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2014年1月8日(水)

日本・ベトナム理論交流での不破団長の報告

日本共産党綱領制定にあたっての社会主義理論の研究 (上)

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 日本共産党とベトナム共産党は2013年12月16、17の両日、東京の日本共産党本部で第5回両党理論会談を開きました。不破哲三社会科学研究所長が日本共産党代表団の団長を務め、ベトナム共産党側はディン・テー・フイン政治局員・書記局員・理論評議会議長が代表団長を務めました。「新しい情勢における社会主義理論の発展」をテーマとした同会談で、不破団長は「日本共産党綱領制定にあたっての社会主義理論の研究」と題して、次の報告を行いました。(3回にわたって掲載)

第5回日本ベトナム両党理論交流

(2013年12月16〜17日) 不破団長報告

 私の報告を始めたいと思います。

 私たちの党は一九六一年に党綱領を制定しましたが、二〇〇四年に党綱領のかなり抜本的な改定を行いました。来年一月が、改定した新しい綱領の決定からちょうど十年になるところです。

 今回の主題は、新しい綱領の改定にいたるまでの党の理論的な発展、とくに社会主義論の研究の経過と到達点についての報告です。

一、日本共産党の理論活動の歴史

 これまで私たちは、両党間で四回の理論交流を重ねてきましたが、わが党の理論的な発展の問題についてはこれまで報告したことがありませんでした。理論問題についての両党間の相互の理解を深めるためにも、この機会に、はじめに日本共産党の理論活動の歴史について若干の点を語っておきたいと思います。 

自主独立の立場の確立が理論活動の起点

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(写真)発言する不破哲三日本代表団団長=昨年12月16日、党本部

 私たちの理論活動において、大きな起点となったのは、一九五〇年代に自主独立の立場を確立したことでした。それに先立って、私たちは一九五〇年にソ連の党と中国の党の共同による激しい干渉を受け、党が分裂し、国外から武装闘争路線を押しつけられるという、たいへん苦難に満ちた経験をしました。その前の一九四九年の総選挙では衆議院で三五議席を得ていたものが、その干渉を受けた時期の一九五二年の選挙では全議席を失うという困難な事態も経験しました。私たちは、その苦難の時期を抜け出したときに、自主独立の立場、すなわち、相手がどんな大国であっても外国からの干渉を許さない、どんな問題でも日本の党の方針は自分の頭で考えて決定する、この立場を確立しました。 

 発達した資本主義国である日本で、まず民主主義革命をおこない、ついで、それを社会主義革命に発展させるという二段階の戦略路線を、党綱領で確立したのも、この立場に立ってでした。

 一九六〇年のモスクワで開かれた国際会議(八一カ国共産党・労働者党会議)の時には、この革命路線にたいして、ソ連をはじめヨーロッパの諸党から猛烈な批判を受けましたが、われわれはそれを論破して私たちの立場を貫きました。

ソ連との論争と干渉攻撃

 その後、ソ連の党との論争は、アメリカの戦争政策の評価をめぐって起きました。米ソが外交面で和解したということから、ソ連共産党が「アメリカの戦争政策はもはや危険ではなくなった」と主張しはじめ、それにそった行動を開始しました。私たちはそれを認めないで、「アメリカが平和的な政策と見せかけているのは、社会主義大国のソ連にたいしてであって、その他の社会主義国や民族解放運動に対する侵略の危険は現実に存在している」ことを指摘しました。この意見の違いから、一九六四年、ソ連共産党は、わが党の立場・路線を全面的に非難する長文の書簡を送りつけてくると同時に、わが党の内部に手を突っ込んで、ソ連追従の分派を旗揚げさせて猛烈な干渉攻撃に出ました。われわれはもちろん全面的な反撃を行いました。

 この論争そのものは、当のアメリカがその年一九六四年八月にベトナム侵略戦争を開始したことによって、どちらが正しいかの決着がつきました。その過程で、フルシチョフからブレジネフへのソ連の指導部の交代が行われましたが、その後も、日本共産党に対する干渉攻撃は続けられました。

侵略戦争下のベトナムでの会談

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(写真)日本ベトナム両党理論会談。左から3人目は不破哲三日本代表団団長、右から5人目はディン・テー・フインベトナム代表団団長=昨年12月16日、党本部

 こうして、われわれはソ連の干渉攻撃に反対する闘争の激しい最中でしたが、現実に起こったベトナム侵略戦争に対しては、世界のすべての勢力が団結してたたかう国際統一戦線の結成が急務だと考えました。そのためには、アジアの主要な党、侵略攻撃を受けているベトナムの党をはじめ、中国や北朝鮮の党との意見の一致をかちとることが重要だと考えて、われわれは、一九六六年二月〜四月に、諸党の合意を得て、これら三国の歴訪を計画しました。当時書記長だった宮本顕治同志がこの代表団の団長でしたが、私もそれに参加し、これが私の最初の外国訪問となりました。

 最初の会談は、ハノイでのベトナムの党の指導者たちとの会談でした。一九六六年の二月十七日に、中国の南寧から飛行機で真夜中、ハノイ郊外の空港に、比較的小さな軍用空港に着きました(ベトナム側‥「ザーラム(空港)ですね」)。戦争中ですから、街灯もなく何も見えない暗い道を、車でまっすぐハノイに向かいました。ハノイの迎賓館に近づきますと、そこはこうこうと明かりがついて、アオザイを着た女性たちが大勢集まっており、ベランダの上ではホー・チ・ミン同志が手を振って歓迎してくれました。非常に感動的な光景でした。

 会談は二月十九日から行いました。日本共産党とベトナムの党が本格的な会談をやったのは、これが初めてです。当時の会談は、まだ、われわれの方にはベトナム語の分かる同志がいませんでしたし、ベトナムの党の側でも、日常会話のできる通訳はいても、会談で日本語の通訳ができる同志はいませんでした。ですから、中国語を介した二重通訳でした(ベトナム側、笑い声)。中国から飛んできて、中国語を介しての通訳ですから、いったいこの党がどういう立場の党なのか、最初は、疑問に思っただろうと思います。(大笑い)

 会談は五日間かかりました。戦争をめぐる情勢を中心にした同じ主題の報告ですが、ベトナム側の報告の内容が、日がたつごとに深まってゆくのです。(笑い声)

 それで、会談の前半で、国際統一戦線の問題では両党の意見が完全に一致したのですが、その途中にホー・チ・ミン同志が入ってきて、私もまったく日本の同志の意見に賛成だといって、こういう話をしました。「いまはソ連の党も中国の党もわれわれを援助している。しかし、こういう援助だ」と、掌(手のひら)をパッとひろげたのです。つづいて、「われわれが求めているのは、こういう援助だ」と掌をぐっとにぎりました(小さな笑い声)。われわれが提唱した国際統一戦線ということを行動で表したものでした。

 ベトナム側の代表団の団長はレ・ジュアン同志だったのですが、会談の最後の日、レ・ジュアン同志に不幸があって、発言がチュオン・チン同志に変わりました。その時に、ベトナムがジュネーブ会談以来取ってきた態度、そしてソ連、中国がベトナム問題で取ってきた態度を詳しく、われわれは聞きました。ジュネーブ会談でのベトナムの南北分割にはベトナム代表団は賛成しなかったこと、その時に、南では必ず総選挙をやって政権問題を解決するということが条件として厳重に確認されたこと、しかし会談が終わると、アメリカが南ベトナムの政権を牛耳り、総選挙をボイコットして、それでベトナムの解放勢力に大弾圧を加えたこと、村々にギロチンを持ち歩いて解放勢力を片っ端から殺したことまで、伺いました。南の同志の決起の要望を受けて何べんもモスクワと北京に相談するけれども、武装決起についての合意は得られず、最後に、ベトナムの党の自主的な決断で、南部の武装闘争に決起したことを聞きました。

 これらの歴史を詳しく伺って、われわれ日本共産党が五〇年代に中国、ソ連の干渉を受けて、そのなかから自主独立の立場を確立したのと、まったく状況は違うけれども、ベトナムの党が、同じ性質の苦難の歴史を経て、自主独立の同じ立場に到達したのだということを、われわれは歴史の重みをもって確認しました。

 こうして、この会談は、当面の国際統一戦線の課題でも、それから、世界の共産主義運動における自主独立という根本問題でも、両党が共通点を確認しあった、同志的連帯の本当の起点になりました。

 その後、宮本同志はハノイに残って、ホー・チ・ミン同志と両党の今後のことをいろいろ相談し、その中では、双方で直接自国語で通訳できるような学生を養成しあおうじゃないかということも含まれました。私たち代表団の一部は、分かれて、爆撃を受けている最前線のタインホア省を訪問しました。ハムロン橋を守る高射砲陣地を視察したり、村を守る女性民兵の人たちと交流したりしました。高射砲陣地に行った時は写真をいただいたのですが、「これは発表すると高射砲の性能がアメリカに分かるから、戦争が終わるまで発表しないでくれ」と言われ、私はこの写真だけはベトナム戦争が終わってから、機関紙「赤旗」に発表しました。(笑い声)

中国・毛沢東派の干渉攻撃

 その後、われわれは中国に行き、中国の同志たちと会談しました。北京の会談では、劉少奇同志が団長で、ケ小平同志も加わり、ここでも四日間にわたる会談をしましたが、ここでは、国際統一戦線の問題では意見が分かれたままでした。ただ、会談が終わった時に、劉少奇同志が、「どちらが正しかったかは歴史の審判に待ちましょう」と、理性的な態度だったことが記憶に残っています。しかし、その後の毛沢東との会談は、完全な決裂に終わりました。われわれが彼の意見に同意しないことを言うと、もう「会談はなかったことにしよう」ということになり、会談が終わってわれわれが帰国するとすぐ、猛烈な干渉攻撃が始まりました。やり方はソ連と同じで、中国に同調する反党分派を作り、これが本物の日本共産党だと礼賛して、日本共産党をつぶしにかかるという攻撃でした。会談では意見の相違の焦点はベトナム支援の統一戦線の問題にあったのですが、干渉攻撃に出てきた時には、われわれの革命論に対する、レーニンの『国家と革命』を振りかざしての非難が中心でした。

 われわれは、六〇年代にソ連の党と中国の党と両方の干渉と激しい闘争をして、だいぶ鍛えられました。さきほどの休憩の時間に話に出た一九七〇年代のわが党の躍進が準備されたのは、この闘争を通じてです。

 それで、ソ連の党とは、攻撃が始まってから十五年たって、七九年にブレジネフ書記長との首脳会談で、ソ連側が干渉の誤りを公式に反省し、それで党関係を正常化しました。

中国共産党との関係正常化

 中国の方はだいぶ時間がかかりました。「文化大革命」が終わったケ小平時代に、一九八五年に関係正常化の会談をやりたいという申し入れがありましたが、中国側が持ってきたのは、「お互い、過去は水に流そう」という無反省な態度でした。しかも、彼らの干渉の落とし子である反党集団との関係は維持する、というものでしたから、これは合意に至りませんでした。

 一九九八年に、江沢民、胡錦濤指導部の時代に関係正常化の申し入れがあり、その会談では、中国側が過去の干渉について「真剣に総括し是正する」ということを公式に言明し、そのことを確認して関係を正常化しました。中国との断絶の期間は三十二年続きました。

ソ連流「マルクス・レーニン主義」の総点検

 ソ連共産党および中国・毛沢東派との論争のテーマはたいへん多方面にわたりましたが、その論争のなかで、われわれは、ソ連が中心になって唱えてきた「マルクス・レーニン主義」という従来型の理論の総点検をする必要がある、ということを感じました。そして、一九七六年の党大会で、党の綱領・規約から「マルクス・レーニン主義」という用語を削除し、「科学的社会主義」という用語を公式の呼称とすることを決めました。

 この総点検の作業のなかで、われわれは、スターリン以来、マルクスの理論的到達点の重要な部分が否定されたり、歪曲(わいきょく)されたりしてきたこと、特に革命の理論、社会主義の理論の分野でその被害が大きかったことを明らかにしました。レーニンについても、彼はマルクスの理論の偉大な継承者でしたが、いくつかの重要な問題で誤りがあることを明らかにしました。

 それで二〇〇四年に行った党綱領の改定は、その研究の成果を全面的に取り入れて、いわばマルクスの本来の立場を二十一世紀の新しい時代に発展的に具体化するという意志と立場でつくりあげたものです。

ソ連体制そのものの研究

 ソ連そのものの研究について言いますと、われわれは、スターリン時代の五〇年代に、それからまた、フルシチョフ・ブレジネフ時代の六〇年代以後に、ソ連の覇権主義的干渉との激しいたたかいを余儀なくされました。その経験に立って、スターリン以来の覇権主義については、ずっと歴史の研究を行い、公表もしてきましたが、ソ連という社会の実態についても、内部的な研究を行ってきました。

 ソ連の崩壊後に最初に開いた一九九四年の党大会で、私たちはソ連について、あの社会は“社会主義とは無縁な、人間抑圧型の社会”だったという結論的な評価を下しました。

 これからの社会主義の理論と実践のためにも、ソ連が、スターリンがどこで社会主義の道を踏み外して変質し、それからどんな間違った道に踏み出したのかということの研究が非常に重要だということを、われわれは痛感しています。かつてソ連の党内で秘密にされていた公文書がいま大量に流出し、表に出ています。われわれが受けた五〇年代や六〇年代の攻撃についても、われわれは、ソ連崩壊後にソ連側の内部文書を大量に入手しました。そこには、彼らがいかに早くから日本共産党攻撃の準備をしていたか、それから、どういう人物といつ連絡をとって、党内の分派結成の応援をしてきたか、そういうことが全部記録されています。

 また、スターリン時代の国際政策についても、現在、大量のそういう公文書が公表されています。私は、党の機関誌『前衛』に今年(二〇一三年)の一月から、スターリンの国際政治において犯した誤りについての歴史を連載しています。書いている本人が驚かざるをえないほど、恐ろしい歴史です。

 以上、報告のいわば前段として、われわれがどういう理論的立場に到達しているかということを紹介しました。

 (つづく)


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