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2014年6月12日(木)

「理論活動教室」 講師・不破哲三社研所長

●第2講「マルクスの読み方」(1) (全3回)

革命論はマルクスの理論の要

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 第3回「理論活動教室」が10日夜、党本部で開かれました。不破哲三・社会科学研究所所長が第2講「マルクスの読み方」(全3回)の1回目として、「革命論」をどう読むか講義しました。


 不破さんはまず、マルクスの著作・文献を読むさいの基本態度として大切な2点をあげました。

マルクスをマルクス自身の歴史の中で読む

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(写真)「新ライン新聞」を紹介しながら講義する不破哲三社会科学研究所所長=10日、党本部

 一つ目は、「マルクスをマルクス自身の歴史の中で読む」ことです。マルクスも最初から共産主義の革命家ではなく、青年時代にヘーゲル哲学を乗り越え、その後も経済学や革命理論を研究し続けて、最後まで理論的発展の努力を尽くしました。「彼の理論を現代的につかむには、『マルクスに歴史あり』で、その理論がどういう段階で、どう発展したかをよくつかむのが大切です」と強調しました。

 二つ目は、「マルクスの理論の要が革命論だ」ということです。

 マルクスは、常に革命家の目で研究を進めました。20代後半に書いた「哲学者たちは、世界をさまざまに解釈しただけである。肝要なのは、世界を変えることだ」(「フォイエルバッハにかんするテーゼ」)という言葉は、自身のすべての理論分野に通じる精神です。

 『資本論』第二版への「あとがき」でも、『資本論』の方法は、批判的で革命的な「弁証法」にあり、現存するもの(資本主義社会)の意義と役割を歴史的につかむなかで、その「没落」の必然性を理解するところにその核心がある、と喝破しました。不破さんは「一言でいうと、マルクスは終始、革命家として理論に取り組んだのです。革命論を抜きにしてマルクスは語れません」と力を込めました。

 だから、科学的社会主義を深めるには、(1)世界観(2)経済学(3)社会主義理論―とともに、革命論を独自の分野として学ぶ必要があります。

 しかし、マルクス、エンゲルスのまとまった革命論の著作はないので、多くの著作や手紙からそれをくみ取らなければなりません。不破さんは、自身の研究の苦労も語りながら、マルクスの革命論の歴史について話を進めました。

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(写真)不破さんの講義を聞く参加者

 マルクスが共産主義者として革命運動を始めたのは、1840年代後半からでした。ドイツの共産主義団体「正義者同盟」に指導者として加入を求められ、その後、つくったのが「共産党宣言」(48年)です。

 世界で最初の科学的社会主義の党綱領となりましたが、そこで展開された革命論には、まだ多くの“若さ”がみられました。

 イギリスの恐慌を“資本主義の寿命が尽きた”証拠とみなし、発展の遅れたドイツの革命を社会主義革命の「前奏曲」と位置づけたことは、その一つです。革命の形態も「フランス大革命」型で、民衆の決起が繰り返されるなかで前進するものと想定していました。

 その直後の48年2月、パリで二月革命が勃発。ベルリンでも、ウィーンでも民衆が勝利しました。マルクスとエンゲルスは亡命先からドイツに取って返し、ドイツの民主主義革命の推進へ、日刊紙「新ライン新聞」を6月に創刊。不破さんは、小さい文字がびっしり並んだ複製版を広げながら説明。弾圧のなか全面赤刷りで刊行された終刊号には、会場の驚きと注目が集まりました。

 マルクス、エンゲルスがほとんど毎号書き続けた論説は、どれも興味深い政治論ですが、革命の見通し論には、現実を見ない楽観論がめだちます。不破さんはそこにマルクスらの当時の誤った革命論の表れがあったことを具体的に解説します。

 ドイツ革命の敗北後の49年秋、2人はロンドンに亡命しますが、ヨーロッパの革命はまだ継続中だという思いで、革命活動を続けます。マルクスが、その情勢認識を転換させたのは、50年春のことでした。イギリスの恐慌が終結し、新たな活況に向かうことが明らかになったのです。

 ヨーロッパ革命の時期は終わったと結論づけたマルクスとエンゲルス。では、そのとき革命論はどうなったのか―。

 「新しい革命は新しい恐慌に続いてのみ起こりうる。しかし革命はまた、恐慌が確実であるように確実である」。2人の共通の考えでした。

 次の恐慌を待とうと、マルクスは研究や執筆に没頭。エンゲルスは50年冬にマンチェスターの工場経営に加わり、マルクスの生活を経済的に支える役目に転じました。結局、エンゲルスは、昼は経営者稼業、夜は革命論などの執筆という「二重生活」を、20年間続けることになりました。

 1857年、待望の恐慌が勃発しました。不破さんは、いよいよ革命近しと浮きうきして取引所に通う自分の姿を語るエンゲルスの手紙を読み上げました。しかし、2人の予想に反して、恐慌に続く革命はついに起こりませんでした。

 情勢は、マルクス、エンゲルスが48年革命当時の分析を裏切るような発展を遂げていました。資本主義は“寿命は尽きる”どころか、イギリスでも大陸諸国でも空前の大発展に向かっていました。労働者の側も、以前の職人的な労働者ではなく、工場労働者が主力となるような変化を遂げ、運動の状況も変わってきました。古い革命論を捨て、新しい革命論を打ち出すことが求められました。不破さんは、時代の要請に応えて、新しい革命論を探究するマルクスの60年代の活動を生きいきとえがき出しました。

 大統領選挙の勝利が奴隷制廃止という社会変革にまで発展したアメリカの南北戦争、労働者の初めての国際組織・インタナショナル(国際労働者協会、64年創立)での活動も、革命論の転換を進める力になりました。

 革命論の転換は、『資本論』の執筆とも大きく関連してすすみました。不破さんは、「60年代前半に資本主義や階級闘争、革命論の見方の大変化が起き、『資本論』の中身も構造も変わってゆきました」「この点からいっても、革命論を見ないで『資本論』を読むと、一番大事な核心を見落とすことになります」と語りました。

革命の見方を転換、多数者革命論を発展

 この問題に関連して、インタナショナルでのマルクスの活動で不破さんが注目したのは、創立の翌年の65年、中央評議会でのマルクスの講演です。後に『賃金、価格および利潤』としてまとめられました。

 インタナショナルは、各国の労働者の経済闘争やストライキ闘争を最初から重視してきました。その中で、イギリスの評議員のウェストンが「賃上げ闘争をやっても、労働者にはなんの利益にもならない。労働組合も有害なだけだ」という持論を持ち出してきました。

 労働組合否定論を放っておけないと、マルクスが反論。ここで、『資本論』研究によって到達した価値論、剰余価値論、搾取との闘争論などを初めてまとまって述べました。

 不破さんは、この講演で新しい革命論が展開されたことに着目します。マルクスのそれまでの「恐慌=革命」という見方はがらりと変わり、恐慌は一定の周期で起こる当たり前の経済循環で、資本主義は恐慌を通じて発展するという見方に立ち、その中でいかにして労働者はたたかうかという議論をしたのでした。マルクスは、恐慌時に労働者は賃下げとたたかうが、好況時により多く賃上げを勝ち取ることが重要だと強調するとともに、労働者は資本主義の枠内にとどまることなく、新しい社会をつくる旗、「賃金制度廃止」の旗を掲げなければならないと結論しました。

 「実はマルクスは講演の少し前に『資本論』第2部の最初の草稿を書き、その中で恐慌がどうして起こるかという運動論を発見していたのです」と不破さん。その成果を初めてマルクスが語ったのだと述べました。

 67年には、『資本論』第1部が完成します。第1部の草稿は、64年に一応書き上げられていましたが、それ以後の理論的発展を織り込み、恐慌および資本主義の「必然的没落」の新しい見方、そこに向かって労働者階級がどのような発展を遂げるかなどが、本格的に書き込まれました。「これが非常に大事なところです」と強調しました。

 もう一つこの時期で特徴的なのは、66年以降始まった専制国家のドイツでの労働者党への議会・選挙闘争のマルクスたちの助言です。ドイツの統一に向かって北ドイツで普通選挙(67年)によって国会をつくることになったとき、「闘争の舞台が議会になる」とマルクスとエンゲルスはこれを重視しました。

 69年に労働者党が結成され、ヨーロッパで初めて社会主義をめざす政党づくりが始まりました。労働者代表の議員が生まれ、いかに活動すべきか、懇切丁寧に指導しました。不破さんは、71年の帝国議会選挙での12万の得票が27年後には、210万を超えたことを紹介し、労働者党が強力な陣地を築いて発展したドイツの経験は、選挙と議会を重視する多数者革命がまともな運動方向だということを全ヨーロッパに示す大きな力になったと述べました。

 インタナショナルの運動が発展するなかで、「政治から手を引け」という無政府主義の旗印を掲げたバクーニン派の策動が始まりました。マルクスはこれとたたかい、労働者の政党をつくる必要性をインタナショナルで徹底し、70年代には労働者党結成の促進を大方針に掲げるまでに大きな変化を遂げていきました。インタナショナル結成前には、労働者党はありませんでしたが、“各国に労働者の政党を”というインタナショナルの方針は、72年にこの組織が活動を終えたあとも世界に大きな影響を与え、89年、第二インタナショナルが結成されたとき、主力は社会主義政党でした。ヨーロッパの労働運動全体の姿を変えた役割は大きかったのです。

 理論的にも、マルクス自身の手で、発達した資本主義国における多数者革命論が定式化されていきます。

 その一つとして不破さんが取り上げたマルクスの文書は、78年、ドイツの社会主義者取締法に対する反論です。第1回の講義で紹介した「極左日和見主義者の中傷と挑発」を書く時に、不破さんが探し出したという論文です。米英両国の議会を例に「選挙の多数者で政治を決める体制があるところでは、革命の平和的な道の可能性があることをマルクスが明言したことは非常に重要な意味を持つ」と強調しました。とくに君主制のイギリスをあげていることは、興味深いと述べました。

 民主共和制は、48年のドイツ革命時以来、マルクス、エンゲルスが一貫して掲げてきた目標でした。民主共和制論はその後も、(1)労働者階級がその解放を勝利にまでたたかいぬくことを可能にする政治形態、(2)勝利した労働者が社会主義の権力を実現する形態として展開され、深められてきました。

 しかし、国際的にはこの民主的共和制論がゆがめられた時期があると指摘。レーニンが、『国家と革命』で共和制を含むブルジョア国家の粉砕を革命の基本に打ち出し、長く指導理論とされました。ところが、これは古い国家を改造して利用するというマルクス本来の立場を完全に誤解したものでした。

 講義の終わりに、不破さんは「理論の世代的継承」の重要性について述べ、マルクスが生涯かけて到達した理論が後継者たちに正しく引き継がれなかった「革命運動の歴史」をドイツの党を例にあげて振り返りました。

 1923〜24年、レーニンが倒れた時にも同じことが起こりました。スターリンの大国主義との「生死をかけた闘争」をはじめ、レーニンが“最後の3年間”に発展させた理論的実践的な財産が、後継者たちによって無視されてしまったのでした。

 不破さんは最後に、「私たちがその真髄を現在に生かすだけの読み方をしないと、科学的社会主義の古典の生命力を生かせない」と述べてこの日の講義を結びました。


 これまで2回の「理論活動教室」の掲載日は次の通りです。

 第1講(前半)4月10日付

 第1講(後半)5月15日付


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