現場Note

新聞を「つくる」─国民の意識と響きあい、政治を動かす

坂本伸子(編集局次長) 編集センター

坂本伸子(編集局次長)

 「赤旗」編集センターは現在6人体制です。センターの仕事は多々あるのですが、日刊紙の「その日の編集長」、「紙面づくりの司令塔」と言われるのがセンター通し番(通称、当番)です。紙面づくりの過程を知るがゆえにその面白さも、恐ろしさも実感する日々です。センター当番の1日とは──。

刻々変化─降版へ

 当番のシフトに入る日は、午前10時に着席します。1面、3面にどういう記事が用意されているか、何が提稿(原稿が出稿されること)されるのかは、前日の夕方には把握しておきます。しかし、前日の締め切り後にも政治は動きますし、事件事故は日本だけでなく世界でも起きます。意外なニュースが深夜に配信されることも少なくありません。

 日刊紙は通常、紙面をつくるために1日5回の会議を開き、集団的検討を経て紙面を練り上げます。まず、着席すると、前日のセンターの引き継ぎを確認し、時事通信の配信をチェックします。そして政治部や社会部、外信部、国民運動部、経済部、地方部などからの提稿メニューを確認します。大まかな構想をもって、11時から「1面検討会議」を開催。1面と3面の内容、その日の紙面に必要なことを検討します。

 紙面は「水物」です。予定外のことが起きるのはいつものこと。締め切り時間がくるギリギリまで必要なニュースを入れる、日本共産党の中央機関紙としての役割を果たす、それをやりきるために当番が存在する、と思っています。

 12時30分から昼の部長会議。連絡事項の徹底や紙面批評を行い、ミスの報告を聞き、翌日の紙面について説明します。13時30分からはデスク会議。朝の会議で打ち合わせた内容、進捗状況、新たに起きた注目すべき事象や事件事故等を検討。全ニュース面の紙面構成が報告されます。1面から3面、政治総合面、国民運動面、外信面、経済面、社会面と紙面の全容が明らかになります。15時には、記事に見出しをつけレイアウトを考え、紙面を組む整理記者が着席し、紙面づくりが具体的に始まります。

 16時30分。「紙面調整会議」です。志位和夫委員長や小池晃書記局長、田村智子政策委員長ほか、幹部の記者会見の内容が分かります。当番は、全ニュース面に入る記事を説明します。1面候補がたくさんあるときは調整が必要です。1面以外の面で大きく扱うのか、1日預かって、あす作業の1面候補にするのか。全員が納得できないことも多々あります。各部の言い分も思いも受け止めて穏やかな着地点を探りたいところですが、「言うは易く行うは難し」です。

 19時前後から紙面が次々と出来上がってきます。整理部の面製作を担当する記者(面担)が紙面を説明します。午前中から積み重ねてきたさまざまな留意点、価値判断が反映されているか、必要な要素が見出しに入っているか。提稿部や整理指導部、面担と議論しながら紙面の完成度をあげていきます。

 19時30分、「最終調整会議」です。小木曽陽司編集局長、藤田健センター長、各部の部長が集まって、あす付の紙面はこれでいいか、「泣いても笑っても」最後の詰めです。整理部長の説明を聞き、見出しや写真の扱い、他の面との整合性など意見を出し合います。最終調整が終われば、降版時間厳守に向けて最後の勝負です。整理部長や整理チーフの「あと○枚、降りてない」「ミスないか」「降ろせー」という声がフロア中に響きます。指導部の意見や直しを反映させて、全紙面を無事に降版することができます。

整理記者としての覚悟

 私が入党したのは大学1年生のとき、1989年5月末。1週間後に中国で天安門事件が起きました。「人生の選択、間違ったかも」、率直にそう思いました。大学を卒業し「赤旗」記者に採用されました。1年余り校閲部に所属した後、2人目の女性整理記者として整理部に配属されました。新聞製作で技術革新が進み、整理の分野に女性が進出できるようになった頃でした。整理記者は記事を最初に読み、読者に一番近い記者といわれます。取材記者の思いを受け止め記事の価値判断をし、分かりやすく正しい見出しを付けてレイアウトし1ページの紙面に収めるのが仕事です。


整理部の仕事風景の一コマ
【写真】整理部の仕事風景の一コマ。工場のオペレーターさんに組んでもらっていました。割付を紙に書いていたころ=2001年1月

 1995年1月、整理記者として独り立ちしてすぐに阪神・淡路大震災が起きました。涙を流しながら紙面を組む先輩記者の姿を鮮明に覚えています。「赤旗」の災害報道とはどういうものか、共産党の地方議員や支部、党員の頑張り、国会議員と連携し政治を動かす様子を赤旗記者として直近で見て感じ圧倒されました。ある日、避難所で「赤旗」を読んでいる被災者の方の写真を見ました。その方が食い入るように見ていた紙面は自分が整理記者としてつくった第2社会面でした。誰のために「赤旗」をつくるのか。赤旗整理記者として覚悟が決まった瞬間でした。毎日毎日、大震災報道に苦闘したヒリヒリとした緊張感は記者としての原体験です。その後、20年間、整理記者として生きてきました。そして2014年の第26回党大会で編集センターに異動になりました。

 当番として記憶に残っているのは、2017年3月28日付掲載、「志位委員長が『核兵器禁止条約の関連会議』のエレン・ホワイト議長とニューヨーク市内で会談」のニュースです。広島市出身で祖父母をはじめ多くの原爆犠牲者の「遺族」である私にとって、「日本共産党、すごいよね」とあらためて思った出来事でした。

 しかし、今の日本社会は悲しい出来事が多いのが現実です。御岳山の噴火、軽井沢バスツアー事故、登山講習中の高校生らが雪崩に巻き込まれ8人死亡、オスプレイの墜落、佐賀で空自ヘリが住宅街に墜落、毎年立て続けに起こる豪雨災害等々、大きな災害、事故が起きれば紙面は大変わりします。編集局は緊迫し騒然となります。


 現在、コロナ危機に直面するなかで、日本でも世界でも大激変が起きています。多くの国民の意識が変わってきています。格差の拡大が社会を弱くする、社会的連帯こそが大切、と多くの人が思うようになりました。野党共闘が進化し、「新自由主義からの転換」での一致が現実的になりつつあります。気候変動という地球的規模の危機も存在しています。未来社会を本気で考える若い人たちも出てきています。国民の意識の前向きの変化と響きあい、政治を動かす、「赤旗」記者で本当によかったと心から思います。

 「赤旗」は紙面をつくって終わりではありません。印刷し輸送し配達・集金をしてくれる方々がいて、読者に届き読んでいただいてこそ「赤旗」は輝きます。多くの方への感謝の気持ちを忘れずに、努力を続けます。

(さかもと・のぶこ)

『前衛』2020年9月号から