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赤旗

新版『資本論』刊行記念講演会
二一世紀のいま、なぜマルクス新版『資本論』を学ぶのか

萩原伸次郎(横浜国立大学名誉教授)

 

写真:萩原伸次郎 ただいまご紹介いただきました萩原でございます。本日は、「二一世紀のいま、なぜ新版『資本論』を学ぶのか」、というテーマで話をさせていただきます。

 このテーマで、私は二つのことを申し上げたいと思います。一つは、「なぜ二一世紀のいま『資本論』を学ぶのか?」ということであり、第二が、「なぜ古い翻訳ではなく本日発売の新版『資本論』でなければならないのか?」ということであります。

世界経済の本質、動きに的確な判断

 第一の二一世紀のいま、なぜ『資本論』を学ばなければならないのか、について結論的に申し上げますと、二一世紀の世界の経済を理解するには、『資本論』を学ばないと、ことの本質とその動きを的確に判断することができないからであります。

 私は、現代経済史を専門領域としまして、とりわけアメリカの経済政策を研究してまいりました。私が、経済学の研究を始めましたのは、ほぼ今から五〇年前で、『資本論』発刊一〇〇周年という時期であります。いうまでもなく、『資本論』の出版は、一八六七年、日本では「大政奉還」があり「王政復古の大号令」が出された、まさに幕末、明治維新前夜であります。それから一〇〇年もたった『資本論』を学ぶなんて「バッカじゃない?」などと世間でいう人もおりました。『資本論』はもう古いというわけであります。たしかに、一九六七年は、東京オリンピック後のいざなぎ景気真っただ中、日本は高度成長の継続で、世界第二位の経済大国へひた走り、銀行が倒産するなどとはとても考えられず、金融機関へ就職すれば一生安泰、いいところへ就職なさいましたねという調子でした。アメリカでは、ガルブレイスの『ゆたかな社会』が多くの人に関心を持たれるという時代でした。『資本論』は、膨大な富の蓄積の一方、多くの国民の側には、貧困が蓄積され、経済恐慌が周期的に引き起こされる論理を解いていましたから、『資本論』はもう古いというキャンペーンがまことしやかに説かれていたことも理由のないことではなかったと思われます。

 ところで、マルクス『資本論』にとっての最大の危機は、一九八九年ベルリンの壁の崩壊、一九九一年一二月のソ連消滅にありました。いうまでもなくこれら諸国は、マルクス・レーニン主義による社会主義を建設していたはずですから、これら諸国の崩壊は、イコール、マルクス主義の崩壊であり、『資本論』は現実に通用しないとするというキャンペーンがそれ以来今日までほぼ三〇年間にわたって行われ続けました。

 けれども、現実の経済を眺めてみますと、この三〇年は、マルクスの『資本論』を再度、新たな観点で学ぶ重要性を、わたしたちに教える三〇年だったように思えてなりません。

 たしかに第二次世界大戦後の一定の時期、アメリカを基軸とするいわゆる西側諸国では、金融規制がなされ、持続的な経済成長が展開するとともに、金融危機などとは無縁の資本主義システムが形成されました。また、ソ連東欧諸国も集産主義的システムのもとで、マルクス『資本論』が分析対象としたシステムとは異質のシステムが存在したのです。しかし、そうしたシステムは、その本家本元のアメリカから崩されて、あえて言えばマルクス『資本論』の世界が、二〇世紀終わりから二一世紀にかけてアメリカを基軸として形成されてきたといわなければならないと思います。

 多国籍企業論で先駆的業績をあげた、スティーブン・ハイマーというカナダ生まれの研究者が、興味深い指摘をしております。彼によりますと一八四八年にマルクスとエンゲルスによって書かれた『共産党宣言』において、ブルジョアジーという言葉を多国籍企業という言葉に置き換えると、きわめてリアリティーのあるダイナミックな説明が得られるというのです。彼に従って『共産党宣言』の一節を書き直してみましょう。「多国籍企業は、すべての生産用具の急速な改良によって、無限に容易になった通信によって、あらゆる国民を、もっとも野蛮な諸国民をも文明に引き入れる」というのです。何か、マルクス、エンゲルスが、現代によみがえったような錯覚を私たちに与えます。

金融危機の本質
──現代に貫徹するマルクスの分析

 さて、現代経済とマルクス時代の経済との類似性の第二は、金融危機の勃発とそれを利用した金融業者への富の蓄積です。金融危機を最大限利用して、富を蓄積する「金融業者と株式仲買人たち」に関して、マルクスは、『資本論』第三巻で、次のように言っています。「さらに集中について語ろう! いわゆる国家的諸銀行と、それらを取り巻く大貨幣貸付業者たちおよび大高利貸したちを中心とする信用制度は、巨大な集中であって、それはこの寄生階級に、単に産業資本家たちを大量に周期的に破滅させるだけでなく、危険極まる方法で現実の生産にも干渉する途方もない力を与える ――しかもこの一味は、生産のことなどなにも知らず、また生産とはなんの関係もない。一八四四年及び一八四五年の法は、金融業者たちと〝株式仲買人たち〟とが加わったこの盗賊どもの力が増大したことの証拠である」と。

 新自由主義による金融グローバリズムが支配する今日の社会は、どうでしょうか? 八〇年代は、途上国の債務累積危機とアメリカの貯蓄貸付組合危機、九〇年代になるとアメリカ一極支配のもとで、一九九七年アジア金融危機、翌年のロシアルーブル危機、日本でも、日本長期信用銀行と日本債券信用銀行の破綻があり、二〇〇八年には、アメリカを震源として、ヨーロッパ、アジア、ラテン・アメリカなどを巻き込む文字通り、世界経済恐慌が、金融危機を伴って発生することになったのです。しかも、二〇〇八年九月リーマン・ショック以降、政権の危機対応に明確にみられるように、まさに、かつてマルクスが指摘した「金融業者と株式仲買人」たちの金融盗賊どもが、公的資金導入に始まり、さまざまな手練手管で国民の懐から膨大な金を巻き上げているではありませんか。

 また、金融危機では、信用が崩れ、貨幣を求めての貨幣飢饉がおこります。二〇〇八年九月のリーマン・ショックの時は、危機は世界的に波及し、ドルを求めての「貨幣飢饉」が国際的に引き起こされました。それは、ドルを基軸に構築されていた信用が崩れたからです。マルクスが一九世紀に論じた「信用崩壊が貨幣飢饉を引き起こす」という法則が、二一世紀の現代でも貫徹されたのです。

いま、なぜ新版で学ぶ必要があるのか

 ところで、二一世紀に『資本論』を学ぶのに、旧来の翻訳ではなく、なぜ新版『資本論』なのか、という点で申し上げたいことは、二つあります。詳しくは、不破さんと山口さんがお話しになると思いますので、簡潔に申し上げますと、一つは恐慌に関するマルクスの研究過程が、より分かるように編集されたという点だと思います。

 マルクスが一八四八年革命の後、イギリスに亡命し、大英博物館に通って経済学の研究をやり直し始めたのは、一八五〇年秋だといわれます。当時マルクスは、来るべき革命は、経済恐慌の後に引き起こされるという信念のもとに研究を進めていました。フランスの二月革命、ドイツでの三月革命は、一八四七年の経済恐慌と関連があったというのがマルクスの当時の考えだったのです。しかし、待望の経済恐慌が一八五七年に起こったのですが、革命は起こりません。マルクスとエンゲルスは、五七年恐慌は、ドイツが震源になると予測したのですが、ゴールドラッシュ後のアメリカが震源となり、革命は起こらず、かえってマルクスが生活費の当てにしていた『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』社の経営不振からマルクスへの寄稿要請が減らされるという予想外の事態となったのです。『マルクス・エンゲルスの世界史像』(未来社)の著者、山之内靖氏は、「このような事態のなりゆきは、マルクス・エンゲルスの両人に対し、恐慌と革命の連関という一般的命題について、それが一八五七年の世界史的現実の中では直線的につながりえなかった原因を、深く反省させることになったのである」と述べていますが、そうした恐慌に関するマルクスの革命との直接的連関論が、どのような過程を経て克服され、より深い当時の恐慌の現実把握になっていったのかについては、いままでの『資本論』の翻訳では、必ずしも明らかではありませんでした。

 私は、そうした当時のマルクスの恐慌把握について、拙著『世界経済危機と「資本論」』(新日本出版社)において次のように論じたことがあります。「貨幣を必要としない信用関係の膨大な形成は、資本主義社会における取引を活発化させるのだが、最終的には貨幣による決済をしなければならないのである。貨幣による決済ができなくなる事態が、一斉に引き起こされることが資本主義社会では必然的に起こる。これが貨幣恐慌なのだが、『資本論』第一巻の貨幣論では、その発生が抽象的に論じられているに過ぎない。

 この関係をより具体的に論じた箇所が『資本論』第三巻第四篇の商人資本であるのは決して偶然ではない。なぜなら、資本主義社会における信用形成とその破綻は、この一九世紀のマルクスの時代、商人資本の介在が不可欠だったからだ」と。

 不破さんは、この商人資本が介在して恐慌が起こるというマルクスの恐慌把握を「恐慌の運動論」と命名されましたが、エンゲルスの編集過程で見落とされたわけです。それを今回の新版『資本論』では、「第二部第一草稿に書き込まれた新しい恐慌論の全文を収録」というわけですから、マルクスの研究上の苦闘を再現する大変意欲的な編集になっているのではないかと期待しております。

 そして、第二は、マルクスの未来社会論になります。

 私は、横浜国立大学に長く勤めましたが、そのとき、日本の資本論研究の第一人者だった佐藤金三郎先生と一緒の時期がありました。佐藤先生は、『経済学批判要綱』として出版されました『一八五七〜五八年草稿』、それをいち早く日本に紹介し、マルクスのプラン問題研究に大きく貢献された方ですが、「社会主義・共産主義社会のキーワードは、自由な時間なんだよ」と私に語りかけられたことを思い出します。佐藤先生は、惜しくも一九八九年に他界され、そのような指摘はずっと下火になっていました。そこに不破さんが「未来社会論」という形で「自由な時間」という問題を『資本論』の中から取り出してこられた。これはソ連がつぶれて「社会主義はだめだ」という声に対して「そうではない。未来の展望はここにある」ということを示そうとした大きな仕事だと思いますし、それが、今回の新版では、第三部第七篇、第四八章において、エンゲルスの編集を組み替えて、初めのところに「未来社会」についての言及をもってくるというわけですから、大変意欲的な新版『資本論』になるのではないかと私は期待しております。

(はぎわら・しんじろう)

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