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2014年10月16日(木)

「理論活動教室」講師・不破哲三社研所長

●第3講「政策活動について」(上)

政策活動の発展を築いた開拓の歴史

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 第6回「理論活動教室」が14日夜、党本部で開かれました。この日は、若い世代の受講生の要望にこたえ、第3講「政策活動について」(全2回)、不破哲三・社会科学研究所所長が60年代以降の歴史をたどりながら講義しました。


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(写真)『政策活動入門』を手に講義する不破哲三社会科学研究所所長=14日、党本部

 不破さんは、そもそも政策とは何かという原理原則論ではなく、党がどのように政策活動を築いてきたかの歴史を通じて、取り組む観点や角度をリアルにつかんでほしいと述べ、1961年の党綱領確定以後、この分野を開拓してきた歴史を、自身の体験を交えて話しました。

 61年、党綱領を決めた第8回党大会で選出された中央委員会には、政策部門はありませんでした。当時の選挙戦は、政策論争も政策ビラもほとんどなく、党の政策は、綱領の行動綱領に書かれている要求を並べた程度のものでした。

 1964年3月、党中央に初めて政策委員会が発足します。常勤者は不破さんと実兄の故・上田耕一郎氏(元党副委員長)の2人。最初の仕事は、旧ソ連共産党との論争ばかりでした。

“住民の要求実現へ具体的提案” 65年都議選が起点に

 翌65年、東京都議会議員選挙が政策活動の起点となりました。

 当初、党都委員会が用意していた政策の中心は「首都圏整備反対」で、都民の要求が出てきません。そこで、都民の要求をどう解決するかという立場から政策をつくり直し、当時問題となっていた、水不足問題、住宅難、公害対策、物価安定、教育など、解決策を一つひとつ明らかにした個別政策を「赤旗」2ページの全面で発表。その拡大版を紹介したパネルを前に、「画期的な転換でした」と不破さん。都民の要求を都政でどう実現するか、その具体的な手だてと方策を提案した党は他にはなく、党の政策は反響を呼びました。

 都議選の結果は、2議席から9議席になり、この躍進が2年後の美濃部革新都政誕生への原動力ともなりました。

 67年2月の長野県伊那市議選で党が4議席から2議席となった敗北の教訓は、綱領にもとづく政策的発展が全国に広がる転機になりました。

 同市は、林百郎衆院議員を当選させた、党の力の強い地域。市議選敗北の原因は、党が「中央道建設反対」一本やりで選挙をたたかったことでした。同年の中央委員会総会では、(1)開発問題一色で見ず、対決全体のなかで位置づける、(2)住民の要求を解決する具体的、積極的要求を提起する、(3)反対闘争も住民の要求と意識水準にもとづいて行うことなど、「地域開発」問題での政策的基本点を明らかにしました。

 政府がすすめていた「構造改善事業」問題でも、一律反対の機械的態度をとらず、住民要求を反映した一定の改良を含むとき賛成の場合がありうることを明確にしました(69年)。実は、静岡県熱海市にある党の伊豆学習会館に通じる道も、地元農民と一緒に「改善事業」として舗装したものだと明かしました。

 不破さんは「現在、党がどんな問題に対しても、対決とともに積極的提案を示して活動しているのもこういう経験から生まれたものです」と力説します。

 69年の都議選では、全都で1200の地域政策を出しました。一例ですが、当時、中小企業対策と言えば、すぐ税金問題でした。しかし、業者の要求を調査すると、融資、労働力不足、工賃、問屋との取引関係などさまざまな問題が出てきて、それらを解決する政策を出しました。

 「せっかく調査をしても、それを前文に入れてしまい党の政策は最後に2、3行となり、結局、批判・暴露が中心になることがよくあります。大事なことは政策を肉付けすることです」

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(写真)不破哲三社会科学研究所所長の講義を聞く受講者たち

 党の政策活動の開拓の時期には、いろんなエピソードがありました。

 都市政策に取り組んだ時のことです。専門家に協力を求めた際、「そういうことは改良主義になる。自分たちが自治体の政策づくりに協力しているのはいわば内職で、罪の意識をもってやっているんだ」といわれたこともありました。政策活動の草創期には、模索しながらも、あらゆる分野の政策を持とうとエネルギーを注いだのです。72年にそれまでに出した各分野の政策をまとめてみたら、全体で80本、『前衛』で五百数十ページにもなる大冊になったほどでした。

 こうした経験は、不破さんの報告集『政策活動入門』(12月に新版で刊行)に収録されています。「生の問題での報告ですから、政策問題に取り組む第一歩としては、今でも役に立つと思います」と話します。80年代の政策会議の報告では、地方選挙への応援の際、地元の党組織とのやりとりが役に立ったと述べ、地方政治の分析や批判の方法、党議員団の役割の押し出しなどがさまざまな角度から深められました。

 国会や地方議会では、法案や条例案に党としてどういう態度をとるのかが問われます。67年に「法案審議と党国会議員団の態度」で、(1)その案件が大衆の利益からみてどういう意味をもっているか、(2)たとえ一部の改良があるとしても、それが原則上の取引になっていないか、(3)賛成できない場合、「棄権」か「反対」の態度表明を大衆の意識水準に照らしてよく吟味する、を決めました。現在でもこの基準は、国会活動に生きています。

条約論の研究

 不破さんは次に安保・外交問題に話をすすめ、「60年安保闘争当時は、条約論が弱かった」と振り返りました。衆議院に党議員は1人しかおらず、国会での論争にも加われなかったのです。

 転機となったのは、65年の「日韓条約」問題への取り組みでした。当時、民主運動の間でも“米日韓軍事同盟の布石”だという政治論中心で、条約論の裏付けが弱かったといいます。

 その時、宮本顕治書記長(当時)から、条約のどこが問題かを明確にするよう政策委員会に求められました。

 新しい分野に挑戦し、その答えを出しました。しかし、国会では条約審議の委員会に入れません。そこで国会論戦中、「赤旗」紙上に「日本共産党は佐藤内閣を追及する―無数に残る重大な問題点」を発表、9章46項目の質問を提起しました。そのなかで、日本が朝鮮半島を36年におよび植民地にした歴史の経過も詳しくあとづけました。この時、日韓関係の確立の基礎は、日本の植民地支配の清算にあるとの立場で切り込んだのは日本共産党だけでした。

 「70年安保」を前にした政策論争では、条約論でも日本共産党の論戦が他党を圧倒しました。党は、安保条約第10条によって、締結から10年後の70年6月23日以降は一方の締約国が通告すれば1年後に条約を廃棄できると提起。「この基本的なことが、当時、政界でもマスコミでもなかなかわからなかった」と不破さん。

 68〜69年には、毎日新聞が5党による紙上討論を企画。日本共産党は、宮本書記長を首相に「政府」をつくり、安全保障政策はじめ全般にわたり各党と論戦しました。「共産党は条約に強いということが当時政界で話題になるほどでした」

 領土問題では、党は69年に千島問題で見解を発表しました。第2次世界大戦で連合国が確認した領土不拡大の基本方針(カイロ宣言、43年)に違反して、千島列島をソ連に「明け渡す」ことを密約したヤルタ協定(45年、米英ソ)の不公正を問題にしないと領土交渉はできないと強調。不破さんは「スターリン体制の不公正が正されずに残っている領土問題は世界で千島だけです」と、歴代自民党政府の道理のない領土交渉の無力さを指摘しました。

開発問題の民主的検討

 不破さんはつづいて70年代の政策的発展について話をすすめました。その第一は開発問題です。70年代以降、開発問題の性格がそれ以前とは大きく変化しました。転換点は田中角栄の「日本列島改造論」(72年)です。

 戦前、工業地帯の開発は財閥と民間大企業の仕事でした。不破さんは京浜工業地帯を走るJR鶴見線の駅名を例に、財閥のかかわりを説明。安善駅は安田財閥総帥の安田善次郎、武蔵白石駅は日本鋼管初代社長の白石元次郎が由来ですと笑いを誘い、「鉄道も工場地帯も財閥がつくったからなんです」と語りました。

 最初の変化は、60年代に池田勇人内閣が「所得倍増計画」を打ち出してからです。所得倍増計画のためには、大企業がもうけることが必要だということで、狙われた自治体が大企業誘致のために、土地をタダ同然で提供したり、税金を免除したりするなどの応援に躍起になったものです。

 田中角栄の時代になると大企業応援の規模と質が変わりました。「日本列島改造」の看板で、政府が先にコンビナート用地をつくり、港湾も道路や鉄道も用意した上で、大企業を呼び込む方式です。これらは北海道の苫小牧東部開発や青森のむつ・小川原開発をはじめすべて失敗しました。

 これらの開発計画のなかには、新幹線の整備や本四架橋の計画なども含まれていました。共産党は、国民の利益にかなう交通手段の近代化には反対しませんが、それがただゼネコンをもうけさせるだけの“浪費型公共事業”にならないためには、計画の民主的な再検討が必要だと主張し、その具体的な提案もおこないました。72年には「いのちとくらしをまもり住みよい国土をつくる総合計画」を発表。「共産党にも国土計画がある」と話題になりました。

 たとえば、本四架橋は、1本なら経済的に成り立つ見込みがたちますが、政府は、キチンとした検討もせず、ごまかしながら既成事実をつくるやり方で、3本もつくってしまいました。今では、まったく採算の見通しが立たず、出資した瀬戸内海周辺の関係自治体には重い財政負担がのしかかっています。不破さんは「あとがどうなろうと、公共事業を請け負うゼネコンさえもうかればよい。これが『列島改造論』だった」と喝破しました。

 その後も「列島改造論」でうまい汁をすったゼネコン派が、ことあるごとに前面に出てきます。79年には日本プロジェクト産業協議会(JAPIC)なる団体ができました。鉄鋼、セメント、土木など公共事業にかかわる八つの業界団体が、1兆円プロジェクトを考案して事業化するというのです。

 その一つが東京湾横断道路で、1兆4000億円かかりました。普通車4000円で1日3万3000台通れば、30年で借金が返せるという計算でしたが、開通の年はわずか9000台前後の利用。現在は800円まで値下げして、差額の主要部分を国と県が補てんしています。

 また90年代末には政府自身が、千葉から九州まで五つの湾と海峡をトンネルや横断道でつないで日本列島を縦断する新道路建設計画を発表しました。財政危機で沙汰やみになりましたが、機会があればゼネコン仕事がすぐ顔を出してきます。

 今でいえば、リニア新幹線です。不破さんは首都圏直下型地震と東海地震の震源近くを通る計画に危惧を表明しました。「人口が減っているもとで新しい幹線をつくる必要があるのか。ゼネコン仕事のためなら理屈はあとというのですから、まさに『あとは野となれ、山となれ』ですね」

政府綱領の提案

 70年代の政策的発展の一つは、社会党・総評(日本労働組合総評議会)がふりまく「固定観念」を打破したことです。

 教育論では社会党と日教組は、教師は労働者だとし、教育という面を軽く扱っていました。そして、田中内閣が「教師は聖職だ」と言ったのに対し、日教組と社会党は、真正面から反対しました。共産党は74年4月に「赤旗」で「教師=聖職論をめぐって」という主張を発表し、「聖職論」で教師の権利を制限し、抑圧するのは反対だが、これに機械的に反発して教師は労働者だという面だけをとらえるのは、根本的に間違っていると強調。教師は労働者であるとともに教育の専門家であるという両面をとらえなければならない、との論を発表しました。

 自治体問題でも同じようなことが起こりました。地方財政が70年代に悪化する中で、党は、自治体労働者が「労働者であると同時に、住民に対する奉仕者である」ことを明確にし、その立場で自治体活動に取り組むことを訴えました。これも、社会党などと激しい論争になりました。

 道徳教育の問題でも、社会党や総評には、道徳教育そのものに反発する空気がありました。共産党は市民道徳を重視することを打ち出し、74年の参院選挙では、具体的に8項目を掲げました。

 同和行政では激しい闘争がありました。部落解放同盟(「解同」)が変質し、利権を食い物にするようになり、74年には兵庫県で八鹿高校事件という教員など七十数人をリンチする暴力事件を起こしました。これに真っ向から立ち上がったのは政党では共産党だけでした。

 関西などが中心だった「解同」が東京に進出しようと74年8月に都庁を占拠。このとき当時の都知事、美濃部亮吉氏から不破さんに秘密会談の申し入れがありました。「『解同』をなんとかしてくれ。対応は任せたい」という話でした。そこで東京都から「解同」を撃退する手を打ち始めました。ところがその直後に、都知事が「解同」迎合に変身し、東京都が「窓口一本化」という彼らの要求を受け入れた通達を発表したのです。屈服の始まりでした。

 このままでは75年3月に迫った知事選挙で美濃部氏を支持することはできません。その事態の中、有識者から動きが起こり、3月11日、共産党の宮本顕治委員長、社会党の成田知巳委員長、学者、文化人、総評の5者会談がおこなわれ、同和行政を正常化するレールを敷き、知事選挙でも日本共産党は支持しました。この会談はその後、共産党と社会党の委員長会談につながります。

 不破さんは「70年代には統一戦線綱領をめぐって二つの経験があった」と語ります。第一は、73年の第12回党大会での「民主連合政府綱領についての提案」です。日本の政党で初めて、野党の立場で、政府綱領という包括的な政策を発表したのです。

 また、77年の参院選に向けては宮城1県だけですが、共社の選挙共闘が実現しました。これは「共産党が、地方区で社会党候補を推薦する」「全国区では、社会党が共産党の重点候補者の活動に協力的立場をとる」という内容です。安保廃棄など革新三目標に対応する三つの基本目標を確認し、八つの政策、31の項目について、宮本委員長と成田委員長が調印しました。不破さんは次のように強調しました。

 「革新政党が安保問題や大企業本位反対など、基本的な姿勢で大局で一致すれば、具体的な政策でもかなり立ち入って一致できることが歴史の教訓です」

 75年からの3年間の共社共闘の発展で、革新統一戦線が成立に一歩近づいたかに見えました。しかし、77年、社会党の内紛から委員長が成田氏から飛鳥田一雄氏になり、風向きが変わります。共社党首会談で飛鳥田氏は「私は革新自治体という言葉が嫌いでね」と述べたといいます。社会党は80年には共産党を排除する「社公合意」を結ぶところまで転落しました。

 次回は12月9日に、「政党戦線史から政治の現状を見る」をテーマに、政党配置の変遷や自民党の変ぼうについて講義する予定です。


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