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新版『資本論』刊行記念講演会[記念講演]
『資本論』編集の歴史から見た新版の意義

 不破哲三(日本共産党社会科学研究所所長)

 

写真:不破哲三 当日の講演を本誌に収録するにあたり、一連の「注」を付けたほか、日時などの諸事実を再点検して必要な補正をおこない、説明の足りないところは補足するなどの作業をおこないました。ご了承ください(不破記)。

 
 会場のみなさん、こんばんは。全国でインターネットを視聴のみなさん、こんばんは。不破哲三でございます。

1、『資本論』の歴史をふりかえる

 さっそく本題に入りますが、『資本論』には歴史があります。

 マルクスが最初の草稿を執筆したのは一八五七年、マルクスが死んで、エンゲルスの編集によって『資本論』の最後の巻、第三巻が刊行されたのが一八九四年、三七年間の歴史です。私は、この歴史をたどりながら、新版『資本論』の特徴と意義についてお話ししたいと思います。そのために、『資本論』とその草稿全体を執筆順に並べて、みなさんにお見せすることにしました。

『資本論』にいたるマルクスの執筆過程をたどる

 マルクスが、経済学の研究を始めたのは、一八四三~四四年、二五歳のとき。そして、研究の成果をふまえて、経済学の著作への取り組みを決意し、最初の草稿執筆にかかったのは、一四年後の一八五七年一〇月、マルクス三九歳のときでした。

 (一)これが『一八五七~五八年草稿』、一八五七年から五八年にかけてマルクスが書いた最初の草稿です。ノート七冊ですが、この訳本(『資本論草稿集』①、② 大月書店)では二巻になっています。この時は、経済学の著作の計画は、全体で「六部構想」[★]で、最初の「第一部」が「資本」、「第二部 土地所有」、「第三部 賃労働」と続いて、最後には「世界市場」にまで進むという計画でした。

★ 「六部構想」 現在の『資本論』の各部と区別するために、この時の「六部構成」の各部については、「部」(カギ括弧付き)で表現することにします。

 (二)その次に書いたのが、最初の草稿のうちの商品論と貨幣論を仕上げて一冊の本にまとめた『経済学批判』(一八五九年)です。これは草稿ではなく、著作として刊行されました。

 (三)それに続くのが『一八六一年~六三年草稿』です。『経済学批判』の続編のつもりで書き始めましたが、研究が多方面に発展し、ノート二三冊におよぶ大作で、訳本の『草稿集』でも六冊になりました。

 この草稿執筆の最後の時期に、著作の題名を『資本』にすることに決めましたが[★]、内容は現在の『資本論』とは違って、「六部構成」の考えは変わらず、その最初の「部」の題名という意味でした。

★ 「[『経済学批判』の]第二の部分は今やっとでき上がりました。……これは、第一分冊の続きですが、独立に『資本』という表題で出ます』(マルクスからクーゲルマンへ 一八六二年一二月二八日 古典選書『マルクス、エンゲルス書簡選集 上』二〇五ページ、全集㉚五一八ページ)。

 (四)一八六三年八月から翌年の夏までかけて、いよいよ本文を書こうということで、『資本』の表題のもと、まず第一部「資本の生産過程」の草稿を書きました。

 (五)それから、おそらく第二部の「流通過程」の執筆にはまだ準備不足だと考えたのでしょう、第二部をとばして、一八六四年の夏から第三部を書き始め、年末までにその前半部分(現在の第一篇~第三篇)を書き上げました。

 私は、『五七~五八年草稿」(一)から『資本』第三部(五)までを、“前期”の草稿とみています。なぜかと言うと、この次の段階で、マルクスは、その経済学の構想全体にかかわる大発見をするのです。

 (六)その大発見をしたのが、一八六五年前半の時期に書いた第二部の第一草稿です。ここでの大発見以後、著作の組み立ても内容も大きく変わってゆきます。これを転機として、これまで守ってきた「六部構成」という枠組みは捨てられ、研究の全内容を『資本論』[★]に包括するという新構想がたてられるのです。

★ 一八六二年以前の時期の表題『資本』も、構想転換後の表題『資本論』も、ドイツ語では「Das Kapital」という同じ言葉ですが、意義の違いを考えて、区別した表現にしました。

 (七)その新構想のもと、一八六五年後半には、『資本論』第三部の後半部分(第四篇~第七篇)を書きますが、内容は新構想に対応するものに大きく変わりました。

 (八)マルクスは、つづいて一八六六~六七年に『資本論』第一部を執筆・刊行します。

 (九)そして一八六八年から一八八一年まで、第二部の諸草稿を書きますが、その最後の部分、第三篇の執筆の途中で病気のために筆を止め、一八八三年三月、死を迎えたのでした。

 私が〝前期〟と呼んだ諸草稿と、後期の草稿と何が一番違うのか。資本主義がなぜ没落して、社会主義への変革を必然とするのか、この資本主義の「必然的没落」の理解が、そこで根本から変わってきたのです。

 一八六五年の『資本論』第二部第一草稿に、その転換をひきおこす大発見があったのでした。

 一八六五年の大転換

 これまで、マルクスが、この「必然的没落」の理解という問題でどういう考え方でいたかといいますと、資本主義の発展とともに利潤率が下がってくる―これはリカードゥを悩まし、そこに資本主義の危機を感じさせた大問題でした。マルクスは、その難問を剰余価値論で見事に解決しました。しかし、そのときに、利潤率低下のうちに資本主義の危機をみたリカードゥ以来の経済学の危機感をうけついで、利潤率の低下が恐慌をひき起こし、社会変革を必至とする、こういう見方を、資本主義の「必然的没落の理解」の根本に据えてしまったのです。この見方は、『五七~五八年草稿』から一八六四年後半に書いた『資本論』第三部の時期にまで続きました。

 ところが、この一八六五年のはじめに、おそらく一月だと推定されますが、資本の流通過程について第二部第一草稿をはじめて書いたとき、マルクスは、恐慌が利潤率の低下などとは関係なしに、別の仕組みで起こることを発見したのです。私は、これを恐慌の運動論と呼んでいるのですが、この発見が、マルクスのその後の経済理論の体系、とくに資本主義の「必然的没落の理解」の大きな転換点となりました。

 ここで発見した恐慌のしくみとは、つぎのようなものです。

 資本は商品を生産します。これは消費者に販売し、消費してもらうためです。ところが、資本主義の発展のなかで、その資本の生産と消費者との間に商人が入ってきます。マルクスは、こうして、中間に商人が入ってくることが、生産と需要とのあいだの矛盾を大きくして恐慌の勃発にいたるしくみを、第二部第一草稿(一八六五年)で発見したのでした。この発見によって、それまでの〝利潤率の低下が恐慌と危機をひき起こし、資本が没落する〟という理論の誤りがあきらかになりました。

 マルクスはその発見にただちに対応しました。一八六五年後半には、第三部の後半を書き始めますが、それは、信用論や地代論などまでをふくむ、新しい構想に立ったものでした。

 ここではまた、『資本論』全体の構想そのものがすでに変わっていました。それまでの構想では、著作全体は「六部構成」で、「資本」につづいて、「賃労働」「土地所有」などなどが、別個の「部」で研究されるはずでした。これまで、その立場でずっと書いてきたのですが、この大発見があった後、『資本論』一本に経済学の研究をすべて集約しよう、『資本論』にマルクス経済学の全部を代表させよう、こういう考えにかわって、新しい構成で書くようになったのでした。

 この構想で、すでに草稿を書きあげていた『資本論』第一部も、その内容を発展させ、根本的に書き改めました。それが、現在、私たちが読んでいる『資本論』第一部です。

 そして、そのあと第二部の草稿を書いている途中でマルクスは死を迎えました。現在の第二部は、残された諸草稿からエンゲルスが編集してしあげたものです。第三部も、一八六四~六五年にマルクスが書いた草稿〔さきほどの(五)と(七)〕から、エンゲルスが編集しました。

 こういう経緯ですから、『資本論』をご覧になって、第一部から順々にマルクスが書いたと思うと大間違いで、実際は、最も早い時期に草稿を書いたのが第三部、この第一部は、それに続く時期にマルクスが書き、自分の責任で発表したもの、第二部は、その後、マルクスが草稿を執筆したもの、ですから、現在の第二部、第三部は、残された草稿からエンゲルスが編集して仕上げた、これが歴史的な成り立ちなのです。

「必然的没落の理解」での転換

 マルクスの経済学というのは、資本主義の経済(資本主義的生産様式)を研究の対象として正面から分析したものですが、要が二つあります。

 一つはなぜ、資本主義が封建社会にかわって生まれて発展したのか、社会がより高い発展段階にすすむことになったのか。マルクスはこの問題の解明を資本主義の「肯定的理解」とよびました。それから、その資本主義がなぜ矛盾が大きくなって次の社会に交代するのか。マルクスはそのことの解明を資本主義の「必然的没落の理解」と呼びました[★]。

★ この言葉は、『資本論』第一部第二版へのマルクスの「あとがき」(一八七三年)からとったものです。

 『資本論』における「弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的である」(新版『資本論』①三三~三四ページ、新書版①二九ページ、傍点は不破)。

 この「必然的没落の理解」が、『資本論』第二部第一草稿を軸にしてすっかり変わってしまった。このことを、『資本論』を読むときに、皆さんにしっかり見ていただきたいと思います。これは、なかなか注目されない点なのです。

 なぜ、ここでその転換が起こったかというと、先ほど説明したように、恐慌が起こる本当の仕組みが分かったからです。恐慌の運動論をここで発見した。一八六五年の――おそらく一月だと私は推定しているのですが――はじめに発見した。これがマルクスの経済学の理論体系のその後の大きな発展の転機になりました。

 こういう歴史――一八六五年がマルクスの転換の時点だという歴史がわかると、先ほど見ていただいた『資本論』とその諸草稿の列のなかに、現在『資本論』の構成部分になっているが、転換以前の時期に属するものがあったことに気づかれるでしょう。第三部の前半部分です。後で話すことですが、これが今の『資本論』のなかで、転換以前に書いて、大きな問題を残した部分だったのです。ところが、エンゲルスはそのことに気がつかないで、大転換の前に書いた第三部の前半部分を、後半部分と同じようにマルクスの経済学の完成品として扱ってしまいました。このことが、『資本論』に一つの大きな問題を残したのでした。

『資本論』の歴史とインタナショナル

 以上が、『資本論』の歴史です。

 では、マルクスは、利潤率の低下から恐慌がおこり、社会の危機と革命にすすむという古い没落論をすてた後、どういう内容で、資本主義の必然的没落の理論をうちたてたのか。

 これは、歴史の進み方のたいへん面白い点ですが、この理論的転換の時期と、マルクスが第一インタナショナル(国際労働者協会)という労働運動の国際組織に参加して、労働者階級の解放運動の先頭に立った時期とが、奇しくも一致しているのです。

 一八六〇年代の半ばごろには、ヨーロッパの労働運動がだんだん進んできて、一八六四年一二月、イギリスやフランス、ドイツの労働者の代表がロンドンに集まって国際的な組織をつくることになりました。そしてその国際協会にマルクスが呼ばれて、その指導にたずさわるようになり、実際に労働運動の指導的な論文を書き始めました。労働者階級の解放闘争を力強い言葉で呼びかけたこの協会の「創立宣言」[★]も、マルクスが執筆したものでした。そのすぐあとに、経済学の理論転換があったのでした。

★ 「創立宣言」 「国際労働者協会創立宣言」。一八六四年一一月一日の同協会暫定委員会で全員一致採択された。

 恐慌のために自動的に資本主義が壊れるのではない、やはり資本主義の経済的矛盾の発展ももちろん重要だが、社会を変える力である労働者階級が資本主義の搾取のもとで鍛えられ発展して、最後には資本主義を変革するまでに発展する、このことに「必然的没落」の中心問題がある。以前の「恐慌―革命論」から、こういう方向に、理論的発展をとげつつあるのと同じ時期に、マルクスが国際労働運動の先頭に立つことになったのでした。

 マルクスは、そういう立場で『資本論』第一部を書いている時期に、インタナショナルの指導者となり、その最初の大会(一八六六年のジュネーヴ大会)では、「労働組合。その過去、現在、未来」という題で、世界の労働運動のためのテーゼを書きます。

 こうして、マルクスの実践的な活動の発展と、この恐慌の運動論の発見による経済学の転換が同じ時期に行われた、このことに私は歴史の歩みの不思議さを感じるのですが、これは、実際、マルクスの理論と実践の発展の大転換期を表したものでした。

 この転換の意義をつかむことが、『資本論』の歴史をとらえるうえで非常に大事なのです。まず、そのことを申し上げておきたいと思います。

2、エンゲルスの編集史と後継者の責任

 『資本論』というのは、さきほど言いましたように、マルクスが第一部、第二部、第三部と順序よく書いたものではありません。第一部は、マルクスが全部、自分で書いて編集したものです。第二版(一八七二年)を刊行するときにもいくつかの重要な部分を書き直して仕上げました。

 ところが、第二部というのは、マルクスが第一部を完成してから、ずっと、それこそ第二草稿から第八草稿まで、数多くの草稿を書いて、完成しないまま中途で亡くなったのでした。その残された諸草稿をエンゲルスが編集したのです。第三部も、マルクスが書いた草稿が、前半の部分と後半の部分、執筆時期の違うものが残っていますが、どちらもマルクスの最初に書いた初稿ですから、まだ荒っぽいところがずいぶんあるのです。それをエンゲルスが仕上げて完成させました。

 こういう形で、『資本論』の第二部と第三部は、いわばマルクスとエンゲルスの共同作業の産物として生まれたものです。

マルクス流「象形文字」の解読

 その共同作業ですが、仕上げるまでには、エンゲルスは大変苦労しました。

 まず、草稿に書かれたマルクスの字を読むのが難しいのです。私もひとの読めない字を書く方なのでマルクスの悪口は言えないのですが、マルクスの書いた字を読めるのは、マルクス夫人とエンゲルスだけだった、ときには、マルクスは自分で書いたものが読めないで(笑い)、エンゲルスに読んでもらった(笑い)、こういう話があるくらい、「象形文字」とも言われるような字なのです[★]。

★ エンゲルスの手紙から このことについて、エンゲルスは第二部の作業を始める前に、友人にこういう手紙を書いていました。

 「今は、『資本論』の結びの書簡を印刷できる文章と、読める筆跡とでまとめることが、絶対の必要事なのです。このふたつのことをやれるのは、生きている人間全部のうちで僕だけです。もし僕がその前にくたばりでもしたら、これらの手稿を読み解くことは、ほかの誰にもできないでしょう。マルクス自身、もうそれを読めないことがしばしばあったのですが、マルクス夫人と僕には読めたのです」(エンゲルスからベーベルへ 一八八四年六月二〇日 全集㊱一〇一ページ)

 マルクスが死んだときに夫人はすでに亡くなっていましたから、残された『資本論』の第二部、第三部の草稿を読める人は、エンゲルス以外にいない。それでエンゲルスがとりかかるのですが、なかなか容易な仕事ではありませんでした。

 マルクスが亡くなったのは一八八三年の三月ですが、エンゲルスはそのときすぐに駆けつけて、『資本論』の草稿が残っているか、残っていないかを調べます。「あった」「あった」と喜んだ手紙がずいぶん残っていますけれども、たしかに第二部、第三部の草稿はありました。

 ただ、エンゲルスが、この草稿を編集する仕事にとりかかるのは、発見してから一年くらいたった一八八四年五月末になりました。なぜ、こういう空白があるのか、調べてみますと、やはり理由がありました。

 まず、エンゲルスが、六カ月ほど病気で寝込むのです。そして、病気から起き上がって、マルクスの残した遺稿をずっと調べていくと、そのなかに、モーガンというアメリカの古代社会研究家[★1]が書いた著作『古代社会』についてのマルクスのノートがみつかりました[★2]。エンゲルスがそのノートを読んで、マルクスのこの仕事をこのままにしておくわけにはいかない、『資本論』編集の任務もあるけれども、この仕事は長く時間がかかるから、その前にマルクスの最後の労作である古代社会論をまとめて発表しなければいけない、こう決意して、『資本論』編集の前に、まずこれにとりかかったのでした。こうして生まれたのが『家族、私有財産、国家の起源』(一八八四年)という、みなさんよくご存じのエンゲルスの著作です。エンゲルスはそれを、マルクスのノートを発見してから正味二カ月くらいで仕上げました。

★1 モーガン、ルイス・ヘンリ(一八一八~一八八一) アメリカの考古学者で、『古代社会』は一八七七年にロンドンで刊行されました。

★2 マルクスのノート 「ルイス・ヘンリ・モーガンの著書『古代社会』摘要」と題されるノートで、一八八〇年末から一八八一年三月初めまでに執筆されました。全集補巻④二五七~四七四ページに収録されています。

 エンゲルスは、八四年五月末から第二部の編集にとりかかります。『資本論』の編集の第一の難関は、マルクスの草稿を読める字に書き直すことでした。エンゲルスはそれにとりかかるのですが、病み上がりの身ですから、いろいろ考えて、筆記者を頼んで、自分はソファで横になって草稿を読む、そしてエンゲルスが読み取ったものを、きちんとした読める字に筆記者に書き直してもらう、こういう作業をやることにしました。この第二部の口述作業には、なんと、八四年の五月末からはじめて一〇月まで五カ月近くかかりました。そうして清書したものを、エンゲルスが、夜、正確に筆記されているかどうかを点検して必要な手直しをやる。

 そのときのエンゲルスの手紙があります。“体の調子が悪く、医者からは長時間机にむかうな、と厳禁されていた”と。そういった状況になったために、膨大な草稿の清書は、できないから、それを筆記者に頼んだというわけです。この作業が毎日五時間から一〇時間。こうして清書した草稿を材料として、エンゲルスが第二部にかかるのですが、一八八五年一月には編集が完了する。ものすごいスピードでした。しかし、一日五~一〇時間の口述筆記は、たいへんな苦しい仕事だったようで、エンゲルス自身、その作業を「難行苦行」と呼んでいました[★]。

★ 「難行苦行」 「いま僕は『資本論』第二巻の口述筆記をやらせており、これまでのところ急ピッチで進行しています。だが、これは難行苦行で、たいへん時間がかかり、ところによっては知恵をしぼらなければなりません。幸いなことに僕の頭の調子はたいへんよく、完全な活動能力を保っています」(エンゲルスからベッカーへ 一八八四年六月二〇日 全集㊱一四八ページ)。

 その上、夜の手入れの仕事があります。当時の夜は、いまのように明るくはないのです。ランプやろうそくの時代からガス燈の時代に変わっていましたが、ガス燈といってもいまの白熱電灯にくらべればはるかに暗いものです。私は、この夜の仕事が、次の段階でエンゲルスが眼病で悩むようになる大きな原因になったことは間違いないと思います。そういう苦労をして第二部を仕上げました。

一〇年近くかかった第三部の編集

 今度は第三部です。これは、第二部のようなスピードでは進みませんでした。

 また、最初の作業は口述筆記です。それは八五年一月に始まり、七月下旬には完了します。エンゲルスはこのとき、はじめて第三部の内容を詳しく読んだようで、いろんな友人に第三部の内容について手紙を書き送っています。たとえば、ラウラというマルクスの二番目の娘さんですが、そのラウラに送った手紙には、こうありました。

 「こういうたいへんな諸発見、こういうまるまる完全な革命を脳内でやりとげた人が、二〇年間もこれをそのまま残しておくことができたとは、ほとんど思いも及ばないことです」 (八五年三月八日 全集㊱二五九ページ)
エンゲルスも知らされていなかったようなすばらしい内容が第三部に展開されている。そのことへの驚きと感激の言葉です。

 一方、編集に取りかかるエンゲルスの体の条件はさらに悪くなっていました。

 まえまえからの病気にくわえて、目の病気がすすんだのです。医者からは読み書きは一日二時間だけと制限されます。エンゲルス自身、『資本論』第三部を仕上げたときに「序言」を書いていますが、その中で、完成が遅れた事情の第一に、自分の体調をあげてこう述べています。

 「なによりもまず、いちばん私のさまたげになったのは、長く続いている視力減退で、このため、私のもの書きをする仕事の時間は、多年にわたって最小限に制限されてきたし、いまもなお、人工の光[ガス燈のこと―不破]のもとでペンを手にすることは例外的に許されているにすぎない」(新書版⑧五ページ)。

 こういう悪条件のなかで第三部の編集に携わったのでした。しかも、エンゲルスがおかれていたのは『資本論』さえやっていればいいという立場ではないのです。

 昔は、マルクスと二人で世界中の労働運動、社会主義運動に対応していました。いろいろな理論問題にも二人で分担し合ってとりくんできました。いま、それが一人になった。しかも、エンゲルス自身の著作もあるが、マルクスの著作でまだ発表していないものやいろいろな著作の各国語版を発表する必要が出てくる。そうなると、その準備が全部エンゲルスの肩にかかってきます。そういう仕事を山と抱えながら、さらに手紙を書くという仕事があります。これは最小限にすると何度も宣言するのですが、世界の各方面から意見や助言を求められ、運動上エンゲルスの発言を必要とする場面もかぎりなくうまれて、第三部の編集にあたっている一二年間に、全集に収録されているだけでも、一一六二通、全集で二〇〇〇ページを超える手紙を書いています。そういう状況ですから、なかなか『資本論』第三部の仕事は進みませんでした。

 第三部の口述筆記は、一八八五年七月に終わりましたが、エンゲルスはその後見舞われた眼病のために長く編集にとりかかれず、編集作業を開始するのは、一八八八年一〇月となり、第三部の最後の原稿を印刷所に送り出したのは、一八九四年五月になりました。口述の開始から数えると、編集にほぼ九年半かかったことになります。一〇年近い歳月をかけて生み出したのが、『資本論』の第三部です。これは伊達や酔狂では読めない本ですよ。

 内容を見ますと、最初の難関は第一篇だったそうです。理論の筋道よりも、このなかに剰余価値率と利潤率の関係の計算をする章があります(第三章と第四章)。マルクスは数学には強いけれども計算には弱いという弱点があって、この篇に関係する計算のノートが何冊もありますが、みんな間違っているのですね(笑い)。それを全部訂正して、ちゃんとした計算式に直すのに一番苦労したということを、エンゲルスは書いています。その一方、第三部の最大の問題である「利潤率の傾向的低下の法則」を論じた第三篇などは、ほとんど問題を感じないまま、パスさせたようです。

 ともかく八八年一〇月に編集作業を始めて以後、翌八九年の二月末までに第四篇までは編集を終えています。かなりのスピードでした。

 ところが第五篇、これはわれわれがいま読んでも苦労するところで、銀行と信用にかかわる長い篇です。エンゲルスは、八九年の秋からこの篇に取りかかったようですが、編集の完了までにたいへんな苦労をすることになりました。

 エンゲルスが第三部の「序言」で書いていることを要約すると、こういう状況だったとのことです。

 ここは、理論的体系としてはまったく仕上がっていない部分だったので、それを理論的に仕上げて「著者の与えようと意図していたものすべてを、せめて近似的に提供しよう」と考えて、その線での仕上げ作業を三回試みたけれども、その都度失敗した。どうしても成功しない。「私に残されたのは、ある点では大急ぎで事をかたづけ、現存するものを可能な限り整理することだけに限定し、ただどうしても必要な補足だけをすることしかなかった」(新書版⑧一一ページ)。

 こういう方針で第五篇の編集を終えたのが、一八九三年二月でした。信用の篇だけで何と三年と数カ月かかったことになります。

 エンゲルスは、いつも第三部の編集の状況を友人やマルクスの娘たちに書き送っていますが、誰にも知らせない、一切書かない時期が一八九〇年から九一年にかけてかなり長く続きました。私は、この発信空白の時期は、信用のところで何度も理論的に仕上げようとして「その都度失敗した」というその時期にあたるのではないかと推測していますが、そういう、ひとにはいいがたい苦労をしてようやく仕上げたのが。第五篇でした。

 このころ、エンゲルスの印象的な言葉があります。信用論を仕上げる四カ月前、彼は九二年一〇月に、オーストリアの党幹部アードラーという同志に次のような手紙を書いたのです。

 「僕はいま『資本論』第三巻にとりかかっている。過去四年間で一度でも三カ月、落ち着けるという予定がとれていたら、とっくに仕上がっているはずだ。しかしそんな目に会うことは一度もなかった」(エンゲルスからフリードリヒ・アードラーへ 一八九二年一〇月二三日 全集四四〇ページ)
エンゲルスは、実に、そういう苦労のなかで、第三部の編集という困難な仕事をやりとげたのでした。九三年三月~九四年五月、『資本論』の最後の部分、地代論その他を仕上げて印刷所におくりこみ、一八九四年一二月に第三部が刊行されました。

 こうして、マルクスの生涯をかけた労作『資本論』全三部が、ついに世界に送り出されたのでした。

 その一〇カ月後、一八九五年八月にエンゲルスは死亡しました。まさにエンゲルスは『資本論』に命をささげたと言ってもよいと思います。

悪条件のもとでの編集作業

 こうして見たように、エンゲルスによる『資本論』第二部、第三部の編集作業は、たいへんな悪条件のもとでおこなわれたものでした。

 第一に、マルクスは、草稿の進み具合をエンゲルスに説明すると、「そこまでできているのなら早く書け」といわれると思うものですから、内容も進行状況もエンゲルスに知らせなかったのです。内容を知らされていないのですから、それだけでも編集はたいへんでした。

 第二に、エンゲルスは編集にあたって、草稿の内容は、マルクスが仕上げた第一部の草稿と同じ水準のものだ、仕上げられたものだと思っていますから、そのなかにマルクスが乗り越えた古い考えが残っているなどとは夢にも思わないわけです。さきほど、第二部第一草稿で大きな理論的転換があったことを説明したでしょう。残された『資本論』第三部の草稿には、この転換以前に書いた部分(第一篇~第三篇)があったのですが、そのことに気がつかないまま、編集にあたった。これも大事な点です。

 第三に、『五七~五八年草稿』、『六一~六三年草稿』があることは、エンゲルスはわかっていました。ざっとは見ています。ただ、先ほど言ったように、マルクスの字というのは難しい字ですから、ざっと見て中身がすぐわかるものではないのです。エンゲルスは、そのなかに、「剰余価値にかんする諸学説」と題した膨大な草稿があることを発見して、後輩たち[★]にこれは大事だということを書き送っていますけれども、こういうものを自分で研究して、『資本論』に生かすことはとても不可能でした。

★ 後輩たち ドイツの社会民主党の幹部党員だったカウツキー(一八五四~一九三八年)とベルンシュタイン(一八五〇~一九三二年)です。エンゲルスは、この二人にマルクスの「象形文字」の解読法を教えこみ、自分の死後に「剰余価値にかんする諸学説」を刊行することを委託しました(一八八九年一月二八日のエンゲルスからカウツキーへの手紙参照。全集㊲一一八~一二〇ページ)。しかし、この二人のエンゲルス死後の政治行動は、エンゲルスの期待を裏切るものとなりました。

 最後に、エンゲルス自身の体調の困難がありました。仕事時間の制限をしろと最初からいわれていた、それに眼病がくわわるなど、いろいろなことがあって、第三部刊行の数カ月後に亡くなりました。亡くなった後に、食道がんにおかされていたこともわかりました[★]。

★ エンゲルスの病気 エンゲルスは知りませんでしたが、彼を見ていた医者は、数年来エンゲルスをなやましてきた病気が食道がんであることを知っていたとのことです。

 エンゲルスは、こういう困難をきわめた歴史的条件のもとで、最善を尽くしたと思います。そういう努力があったからこそ、『資本論』の全体像が後世に伝わることができて、私たちはいまこれを読むことができるのです。これはエンゲルスならではの歴史的功績だったと思います。

 私は、今回、あらためてその全経過をふりかえって、その意義を痛感しました。後の機会に、エンゲルスの苦闘の経過をまとめて紹介する仕事を自分の課題としたい、こういう気持ちにもなりました。

 こういう困難な条件のもと、単独の努力でおこなわれたその編集作業が歴史的限界をまぬがれないことは当然なのです。事実、いくつかの問題点が残りました。

 今日、『資本論』最後の巻・第三部が発行されてから一二五年です。マルクス、エンゲルスの新しい完全版全集――略称『新メガ』の刊行で、一九九〇年代半ば以後には、諸草稿のほとんど全体を日本語で読めるようになりました。ですから、エンゲルス編集の歴史的到達点に安住しないで、その問題点を調べて解決するのは、新しい条件を得たわれわれの責任だと思います。そしてその責任を果たしたのが、今回の新版の大きな特徴であり、成果だということを、私はみなさんにご報告したいと思います。(拍手)

3、現行版の編集上の問題点

資本主義の「必然的没落」論と恐慌の運動論

 これから、現行版の主要な問題点をみてゆきますが、最大のものは、先ほど、現行の『資本論』への発展の起点となったと意義づけた第二部第一草稿における転換点――新しい恐慌論、恐慌の運動論の発見が見落とされてしまったことです。

 エンゲルスは第二部を編集したときの「まえ書き」に、「第一草稿は、現在の区分での第二部の最初の独立の、しかし多かれ少なかれ断片的な草稿である。これからも利用できなかった」と言って、第一草稿は編集からはずすということを言明していました。

 『資本論』は、「資本の生産過程」、「資本の流通過程」、「総過程」という三つの構成部分からなっていますが、第一草稿というのは、マルクスが「流通過程」論を最初に展開した草稿でした。ですから、まだ荒っぽいところ、未成熟なところはいっぱいあります。そういう意味では、これを採用しないで第二草稿以後の草稿によって編集したということには一定の根拠があったのですが、その第一草稿には、そのなかでマルクスが恐慌の運動論を発見してここに書き込んだというたいへん重要な特質がありました。それをエンゲルスが見落としたことは、『資本論』の編集に大きな影響をおよぼしました。

 第一は、資本主義の没落論にかかわる問題です。

 マルクスは、『資本論』第二部第一草稿を書く以前の時期、すなわち一八六四年までは、利潤率の低下が恐慌を生み社会変革を生むという古い没落論にとらわれていました。『資本論』第三部の前半部分は、その時期に書かれたもので、その第三篇では、「利潤率の低下傾向」がいかに資本主義の没落を生み出すか、ということの証明を主題にしていますが、内容をよく読んでみると、最後までその没落論は証明できないままに終わっていることがわかります。

 マルクスはその後、恐慌が起こる仕組みを、第二部第一草稿での「資本の流通過程」の研究のなかで発見して、資本主義の「必然的没落」の理論を、新しい見地で発展させたのです。ですから、『資本論』第一部では、第七篇の第二三章と第八章第七節がこの問題の解明にあてられ、資本主義の諸矛盾の発展と合わせて、そのなかで「訓練され結合され組織される労働者階級」の運動、その変革者としての成長が主体的条件となって、資本主義が没落の時期を迎えるという新しい没落論が書かれています。

 ところが、エンゲルスは、そこを見損なったために、その没落論と同時に、「利潤率が低下して資本主義が没落する」という、マルクスが乗り越えた前段階の没落論を第三巻に残してしまった。こういう問題があります。

 その結果、第一部の労働者階級の闘争を軸にした新しい没落論を全面的にとらえられず、資本主義は利潤率低下で没落するのではないかという見方を残す結果になりました。

 注意しておきたいのは、これは、利潤率低下の法則に問題があるわけではありません。利潤率というのは、不変資本と可変資本の比率ですから、資本が大きくなり発展すれば必ず低下します。しかし、低下することが資本主義の危機を生むかと言えば、そういうことはないのです。これは、生産力が発展すれば当然起こる現象であって、それを没落論に結びつけたところに、大きな誤りがあったのでした。マルクス自身は、一八六五年の恐慌の運動論の発見を転機としてこれを克服しましたが、エンゲルスが編集したさいに、この問題に気づかず、マルクスがすでに乗り越えた見地を残してしまった。そこから不明確さを生みました。

 第二は、恐慌の運動論の本格的な展開がないことです。

 もともと、マルクスが第二部第一草稿で恐慌の運動論を発見したという事実を見逃してしまったものですから、現行の『資本論』全体を読んでも、恐慌の運動論についての本格的な議論は見つからないのです。

 ただよくよくみると、現行の『資本論』にも、恐慌の運動論について述べた部分はあるのです。

 たとえば第三部の第四篇の商人資本論です。ここは、マルクスが、新しい恐慌論、運動論を発見したその年(一八六五年)に書いた篇ですから、そこには商人資本の運動を論じるなかで、マルクスは新しい恐慌論を展開しています[★]。しかし、そこに新しい恐慌論を読み取る人がいままであまりいませんでした。商人資本の運動にかかわる特別の議論として、読み過ごされてきたのだと思います。

★ 第三部第四篇の「第一八章 商人資本の回転。価格」(新書版⑨五一四~五一六ページ)を見てください。そこでは、第二部第一草稿で発見した恐慌の運動論が、第一草稿以上にていねいに説明されています。

 マルクスは、第二部の「注」のなかで、恐慌論はこの部の最後の部分で本格的な展開をおこなうことを予告しています[★]。つっこんだ恐慌論は、そこで展開するよ、という予告だと思いますが、現行版では、予告だけにとどまっています。いまの『資本論』の編集では、マルクスがせっかく発見した恐慌論が、十分な形では反映しておらず、ここに一つの大きな弱点を残しました。

★ 第二篇「第一六章 可変資本の回転」のなかでの「注」(新書版⑥四九九ページ)。

 この「注」は、一八六八~七〇年に執筆した第二草稿のなかでの「注」ですが、のちの草稿には、最後の部分で予定した恐慌論が、第一草稿で発見した恐慌の運動論を基本とするものであることを示唆する書き込みもありました。

 第二部の「第二章 生産資本の循環」は、一八七七年執筆の第五草稿によって編集したもので、第二部の諸草稿のなかでも、最も新しい時期の所産ですが、マルクスは、そのなかで、資本のなかで流通過程への商人の参加の問題を取り上げたとき、その文章の最後に「恐慌の考察にさいして重要な一点」という一句を書き込みました(新書版⑤一一九ページ)。そして、そのページの下段に長い注を書き込みました。そこで出所は示しませんでしたが、内容は、恐慌の運動論を説明した第二部第一草稿の文書を転記したものでした。ここは、恐慌論を本格的に論ずる場所ではありませんから、第二部の最後の部分で恐慌の問題を本格的に論じるときに必要な文章を、覚え書き的に書き留めたのではないかと、私は見ています(エンゲルスはこの「注」を、一部書き直したうえで本文に組み込みました)。

 第二部の草稿執筆の最後に近い時期(一八七七年)に、第一草稿の恐慌論の主要部分をここに転記したことは、その時点でのマルクスの理論的立場をしめすものとして、重要な意義を持つことでした。

 新版では、いまあげたそれぞれの箇所で、新しい恐慌論にかかわる必要な説明を「注」でおこなって、その点を補っています。それとともに、第二部の最後には、かなり大きな「訳注」をたて、第二部第一草稿の恐慌論の全文を掲載して、今の弱点を補うことにしています。

4、そのほかの一連の問題

 そのほか、エンゲルスの編集の問題点として新版で解明したいくつかの点を、比較的大きな問題にしぼって、紹介しておきたいと思います。

(一)第二部・拡大再生産の部分の叙述

 一つは、第二部の拡大再生産の部分の叙述の問題です。

 マルクスは、解決すべき新しい問題にぶつかったとき、解決の方法を見いだすために、問題の入り口を変えたり、道筋を変えたりと、いろいろ試行錯誤をくりかえすことがよくあります。それで結論に到達したときには、試行錯誤で書いたところは、そのまま残しておくと読者が混乱しますから、そこは削ってしまって、到達した結論部分をきちんと書くのが普通のやり方でした。

 『資本論』の草稿にも、そういう部分はあるのです。

 第二部第三篇第二一章の「蓄積と拡大再生産」の章では、マルクスが何度も挑戦しては失敗を繰り返し、最後に正しい結論に到達するのですが、現行版では、試行錯誤の失敗の部分が本文としてそのまま編集されてしまって、読者を混乱させる、こういう編集になっています。

 マルクスにも失敗があるのだと思って、面白く読む方もいるでしょう。マルクス自身、挑戦に失敗した後では、「これではわれわれはただ堂々めぐりをしているだけ」だなどの自己批判的な文章を書くなど、そういうところが現在の『資本論』に残っていますから、そこを探して読むのも面白いのですが、そこを研究の本論として読んでしまったら困るのです。

 そういう点は、今度の新版では、独自に区分をつけて、マルクスの思考錯誤の過程だということがわかるように工夫しました。

(二)信用論での草稿外の文章の混入

 それから、マルクスが『資本論』のために書いたものではない文章を、エンゲルスが間違えて入れてしまったというところもあるのです。

 マルクスは、『資本論』を書くときにノートの独特の使い方をしまして、本文を執筆するときは、ノートのページを上下に区切って、本文を上半分に書きました。下半分はおそらく「注」などを書き込むために空けておくということだったのでしょう。

 一方、同じノートでも、別の用途にノートを使うときには、上下の区分なしにべったり書いてしまうのです。編集のさいに、そこを読み分ければ間違いはないのですけれども、信用論の部分でエンゲルスが編集したときに、そこの読み分けをしなかった部分がありました。

 信用論の草稿には、マルクスが、イギリスの議会の議事録から、いろんなやり取りをそのまま速記して、あとあとの材料のために記録したところがあります。そのときには、上下の区切りなしに全ページを使って書きこみました。それをエンゲルスが読んだときに、後々のための資料と思わないで、これも『資本論』そのものの原稿だと思ったのですね。しかし、そのうえで原稿にならないので、順序を入れ替えたり、自分で批評や分析の言葉を書き加えたりして、独自の章をつくる。こうしてつくられた章が、第三部の信用論には何章もあるのです。その事情も今ではわかりましたから、訳注でその区別がわかるようにしています。

 実は、第三部の草稿ノートの中には、マルクスがわざわざ「混乱」というタイトルをつけて、イギリス議会の混乱した討論を抜粋した相当大きな部分があるのです。いまの『資本論』では、それが全部、独自の章として編集されています[★]。そういう編集上の誤りも、今度の新版ではわかるようにしました。

★ 第五篇の「第二六章 貨幣資本の蓄積。それが利子率におよぼす影響」の議会報告書の引用部分(新書版⑩七二〇ページ以後)、「第三三章 信用制度下の通流手段」(新書版⑪)、「第三四章 〝通貨主義〟と一八四四年のイギリスの銀行立法」(同前)など。

 実はマルクスは、「混乱」と題した抜粋をつくった当時、いま議会報告書を読んでいる最中だということを、エンゲルスに手紙を書いています、一八六五年八月一九日の手紙ですが、ブルジョア陣営の代表者たちは「ナンセンス」な議論をしている、「このごった煮の全部にたいする批判」を、「もっとあとの本」でやるつもりで、材料を集めていると、ちゃんとエンゲルスに報告していました。ところが、エンゲルスがこの部分の編集にあたったのは、この手紙から二〇年くらいたっていますから、この手紙のことなど忘れてしまって、「ごった煮」全体を『資本論』の本文と思い込んだのでしょう。

 この信用論編集は、エンゲルスが、一番苦労したところですが、そういうなかで、『資本論』に入るべきでない草稿が、部分的に入り込んでしまったというのは、まぎれもない事実ですから、新版では、そのことを明らかにしました。

(三)未来社会論の取り扱い

 最後に、第三部第七篇「第四八章 三位一体的定式」という題のところの問題です。変わった表題ですが、「資本」が利子を生む、「労働」が賃金を生む、「土地所有」が地代を生む――これが俗流経済学の一番の哲学なのですね。それをマルクスが、「三位一体」という言葉で冷やかして批判したのがこの章なのです。

 ところがこの章に、未来社会論が入っているのです。この章の最初に近い部分です(新書版⑬一四三二~一四三五ページ)。

 私たちは、未来社会について「自由の国」と「必然性の国」という言葉を使って説明します。これは、この章のなかにある「未来社会」論をもとにしたものです。社会のなかの人間の活動をみると、人間の活動には二つの部分がある、社会を維持するための物質的生産に参加する時間、すなわち労働に従事する時間と、それ以外の自分の自由に使える時間です。マルクスは、社会の必要のための労働にあてる時間を「必然性の国」と呼び、自分が自由に使える時間を「自由の国」と呼びます。「自由の国」をたくさんもてばもつほど、人間自身も発達することができるのです。

 階級社会では、労働者階級は、「自由の国」をまったくもてないか、本当にわずかしかもてない。しかし、階級差別がなくなった未来社会――社会主義・共産主義の社会では、みんなが平等に労働して、ひとりひとりの労働時間が短くなり、自由に使える時間――「自由の国」をみんなが豊かに持てるようになる、それですべての人間が自分を発達させる可能性と条件を獲得し保障される、そのことが「必然性の国」に反作用して労働時間をさらに短くする、マルクスは、ここで、こういう壮大な未来社会論を展開しました。

 この未来社会論が『資本論』のどこにあるかというと、現行版では、「三位一体定式」という俗流経済学批判の章のなかにまぎれこんだような形であったのです。そのために、この未来社会論はなかなか発見されず、長く読み過ごされてきました。

 私たちも、二〇〇三~〇四年の党綱領改定の時期に発見して、この未来社会論を党綱領の将来展望のなかに大きく位置づけたのでした。

 なぜ発見されなかったのか。それは、この章が、「三位一体的定式」のテーゼの解説に始まり、そのあとにこの未来社会論がなんの意義づけもなしにでてきて、そのあとにまた「三位一体的定式」の俗流経済学批判が延々と続くという編集になっていることに、一つの原因があったと思います。

 マルクスのもともとの原文をみると「三位一体的定式」という章の表題を書いてから、すぐ、いちばん最初の部分に、カギ括弧をつけて未来社会論を書いています。マルクスは、『資本論』でものを書くときに、ここで扱っている主題ではないけれども、別の主題でパッと思いついたことがあり、その問題を書きつけるときには、必ずカギ括弧をつけて、その事情をわからせるようにしていました。

 ところが、エンゲルスは、この点を見逃してしまったのですね。それでこの章のなかの順序も、いろいろな箇所にある「三位一体的定式」にかかわる文書を集めてきて、それをまず頭におく、そのあとに未来社会論をおいて、俗流経済学批判の本論を延々と続ける、こういう編集をしたものですから、せっかくの未来社会論が、「三位一体的定式」の俗流経済学批判のなかに埋没してしまい、その意義がまったくわからなくなってしまった。

 マルクス自身は「三位一体的定式」という章の題名を書いたすぐ後に、カギ括弧つきで未来社会論を書いている、そのあとに「三位一体的定式」の本文がきているのですが、エンゲルスはそこを読み違えたのではないでしょうか。

 ここは大事な点ですから、編集を少し変えました。エンゲルスが冒頭にもってきた三つの文章をしかるべき位置に移して、冒頭に未来社会論がくるようにして、ここは「三位的定式」の一部ではなく、未来社会論を論じた独自の部分だということがわかるように、必要な訳注もつけるという新しい編集にしました。

 こういう点がまだほかにもありますけれども、以上が、エンゲルスが苦労した中で、見残したとか、見誤ったとかという問題点としてとりあげて、今度の、新版『資本論』でその解決を示した主だった点であります。

5、新版『資本論』刊行の歴史的な意義

 最後ですが、今年は、エンゲルスが第二部を刊行してから一三四年、第三部を刊行してから一二五年にあたる年です。この間、日本でも世界でも『資本論』の多くの諸版が発行されてきました。しかし、エンゲルスによる編集の内容そのものに検討を加え、残された問題点を解決して、マルクスが到達した理論的立場をより鮮明にする、こういう立場で翻訳・編集した『資本論』の新版の刊行は、これまで世界に例がないものであります。

 それだけに、当事者としての責任の重さを痛切に感じています。

 私たちは、エンゲルスも十分に読み取る機会と条件がなかった『資本論』成立の歴史が、資料の面でもこれだけ明らかになった現在、この仕事をやりとげることは、マルクス、エンゲルスの事業の継承者としての責任であり、義務であると考えて、この仕事に当たってまいりました。そして、今回、発刊する新版『資本論』は、エンゲルスが、資料も時間も十分にもたないなかでおこなった編集事業の労苦に思いを寄せ、その成果を全面的に生かしながら、『資本論』の執筆者であるマルクスの経済学的到達点をより正確に反映するものになったことを確信しています。

 現代の日本で、また広くは現代の世界で、マルクスの理論を指針として社会の進歩と発展に力を尽くそうとする多くの人々が、この新版『資本論』を活用していただくことを心から願って、私の話の結びとするものであります。どうもありがとうございました。(拍手)

(ふわ・てつぞう)

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