現場Note

目の当たりにした岸田大軍拡──許さない思い、市民とともに

石橋さくら(政治部)

石橋さくら(政治部記者)

沖縄県民の不安に背

 創刊以来、反戦平和を貫いてきた「しんぶん赤旗」の一員として、アメリカ言いなりに空前の大軍拡を進め、「核抑止」に固執する岸田文雄首相を追い、沖縄、広島、欧州で取材してきました。各地で、被爆者や市民の心の底からの怒りと平和への強いメッセージに心動かされました。軍拡を許せない、諦めない人々の思いを共有し、忖度なく政権を批判することができるのは赤旗だからこそと実感しています。

 昨年12月の安保三文書で岸田政権はアメリカと一体になった敵基地攻撃能力の保有を一方的に決定しました。そのためのミサイルが沖縄県を中心とした離島に配備される計画が浮かび上がる中で6月23日、住民の4人に1人が亡くなった沖縄戦から78年目の慰霊の日を取材しました。

 早朝、小学生の子どもたちと慰霊碑に刻まれた名前を手でなぞり、「うーとーとー(お祈り)しようね」と言い、慰霊碑に手を合わせる遺族がいました。毎年家族3代で来ているという42歳の女性は、慰霊碑の名前は大叔母の赤ちゃんだと教えてくれました。当時大叔母は「戦火から逃げている際、背中に血がつたってきたことでおぶっていた自身の赤ちゃんが弾に当たり亡くなっていることに気づいた」と話しました。戦後、ウジのわいた傷跡を見せ、「芋の皮1枚がどれだけ美味しかったか」と飢餓に苦しんだ体験を繰り返し聞かせてくれた祖母に触れ、「小さい話だけれど、こういう戦争の話を私はこれからまだまだ聞いていける。子どもたちに伝えていきたい」とまっすぐ前を見つめ語りました。再び戦争に巻き込まれる危険が高まる中、戦争の恐ろしさを若い世代に伝えなければとの切実な思いにあふれた言葉でした。

 同日に行われた平和式典。玉城デニー知事は、沖縄への軍備増強が苛烈な地上戦の記憶と相まって県民に多大な不安を生じさせていると語り、「対話による平和外交が求められる」と訴えました。一方、岸田首相は記者会見で、地元記者から敵基地攻撃のミサイルである長距離ミサイル配備について問われても、「南西諸島へのミサイル配備強化は国民の保護となる。抑止力・対処力の強化で武力攻撃の可能性を下げる」などと主張しただけで、足早に会見を終了。悲惨な戦争の記憶をつなぎ、戦争をしないことを誓う日に、県民の願いや不安に平然と背を向け、戦争の準備を先行する岸田首相を目の前にし、愕然としました。

欧米で一方的な大軍拡宣言

 国民置き去りのまま欧米の軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)との連携強化にひた走る岸田首相の姿を欧米まで追いました。日本の首相として初めて出席した昨年のNATOサミット(スペイン・マドリード)では、「日本の防衛力を5年以内に抜本的に強化する。その裏付けとし、防衛費の同等な増額を確保する」などと宣言。日本国民に説明がないまま一方的に大軍拡を確約したのです。

 今年のサミット(リトアニア・ビリニュス)では、インド太平洋地域での軍事交流を含む「実務的な協力」の拡充を盛り込んだ日本・NATO間の新文書を発出。日本の一途な軍事貢献にNATOのストルテンベルグ事務総長は、「最も緊密なパートナーは日本だ」と称賛しました。岸田首相はもはや、大軍拡で世界での地位を築くと決意したかのように感じました。

 取材の合間に、ナチスの迫害からリトアニアのユダヤ人を守るため「命のビザ」を発行したことで知られる杉原千畝の資料館に行きました。

 杉原氏に助けられた人々のその後の人生やその子孫の人生などの展示を見、命が繋がれたことに感動したのと同時に、一人一人の人権がいとも簡単に奪われる戦争の恐ろしさについて考えさせられました。資料館の学芸員は、「リトアニアはソ連に侵攻され長い間その支配下にあった。ロシアと地理的に近いことからウクライナの次は自分たちではないかとの危機感がある」と語り、リトアニアがウクライナ難民を多く受け入れていることについては、「リトアニアはユダヤの難民を受け入れてきた歴史があり、受け入れるのは当然のこと」と語気を強めました。そばに寄り添っていた大きな黒い犬について尋ねると、ウクライナで飼い主を失った子を引き取ったとのだと話しました。戦争への恐怖を身近に感じながら、「逃れる人を助け受け入れる」思いを持つリトアニア市民の思いに触れました。

「ヒロシマ」利用する岸田首相

 5月に開催された主要7カ国(G7)広島サミットは、G7で初めて核に特化したビジョンが広島で発出されるとし、核廃絶への一歩をと願う広島市民を始め、国民の期待は高まっていました。しかし目の当たりにしたのは、核廃絶へ具体的行動を求める市民や被爆者を締め出し、「ヒロシマ」を自身のアピールの場として利用しつくした岸田首相の姿でした。広島市内は市民より警察官の数が多いのではないかと思うほどの厳戒態勢。さらに、普段は平和の象徴として開かれ、市民にとって身近な平和記念公園は中が見えないよう一帯を白く高いフェンスで囲われていました。その横を通り過ぎる際、タクシーの運転手は「まさか、こんな囲うことまでするなんて」とため息まじりにつぶやきました。

 サミット開催中にG7首脳らは原爆資料館を訪問し、被爆者と面会して被爆体験を聞いたことを報告し、被爆の実相に触れたことを誇示しましたが、肝心の内容は非公表としました。この夜、広島県原爆被害者団体協議会の佐久間邦彦理事長は記者会見で、「首脳らが何を見聞きし、何を思ったのか、〝外〟から何もわからなかった」と批判。被爆2世の中谷悦子さんは、「『核は人類と共存できない』とのメッセージを翌日のビジョンで強くうちだしてほしい」との期待を寄せました。  

 その会見の数時間後、「核兵器は防衛目的のために役割を果たし、戦争および威圧を防止する」とし、核兵器は役に立ち、核兵器で脅し合う核抑止を必要とする「広島ビジョン」を発出しました。いざとなれば核兵器の使用もいとわない核抑止を正当化し、核兵器禁止条約には一言も言及しないなど被爆者が広島開催の意義をと託した願いを完全に無視しました。

 サミット最終日。岸田首相が平和記念公園で記者会見を開くとの一報が入りバスで白いフェンスの中に入りました。首相は原爆ドームと「過ちは二度と繰り返しませんから」と刻まれた原爆碑を背に、広島ビジョンは歴史的意義があると誇りました。平和記念公園の地に眠る被爆者の上に立ち、核兵器の存在を肯定するビジョンを絶賛する岸田首相を目の当たりにし、「〝ヒロシマ〟を傷つけた」、そんな言葉が浮かびました。

被爆者の言葉、世界へ

 核抑止にしがみつく首相が被爆者と向かい合う8月の原爆の日の取材のため再び広島へ向かい、被爆者の被爆体験を聞きました。児玉三智子さんは、44歳で突然がんを発症した娘さんに亡くなるまでそばで寄り添ったことを話し、「悲しいです。今でも私のそばにいます」と静かに語りました。被爆の影響だと自分を責め続ける児玉さんの深い悲しみに涙が止まりませんでした。

 胎内被爆者の濱住治郎さんは、生き残ってもなお苦しみを与え続ける核の恐ろしさを強調し、核抑止を公然と宣言する岸田首相を批判。「核抑止とは被爆者への国家による欺瞞であり、すり替えであり、ごまかしです。被爆者にとって核抑止とは、原爆そのものであり、きのこ雲そのものなのです」と怒りを込めて訴えた言葉にはっとしました。私たちがさらされている核抑止とは核の使用をいとわず、いざとなれば私たち一般市民の命や暮らし、これから先の世代が健康で安心して生きていくその当たり前の「生」が残酷なまでに奪われることを前提にしたもの─。核抑止に固執する首相のごまかしは被爆者を前に一層明らかになるばかりだと思いました。

 6日の平和式典でのあいさつで岸田首相は、核廃絶への具体的な措置を盛り込まない広島ビジョンの成果を前面に出し、根拠も示さず「核兵器のない世界の実現に向け引き続き積極的に取り組んでいく」などと述べました。今や核廃絶の大きな道筋として世界の多くの国が参加し始めている核兵器禁止条約にも一言も触れませんでした。

 一方、原水禁世界大会では、日本・世界の市民団体が発言・交流し会場は熱気に包まれていました。米国から初めて参加したというNY州ピース・アクション学生運動担当者のマーガレット・エンゲルさんは、「被爆者の被爆体験や核廃絶への力強い市民の思いを聞き、6回も泣いてしまった。核廃絶で団結した参加者のエネルギーに圧倒された。若い世代として、核廃絶の運動を引き継いでいきたいとの気持ちを強くした」と興奮した様子で語りました。

 怒り、悔しさ、喜び。大軍拡に声をあげる市民の思いを現場で共有し、記事にし、伝えることができる喜びを実感しています。これらの体験を胸に、これからも市民とともに大軍拡を許さない視点で取材を重ねていきたいと思います。

(いしばし・さくら)

『前衛』2023年11月号から