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2015年2月19日(木)

「理論活動教室」 講師・不破哲三社研所長

●第3講「政策活動について」(下)

政党戦線の歴史と政治の底流

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 第7回「理論活動教室」が17日夜、党本部で開かれました。この日は、第3講「政策活動について」の2回目で、不破哲三・社会科学研究所所長が、政策活動の背景となる日本の政党戦線の歴史と、党の綱領と政策などについて豊富な体験にもとづいて講義しました。


 不破さんは、日本共産党の「第3の躍進」の流れを大きく発展させた昨年の総選挙の結果について、3中総が「支配勢力のこれまでの反共戦略の全体を打ち破ってかちとった」と位置づけたことを紹介し、1969年の初当選以来の国会議員の経験もふまえ、国会論戦などのエピソードを交えた“実践的歴史”を語りました。

2度打ち破られた「保守二大政党」づくりの反共戦略

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(写真)講義する不破哲三社研所長=17日、党本部

 69年の総選挙で党は319万票を獲得、5議席から14議席に、続く72年総選挙では、563万票、39議席に躍進しました。70年代のこの「第1の躍進」は、日本の政治の様相を一変させました。

 最初に不破さんが予算委員会でとりあげたのが、創価学会・公明党による言論出版妨害です。60年代に政界に進出してきた創価学会は、批判者に対して猛烈な反撃をくわえるため、出版界でも、学会・公明党への批判は事実上「タブー」とされていました。いわゆる「鶴タブー」です。不破さんは、1時間38分に増えた予算委の総括質問で、学会批判の本の出版妨害のくわだてに政権党幹事長まで加わった最新の事件を取り上げ、徹底的に追及しました。これが、大きな転機となって、池田大作会長(当時)が謝罪の講話を発表し、「政教分離」を公約するところまで追い詰めたのです。

 国会運営でも新しい展開がありました。73〜74年の石油ショックで、大企業の売り惜しみ・買い占めで国民生活が大変だった時、国会に大企業の代表を呼び、悪徳商法を徹底追及したのも、国会史上初の快挙でした。

 76年に発覚したロッキード事件では、自民党の疑惑隠しの策動にたいし、共・社・公の3党の共同で両院議長と5党首の会談を開かせ、徹底究明のレールを敷きました。この会談をリードしたのは、議員ではなかった宮本顕治委員長で、参院議長が「会談をまとめあげた宮本さんはすごい」と感嘆したといいます。不破さんは「当時、相手側から反共攻撃の矢面にさらされていた宮本さんが逆に政治家としての評価を実証した会談だった」と話します。

 党議席の躍進は“取引国会”を“論戦の国会”に変える絶大な力を発揮し、74年、米国の原子力潜水艦の入港時放射能漏れ検査データを捏造(ねつぞう)していた問題を告発し、183日間、原潜の入港ストップという快挙を実現しました。

 地方でも、京都、東京に続き、70年代前半には、大阪府と沖縄、埼玉、岡山の各県、川崎、名古屋、神戸の3政令市など革新勢力の勝利が相次ぎ、75年4月の時点で、全国の革新自治体の数は205、約4700万人、総人口の約43%が革新政治のもとで生活するところまで進みました。

 不破さんは、日本共産党を特集した当時の写真雑誌『毎日グラフ』や『週刊サンケイ』臨時増刊の実物を掲げて、「マスコミは党と革新勢力の躍進に喝采を送り、反共ブレーキはほとんどなかった」と振り返りました。

 「70年代の党躍進は、自民党にとっては不意打ちでした。“日本共産党は『50年問題』で片付いた”と思っていたのです」。大阪府知事選(71年)で黒田革新府政が勝利した時、記者会見の席で並んで開票をみていた田中角栄自民党幹事長が顔色を変えて「これからは選挙のやり方を共産党から教わらなきゃあ」と口走ったエピソードも紹介されました。

 共産党の躍進に衝撃をうけた公明党は、「安保の段階的解消」から「即時廃棄」に“変身”しました。院内共闘は、社共の代表の相談から始まるようになりました。

 当時の政治史の流れの中で「共創協定」(75年発表)が死文化した顛末(てんまつ)について述べた不破さん。提案してきたのは創価学会の池田会長自身でしたが、その背景には共産党の躍進に乗じて公明党を伸ばそうという思惑があったのではないかと指摘します。しかし、支配勢力が共産党封じ込めの新たな戦略に動き出していたことを察知した学会側が同協定をなきものにしたというのです。

自民党の変質 極右勢力による一元支配

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(写真)不破哲三社研所長の講義を聞く受講生

 党躍進を抑えこむために支配勢力が取った最初の反共戦略は、社会党を含め野党全体を反共の土俵に引きずり込むというものでした。80年1月、共産党排除を決めた「社公合意」がその決定打となり、共産党を除く「オール与党」体制が一気につくられたのです。国会運営も「共産党を除く」、地方政治でもこれが決まり文句のようになりました。

 党はこれに対し、80年初頭の15回党大会で、無党派との共同という新しい統一戦線政策を明らかにし、革新懇運動を提唱しました。これは、今日の「一点共闘」にも通じる方針でした。

 「共産党排除の『オール与党』の政治はいや応なしに腐敗します」と力を込めた不破さん。国会では「金丸=田辺ライン」といわれる自民党と社会党の国対委員長同士のなれあい政治が横行しました。金丸氏らによって公共事業から自動的に政治資金を生み出すシステムまでがつくりあげられました。

 こういうなか、89年前半、徳島市長選、千葉県知事選、名古屋市長選で、共産党単独推薦の候補が40%前後の得票を獲得し、「オール与党」の現職陣営を追い詰めるという事態が続きました。「地殻変動」とマスメディアが報じる激動の予告でした。この時、中国の天安門事件と東欧の崩壊という外からの大逆風が、辛うじて自民党政治を支えたのでした。

 自民党政治のこの危機を打開するため、支配勢力は新たな反共戦略にのりだしました。政界を「保守二大政党」に再編成して、自民党が失敗しても、第2保守党が受け皿になって、従来型の政治を続ける、これで、共産党を政治の枠外にはじきだそうという戦略です。89年6月に発足した第8次選挙制度審議会が、その設計図づくりの舞台で、27人の委員のうち12人をマスメディア関係者が占めました。マスメディアを取り込むためです。90年4月に出した答申には、小選挙区制と政党法(政党助成金)が盛り込まれました。「二大政党」を国民の税金でまかない、とくに自民党との相方となる“第2保守党”をつくりやすくする仕組みでした。

 最初にできた“第2保守党”は、自民党からの脱退組に旧来の野党がくわわった8党による「非自民連合」でした。「非自民」へのマスメディアの異常な肩入れで細川政権が成立(93年)しましたが、1年もたたずに退陣。その間に実行したのは、小選挙区制と政党助成金制度の導入だけでした。

 自民党は社会党と連立政権を組み、復権を果たします。社会党は、村山党首の独断で安保賛成、自衛隊合憲に路線を変え、革新政党としての最後の表看板まで捨て、やがて社会党の党名まで捨ててしまいます。野党になった「非自民」勢力は、離合集散の道をたどり、“第2保守党”づくりの最初の企ては完全な失敗に終わりました。

 この情勢のもと、共産党は、新方式による96年総選挙で726万票、26議席を獲得、98年の参院選では819万票、15議席と、「第2の躍進」を遂げました。

 この痛烈な失敗の経験から、今度は財界が総がかりで、本格的な「二大政党」づくりに乗り出しました。経済同友会が先頭に立って、“政権を狙う政党だけが選挙ができる”という「マニフェスト」選挙の方式を持ちこみ(2002年)、経団連は“政治に口もカネも出す”新しい政治資金提供方針を打ち出し(03年)、03年10月には財界の肝煎りで民主党と自由党を合併させて“新民主党”をつくり、11月総選挙は、「自民党か民主党か」の大キャンペーンの場となりました。 

 こうしてできた民主党は、03年、05年、09年と3度目の挑戦でようやく政権交代を実現しました。「この選挙で、党は苦戦しましたが、私たちは、新しい変動に注目しました。そこには、新しい政治をめざす国民の模索の始まりがあらわれていたからです」

 党が見通したように、国民は、自民党政治の土俵の上では、政党を変えても何も前進しないということを経験しました。

 不破さんは、「民主党政権の失敗を受けて、自民党は復権しましたが、かつての活力は取り戻していない」と指摘します。

 70年代の自民党は50%に近い得票率、有権者比でも33%の支持率をもっていました。今は、33%の得票率、有権者比では17%です。国会で多数を取っているのは小選挙区制度によるもので、国民の声の反映ではありません。「こんなに自民党の力が落ちたことはかつてなかった」と話します。

 その自民党政権のもとで、日本共産党は、一昨年の都議選と参院選、そして昨年の総選挙と、三つの躍進を実現しました。その根底には、形だけの“政権交代”の無意味さを実体験でつかみとった国民的経験があります。不破さんは、その基礎の上に始まった「第3の躍進」をいかに本物にするか、ここにこれからの課題があると強調しました。

 では、反共戦略を中軸に動いてきた日本の政治と政党はどんな地点に到達しているのか。

 まず、自民党の現状です。不破さんは「小選挙区制が導入されて約20年、7回の総選挙を経て党の性格が変わってきた」といいます。小選挙区制のもとで、自民党中央の力が強くなり、議員は指導部寄りに、以前の保守総連合的な性格が消えて、「モノカラー(単色)」化してきた、「自民党にとって派閥を解消したことはよくなかった」と述べ、会場の笑いを誘いました。

 経済政策では財界との一体化が起きています。「大企業をもうけさせることが政府の経済政策の第一の目標だ」と公言してはばからない首相は、歴代首相のなかでも、安倍首相がはじめてでしょう。

 財界は利潤第一で目先の利益を追求するが、政府は、もっと長いモノサシで国の先行きを考える。これは資本主義の国でも、長年の経験で裏付けられた政治の常識となっています。「アベノミクス」はこの立場に背くものです。

 対米従属政治も危険な段階に入っています。海外での日米共同作戦に道を開く「集団的自衛権」の策謀に加えて、沖縄の新基地建設が大問題です。辺野古に建設が狙われる米軍新基地は、海兵隊の殴りこみ作戦のための最強の新鋭基地建設の計画です。しかも、国防総省の報告では耐用年数200年で設計されています。不破さんは「23世紀にまで在日米軍基地を確保する意図だ」と批判しました。

 しかも、いま自民党の中枢を占めるのは、“靖国派”「精神」で固まった極右勢力です。

 安倍首相が初当選した93年に、細川首相は「日本の戦争は侵略戦争だった」と発言しました。これに対して自民党の右派勢力が決起、自民党内に「歴史・検討委員会」という組織をつくり、安倍氏も参加しました。委員会は日本の歴史を「検討」したとしています。その「検討」とは、「日本の戦争は自存自衛、アジア解放の戦争、正義の戦争だった」という立場に立つ学者や評論家を集めて、20回にわたって講義を受けるだけのものでした。第1回は“国際法では侵略の定義は決まっていない”という講義。安倍首相も、まったく同じことを国会答弁で繰り返しました。第2回、第3回は、戦時中の政府・軍部の言葉にそって戦争の歴史をたどった「大東亜戦争の歴史」の連続講義、こういう話を一方的に教え込む、これが「検討」の中身でした。この委員会には、安倍首相のほか、岸田文雄外相や谷垣禎一自民党幹事長などの名前もありました。「こうした極右勢力が自民党を一元支配していることをよく見る必要がある」のです。

 一方で中間政党は基盤を失いました。70年代は、どの野党も、安保であれ、経済政策であれ、自民党とは一線を画していました。いまはそのような状況はありません。不破さんは、その理由として、「ほとんどの政党が流れをたどれば自民党系だから」と指摘。さらに、公明党は自民党の協力政党になり、民社党は幹部の大部分が自民党に吸収され、社会党も、村山内閣を転機に政策的には自民党の土俵に乗ってしまったことをあげます。

 この混迷をさらにひどくしたのが政党助成金でした。政党助成金は一定の形式的な資格さえ満たせば受け取ることができるため、政党の離合集散を加速し、綱領も基本政策ももたない政党が多数生まれました。

 そういう中で自民党と対決できる覚悟と力をもっているのは共産党しかない、このことがこの間の選挙で示されたのでした。

 続いて講義した「党綱領と政策活動」については、21日付に掲載します。

 これまでの理論活動教室の記事の掲載日は次の通りです。党のホームページにも掲載しています。

 (1)「日本共産党の理論活動史」(前半)(14年4月10日付)

 (2)「日本共産党の理論活動史」(後半)(同年5月15日)

 (3)「マルクスの読み方(1)」(同年6月12日)

 (4)「マルクスの読み方(2)」(同年7月10日)

 (5)「マルクスの読み方(3)」(同年9月11日)

 (6)「政策活動について(上)」(同年10月16日)


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