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2014年1月10日(金)

日本・ベトナム理論交流での不破団長の報告

日本共産党綱領制定にあたっての社会主義理論の研究 (下)

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(二)社会主義・共産主義社会の目標

 第二の大きな問題に入りますが、私たちの党にとっては、社会主義社会・共産主義社会というわが党の目標は、かなり遠い目標です。しかし、日本の世論にとっては、社会主義というとやはりまずソ連を思い出すのが普通の常識です。われわれは、ソ連を社会主義とは異質の存在だったと見ていますが、われわれがめざしている社会主義とは本来どんなものかということを明らかにすることは、いまの仕事をやる上でも非常に大事な任務になっています。

 その立場から、党綱領のなかでも、社会主義・共産主義社会の目標を、どのように記述するかには、ずいぶん力をいれました。

1、レーニンの定式の問題点

写真

(写真)握手を交わす不破哲三日本代表団団長(左)とディン・テー・フインベトナム代表団団長=昨年12月16日、党本部

 マルクスは、社会主義をめざしてたたかいながら、社会主義の目標を、これが実現したら人類の社会の歴史のなかで新しい段階を開くものだと意義づけました。そして、それまでの奴隷制、封建制、資本主義の搾取社会の歴史を人類社会の「前史」、いわば本来の歴史に入る前の段階だと呼んで、社会主義とともに人類社会の本来の歴史が始まるとしました。

 ところが、これまでのわれわれの社会主義論というのは、『国家と革命』のなかでのレーニンの定式によっていました。

 これは、社会主義の社会には二つの発展段階があるというもので、最初の段階は「各人は能力に応じて働き、労働に応じて報酬を受ける」というのが原則になる、第二の高度な段階は、共産主義社会の段階と呼んで、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて生産物を受けとる」、これが原則なのだとされました。社会主義の社会は、こういう形ですすむものだというのが、われわれのいわば国際的な常識になっていました。

 しかし、どうもこれでは、マルクスが人類社会の新しい時代が開かれると特徴づけたような壮大な展望が見えてきません。それで、われわれはレーニンの定式を見直してみました。

 これは、マルクスの「ゴータ綱領批判」という文章を根拠にしたものですが、その文章は実は、マルクスがドイツのラサールという人物の間違った立場を批判するために書いたものでした。ラサールは、社会主義の一番大事なことは「公正な分配」だと論じていました。それにたいして、マルクスは、「公正な分配」という空文句で社会主義が説明できるか、その立場ではこんな矛盾に落ち込むぞ、という形で、その考えを批判したのでした。

 実は、マルクスは、その批判を書いたすぐ後の部分で、誤解されないようにと、特別の注意書きを書き添えていました。私は、レーニンは、その注意書きを読み落としたと思っています。

 そこで、マルクスは、私は、ラサールを批判するために分配問題についてかなり突っ込んで議論をやったのだが、そこを誤解して、社会主義社会の問題を分配の問題中心に考えてはいけないよ、ということを、かなり念入りに強調しています[★]。

 ★マルクスの注意書き 古典選書『ゴータ綱領批判/エルフルト綱領批判』三一〜三二ページにあります。その解説は、不破『古典研究 マルクス未来社会論』(二〇〇四年、新日本出版社)の「第一部 『ゴータ綱領批判』の読み方」を参照してください。

 この立場で見ると、いままでわれわれが常識だとしていたレーニンによる社会主義論というのは、生産物の分配方式をもっぱら中心問題にしていること、その変化が社会主義段階から共産主義段階への発展の要になると見ていることなど、大きな問題がありました。そこからは、マルクスが社会主義とともに人類の本来の歴史が始まると言ったような壮大な展望は出てこないのです。

 もともと、マルクスには、将来の社会について、社会主義の段階と共産主義の段階を段階論的に区別するといった見地は存在しませんでした。たとえば、その時期、だいたい著作の時期によって用語が違います。『資本論』では、未来社会は全部「共産主義社会」です。『空想から科学へ』とか『反デューリング論』などでは、未来社会はすべて「社会主義社会」です。『共産党宣言』では「共産主義社会」です。著作の時期によって呼び方が違うだけであって、名称で未来社会の発展段階を区別することはしていないのです。

2、マルクス本来の未来社会論

 マルクスが、未来社会について一番詳しく展開した分析は、実は、『資本論』第三部にありました。

「時間は人間の発達の場」――「自由の国」と「必然性の国」

 私たちは、そこに科学的社会主義の未来社会論のいちばん重要な、そして発展的な内容があると考えて、これを綱領の根本にすえました。

 少し入りくんだ議論になりますが、マルクスは、人間の生活時間を「必然性の国」と「自由の国」という区分で分けて説明しています。「必然性の国」というのは、社会と自分自身を維持する、生活を維持するための物質的生産労働に当てなければならない時間のことです。「自由の国」というのは、それ以外の、人間が自由に使える生活時間のことです[★]。

 ★マルクスの「自由の国」論 マルクスは、本格的な未来社会論を、『資本論』第三部の最終編(第七篇)の冒頭部分で展開しました(『資本論』新日本新書版一四三四〜一四三五ページ)。マルクスの展開の全文およびその解説は、不破『古典教室』第二巻二二五〜二三八ページを参照してください。

 階級社会では、支配されている階級――農民や労働者階級が、社会全部の物質的生産をになっているために、生活時間のほとんどすべてを物質的生産に当てなければなりません。ですから、知的な活動というのは、そういう生産的労働に従事しない支配階級や一部の特別な人々の部類にしか保障されていません。

 しかし、資本主義時代に発展した生産力の高度な発展を土台にすれば、そして、社会の全体が物質的生産労働を分担して担うようになれば、すべての人間が十分な自由な時間をもつことができるようになります。

 マルクスは、「時間は人間の発達の場だ」という言葉を残していますが、社会のすべての人間が自由な時間を持つようになれば、これを遊びに使うことも休養に使うことも自由ですが、自分の持っている知的、肉体的能力のすべてを発展させる人間的発達の条件が社会のすべての構成員に保障されるようになります。いわば全社会が知的な活動をになうわけで、社会のすべての人間の能力が社会の発展のために活用される、まさに新しい時代が始まることになります。

 その人間の発達によって、科学・技術の面でも、搾取社会とは比べものにならないぐらい高度な発展をとげるでしょう。それは必ず物質的生産に反映して、より短い時間で社会を維持することができるようになるでしょう。

 すべての人間に発達の機会を保障しながら、その力を活用して人間社会が前進してゆく、ここにマルクスは未来社会が本当に人類社会の「本史」、本来の歴史となる根拠を発見しました。

一月の党大会で新しい提起――資本主義社会はたいへんな“浪費型”の社会

 私たちは、来年の一月にひらかれる党大会には、この未来社会論をより身近なものにするために、一つの具体的な提起をしています。

 資本主義社会というのは、たいへんな“浪費型”の社会です。

 現在の世界の統計を見ると、物の生産と分配にかかわる“実体経済”よりも“金融経済”というものは三倍をこえる巨大な大きさになっています。本来の社会主義社会が実現したら、こういうものの大きな部分はまったくムダな部分になります。

 さらに、資本主義経済は、企業の利潤のための生産ですから、たとえばある製品が国民全部に行き渡ったとしても、絶えず新しい改良型の製品を売り込んで国民に買わせなければいけません。昔はテレビとか洗濯機とか電気器具というものは「耐久消費財」、長持ちする消費財といわれたものです。しかしいまでは、こういうものはすぐ新型が出て、古い型は部品を交換しようと思ってももうないと言われ、新型の購入を強要されるのが当たり前になります。これも利潤第一主義が生み出した「大量生産、大量消費、大量廃棄」という二十一世紀型の非常に極端な浪費現象です。

 私たちは大会決議案で、こういうことを指摘して、社会主義が日本社会にどんな展望を開くかを具体的に示しました。

 資本主義から社会主義に転換したら、この浪費をなくしたら、いまの日本の到達している生産力の水準でも、「すべての国民に健康で文化的な生活を保障する条件は十分に備わっている」、さらに、経済のムダな部分を削りとって、国民に必要な生活のためのその労働をすべての国民が分担をしたら、すべての国民に自由な時間、「自由の国」が保障される。そういう変革を実現する政治的条件をつくるのは大事業だが、客観的には、これは決して遠い将来の問題ではない。

 この提起は、非常に大きな反響を党内外に呼んでいます。

 ここでは、社会主義論の二つの問題にかかわるマルクスの文章を三点だけ紹介しましたが、これらの点は、これまでの世界の運動のなかでの社会主義論にとっては、注目されなかった点です。

未来社会をどう呼ぶか

 私たちが綱領の最後の章で、「社会主義・共産主義の社会」と呼んでいるのには理由があります。

 先ほど申し上げたように、マルクス、エンゲルスにとっては、社会主義という言葉と共産主義という言葉は同じ意味のものです。しかし、私たちは共産党ですから、共産主義という名前も捨てるわけにはいきません。また、科学的社会主義を指導理論にしている党ですから、社会主義という名称も捨てるわけにはいきません。なにしろ、この理論の発信地であるマルクス、エンゲルス自身が、この両方の言葉を自由に使っているのですから。こうして、わが党の党員がどちらを使っても綱領に違反していると言えないように両方の名前をつけたのです。私たちも、ものをいうときに、いちいち両方は言いません。舌をかみますから。(笑い)

 フイン団長 私たちは「社会主義」という用語のほうをもっぱら使っています。われわれも、社会主義・共産主義も一つと理解しています。

 不破 あなた方は一九七六年に党名を「共産党」に変えました(笑い)。私はその大会にも参加しました[★]。

 ★ベトナムの党は七六年の第四回大会で党名を労働党から共産党に改称しました。

 フイン団長 われわれは、社会主義のほうをよく使っていますが、こちらの方が身近な感じがあります。それから、われわれは、同時に二つを使うことはあまりないですね。要するに、同志と共通点が多いと思います。

 不破 その点も一致していますね。

 (おわり)


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