、連合国の一員でもある中国に知らせずに決めてるんですよ。ひどいものです。

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(写真)米国務省『ヤルタ秘録』(『世界週報』付録)

 石川 日本が降伏した後に、スターリンが対日戦争を「日露戦争の復讐(ふくしゅう)」と特徴づけたというのも驚きですね。スターリンがレーニンの後継者でなく、ツァーリズムの領土拡張主義の後継者だということがはっきり表れています。

 山口 今、千島問題を、密約を含む政治的な問題として俎上(そじょう)に載せて解決をはかろうと提案しているのは、政党では日本共産党だけですね。

 不破 千島問題で対ロ交渉をいくらやっても、ヤルタ密約を受け入れたサンフランシスコ条約を根拠にする限りは解決不能です。わが党は、1969年以来、「領土不拡大」条項に違反した、戦後の領土処理の不公正を明らかにするところから出発すべきだと主張していますが、自民党は受け入れないままです。

 石川 第2次大戦でソ連に領土を不当に奪われ、いまだに回復することができていないのは、世界で千島だけですが、そこには戦後日本外交の不条理も現れているわけですね。

二つの悲劇の根底には日本降伏への主導権争いが

 不破 スターリンにとっての誤算は、ルーズベルトが死んでトルーマンに代わり、チャーチルがポツダム会談の途中で選挙に負けてアトリーに代わったことです。スターリン、チャーチル、ルーズベルトの間には、立場は違うがお互いに助け合ってきた戦友的同志関係がありました。

 首脳間のそういう関係が失われたうえ、ポツダム会談の直前に原爆実験に成功したため、この会談ではスターリンと対日参戦の相談を全然しないんです。アメリカは原子爆弾を使うことも、いつ使うかも知らせませんでした。

 石川 ポツダム会談直前に成功した原爆実験が、米英とソ連との力関係をこれほど大きく変えるものだったとは知りませんでした。これによって米英は、対日戦にソ連を必要としなくなったと判断するわけですね。

 不破 ポツダム宣言以後は、それぞれが日本を敗北させる主導権争いをして、原爆投下と満州攻撃という悲劇が同時に進行するわけです。

対ソ交渉に用意した降伏条件の驚くべき内容

 山口 この時、日本の戦争指導部はポツダム宣言「黙殺」声明を出し、その結果、原子爆弾の使用とソ連参戦の口実を与え、国民に悲劇をもたらしたわけでしょ。

 不破 閣議決定したのは文字通りの「黙殺」、つまり放置することで、コメントは出さないはずでした。ところが軍部に突き上げられて、鈴木貫太郎首相は正式な会議も開かずに「黙殺」声明を出したうえに、勝利のために「あくまでも邁進(まいしん)する」とつけ加えて発表したのです。黙殺どころか、ものすごい講和拒否・交戦声明ですよ。

 山口 海軍少将の高木惣吉(そうきち)は敗戦直後の回想で“連合国側は日本政府の正式拒絶と認め、原子爆弾の使用とソ連参戦の口実をむざむざと提供してしまった”と書いています。

 不破 『終戦工作の記録』(江藤淳監修、講談社文庫)に詳しく書かれていますが、日本は世界の動きにまったく無知なまま、ソ連を仲介役にして英米と降伏交渉をしようとします。その時につくった降伏条件がひどいんですよ。

 一つは、日本の「固有の領土」から沖縄と小笠原と北千島をはずしたことです。沖縄戦であれだけの悲劇を与えておいてですよ。領土不拡大の原則を決めた「カイロ宣言」も知らずにやっている。戦後、講和条約で沖縄と小笠原を別扱いして、アメリカが手に入れる格好の材料にされたと思います。

 もう一つは、外地にいる日本人はできるだけ日本に帰さないとしたことです。日本は人口密度が高くて経済的に困るからというんです。これが満州問題、シベリア抑留問題を引き起こす大きな要因の一つとなりました。

発見された関東軍とソ連側との交渉記録

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(写真)「ソ連軍に対する瀬島参謀起案陳情書」(『シベリアの挽歌』から)

(拡大図はこちら)

 不破 満州にいる日本軍人の扱いで謎だったのは、ソ連内部で相反する二つの指令が出ていたことです。

 8月16日に政府首脳部のベリヤや軍首脳部のアントーノフが共同で、日本軍捕虜はソ連領には運ばないという指令を出しています。日本軍人は武装解除して日本に帰すというポツダム宣言が頭にあったのでしょうね。ところが、8月24日に今度はスターリンから、シベリアに送れと指令が出ます。この8日間に何があったのかが謎でした。

 これについては、全国捕虜抑留者協会の元会長の斎藤六郎さん(故人)が徹底的に調べて『シベリアの挽歌(ばんか)』に書いています。敗戦直後の関東軍とソ連側との交渉記録をソ連で見つけたんです。

 明らかになったのは、大本営から派遣された参謀の朝枝繁春がソ連軍と面会して、「現地にいる日本人はソ連の庇護(ひご)のもと満州・朝鮮に土着させて生活させてほしい」と要請したことです。

 これは、戦争指導部がソ連に講和の仲介を頼もうとしたときに決めた、「現地土着」「賠償として労力の提供にも同意する」という方針を受けたものです。おそらくスターリンは朝枝の要請を知り、ポツダム宣言を守る必要はないと考えて指令を出し直したのでしょう。

 その後さらに、瀬島龍三という大本営の参謀が“日本の軍人を預かって貴軍隊のために働かせてほしい”という陳情書をソ連に出しているんです。これがそのコピー(写真)です。

 山口 不破さんは、シベリア抑留はソ連と日本の戦争指導部が“合作”で引き起こした悲劇だった、それは疑問の余地のない歴史の事実だ、と指摘しています。

 これまで、これらの降伏条件は、天皇の特使として講和仲介の対ソ交渉にあたることになっていた近衛文麿周辺のつくった「私案」だととらえられていました。不破さんは今回の研究で、そうではなく、関東軍の異常な交渉態度から見ても、戦争指導部全体の合意になっていたにちがいないと推定しています。

 不破 在満日本人の問題でひどいのは、ソ連参戦の翌日に大本営が天皇の承認を得て出した命令で、関東軍に満州にいる在留日本人を防衛する任務を与えず、「後退してソ連軍を朝鮮海峡まで引き寄せろ」と命じていることです。8月9日のソ連の参戦後、脱出の手配をしたのは軍首脳部とその家族と満鉄関係者だけ。あとは全部置き去り。135万人のうち二十数万人が亡くなりました。日本政府に棄民されたんです。

 その一人で、長野県出身の永井瑞枝さん(故人)は丹念に調査して、この村から何人行って何人亡くなった、と長野県開拓団の入植年度別一覧表をつくりました。ひどいところでは九十数%が亡くなっている。しかし、全国統計はどこにもありません。

 山口 二十数万の方が亡くなったというのもNPOが調べたもので、日本政府は調べていません。空襲の被害者数もそうです。不破さんは、「侵略戦争であったという歴史の真実を、正面から直視するとともに、その戦争を遂行した日本の戦争指導部が、日本国民にたいしても深刻な加害責任を負っていることについても、深く思いを致すべきではないでしょうか」と書いています。まったく同感です。

「三種の神器」の護持が最大の関心事だった

 石川 日本政府は終戦工作にあたって、「国体護持」を最重視したわけですが、その核心が「三種の神器」を保ち続けることだったという事実には驚かされました。この“信仰”はいったいどういうものなのかと、あらためてその不思議を考えさせられました。

 不破 私も、内大臣だった『木戸幸一日記』を読んで驚きました。ポツダム宣言の発表前日の7月25日に天皇に会って、“いまの戦況では講和をはかることが必要だ”と話すのですが、講和の緊急性をいうのに、“このままでは三種の神器があやうい”“あなたが捕虜になることよりも三種の神器の護持が大事だ”と本人を前にいうんです。天皇は講和の話ととらえずに「三種の神器」をどう守るかの話ととらえ、“伊勢と熱田の神器は自分のそばに移して、万一の場合は自分がお守りして運命を共にするほかない”と返事します。本当に異常な世界です。

スターリンの東欧「制圧」の手口―ブルガリアの場合

 山口 第25章は、スターリンが東ヨーロッパを自分の支配下においていく「制圧」作戦について、ブルガリアを例に、くわしく見ています。政治的な力の小さい解放勢力がブルガリアで突然連合政権を打ち立て、2年後には共産党が反対政党を追い出して独裁政権になるという一連の手だてをスターリンがどうやったか、『ディミトロフ日記』を使って明らかにしています。

 不破 46年の7月から10月にかけて連合国と枢軸国との講和会議が開かれます。今度調べて初めてわかったのは、スターリンの東ヨーロッパの国々への対応が、講和会議の前と後とでは全然違うことです。

 ヤルタ会談で、枢軸国の戦後の政権は自由な選挙で成立することという協定が結ばれたんです。だから連合国が認めた選挙でないと講和会議の“関門”を通って「戦後」になれないんですね。

 ブルガリアでは、44年9月に蜂起が起き、ズヴェノ派という党派と農民連合と社会民主党が労働者党(共産党)と組んで祖国戦線政府をつくります。共産党の影響力は大きくないので、他党はなかなか共産党の思うように動かないんだが、スターリンは「もっと慎重に同盟者を扱わなければいけない」と共産党に盛んに勧告をするんです。

 ところが講和会議が終わると、スターリンは自分の思い通りの政府づくりに乗り出します。軍を握って、反革命陰謀をでっちあげて、他党を政権から追い出すんです。それを仕組む経過が、49年まで全文収録した『ディミトロフ日記』仏語版に詳しく出てきます。こういう内幕が、仕組んだ者自身の言葉で明かされたのは、この『日記』がはじめてですね。おかげでソ連支配下の政権確立の過程が実によくわかりました。

 山口 45年から49年にかけてハンガリーやチェコスロバキアなどでも同じようなことが起きています。これは演出者がいなければ起こらないことですね。

 石川 ディミトロフは、戦後ブルガリア政権の中心に立つ人物ですから、『日記』にはその経過がよく現れていたのですね。同時に、それはブルガリア以外の国々がどんな経過をたどったのかも、一定の推測を可能にさせるものになっている。戦後東欧の体制がどうつくられたのかについてはぼんやりとした知識しかなかったのですが、それがスターリンの政権による文字通りの「制圧」によるものだったことがよくわかります。

 山口 戦後の東欧史で、「各国に小型スターリンが現れてやったんだ」と言われることがありますが、そうじゃないんですね。スターリンが指示を与えて動かし覇権主義を展開した。そこを見抜かないと、歴史の真実が見えてこないのではないでしょうか。

(おわり)


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