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赤旗


日本は正しい戦争をやった” 子どもたちにこう思いこませる教育が許されるか

ここに『歴史教科書』問題の核心がある 不破哲三

2001年7月15日



 私は、七月十二日、大阪での演説のなかで、いま大きな国際問題になっている歴史教科書(扶桑社『新しい歴史教科書』)の内容にふれ、「“日本 がやった戦争は立派な戦争だった、その精神で子どもを教育する必要がある”というとんでもない考えをもった人たちが、その精神でつくった教科書です」と述 べました。そして、教科書のなかに、「あの戦争は、日本の安全保障と『自存自衛』のための戦争だった。またアジア諸国の解放が戦争の目的だった」という見 方が実際につらぬかれていることを指摘し、「そういう教科書で教育されて、日本の子どもたちが『あれはアジア解放の戦争だったんだ』と思いこんでしまった ら、どんなことになるでしょう。そしてアジアの国ぐにとの関係はどうなるでしょう」として、中国と韓国の修正要求をしりぞけて、この『歴史教科書』を擁護 した小泉内閣の責任の重大さを告発しました(本紙七月十四日付)。

 この小論では、問題の歴史教科書がこの戦争をどう描いているか、一九四一年以後の歴史叙述を中心に、その内容を紹介し、問題点を明らかにしたいと思います。

開戦のいきさつ

戦前の「ABCD包囲網」論の蒸し返し

 まず、一九四一年十二月八日の対米英戦争はどうして起こったのか――真珠湾攻撃にいたる道筋を、この『歴史教科書』がどう説明しているのかという問題から、検討しましょう。

 戦前の日本の政府・軍部の説明は、「アメリカ(A)イギリス(B)中国(C)オランダ(D)」が「日本包囲網」をつくって、日本を経済的に追い詰めてきた、その「経済封鎖」を打ち破るための「やむにやまれぬ戦争」だった、というものでした。

 ところが、『新しい歴史教科書』は、「〔67〕第二次世界大戦の始まり」の最後に「経済封鎖で追いつめられる日本」という項目をたて、「ABCD包囲網」という、言葉まで同じものを使って、当時の政府・軍部の説明をそのまま蒸し返しています。

 「日本は石油の輸入先を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉したが断られた。こうして、アメリカ(A)・イギリス(B)・中国(C)・オランダ(D)の諸国が共同して日本を経済的に追いつめるABCD包囲網が形成された」(274ページ)。

 石油問題というのは、日本が中国への侵略戦争を継続するために石油を必要としたが、その石油の購入を、アメリカからもオランダからも断られ た、という問題です。それを口実に、それなら、戦争でインドネシアの石油を武力で手に入れようというのが、日本軍部の戦争合理化論でした。しかし、そんな 強盗の理屈は、当時の世界でも通用しませんでした。ところが『歴史教科書』は、その“強盗の理屈”を平気で蒸し返しているのです。

日米開戦の責任はアメリカにある、と言わんばかり

 それにくわえて、『歴史教科書』が強調しているのは、日米交渉を決裂させた責任はアメリカにあると言わんばかりの、日米交渉論です。

 「1941年春、悪化した日米関係を打開するための日米交渉が、ワシントンで始まった。日本はアメリカとの戦争をさけるため、この交渉に大き な期待を寄せたが、アメリカは日本側の秘密電報を傍受・解読し、日本の手の内をつかんだ上で、日本との交渉を自国に有利になるように誘導した」 (274~275ページ)。

 この間、日本は七月に、当時フランス領だったいまのベトナム南部の軍事占領を強行します。いよいよ南方作戦の火ぶたを切ろうと、東南アジア侵攻の 前線拠点を手にいれたのです。『歴史教科書』は、この事実だけは紹介するものの、日米交渉の経過説明では、日本に「強硬な提案を突きつけた」アメリカの責 任がもっぱら強調されます。

 「日本も対米戦を念頭に置きながら、アメリカとの外交交渉は続けたが、11月、アメリカのハル国務長官は、日本側にハル・ノートとよばれる強硬な 提案を突きつけた。ハル・ノートは、日本が中国から無条件で即時撤退することを要求していた。この要求に応じることが対米屈服を意味すると考えた日本政府 は、最終的に対米開戦を決意した」(275ページ)。

 要するに、日本政府は、中国への侵略戦争を正当だとして、中国から撤兵しない立場にあくまで固執したわけで、ここに日米交渉の最大の問題があったのですが、『教科書』の執筆者たちには、日本政府のこの立場を批判する考えはまったくないのです。

「大東亜戦争」という呼び名

緒戦の勝利を喜ぶ

 ハワイ・真珠湾にいた米艦隊への奇襲攻撃。マレー半島上陸作戦とシンガポール陥落、フィリピン、インドネシアの占領――戦争の最初の段階では、日本軍は「大戦果」をあげました。『歴史教科書』は、最大級の言葉を連ねて、この「大戦果」をほめたたえます。

 「日本の海軍機動部隊が、ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋艦隊を空襲した。艦は次々に沈没し、飛行機も片端から炎上して大戦果をあげた。こ のことが報道されると、日本国民の気分は一気に高まり、長い日中戦争の陰うつな気分が一変した。第一次世界大戦以降、力をつけてきた日本とアメリカがつい に対決することになったのである」(276ページ)。

 続いて東南アジア作戦の勝利を、マレー半島上陸作戦からシンガポール陥落まで記述した『教科書』は、その勝利がアジア解放にもたらした意義を、高らかにうたいあげます。

 「ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した。フィリピン・ジャワ(現在のインドネシア)・ビルマ(現在のミャンマー)などでも、日本は米・蘭・英軍を破り、結局100日ほどで、大勝利のうちに緒戦を制した。

 これは、数百年にわたる白人の植民地支配にあえいでいた、現地の人々の協力があってこその勝利だった。この日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ」(276~277ページ)。

「大東亜戦争」――「アジア解放」が戦争目的だから

 『教科書』は続いて、日本政府が、この戦争を「大東亜戦争」と命名したことの意義を力説します。

 「日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した(戦後、アメリカ側がこの名称を禁止したので太平洋戦争という用語が一般的になった)。日本の戦 争目的は、自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し、そして、『大東亜共栄圏』を建設することであると宣言した。日本に続いて、ドイツ・イタリアもアメリ カに宣戦布告した。こうして、日・独・伊に対抗して、米・英・蘭・ソ・中が連合して戦う、第二次世界大戦が本格化していった」(277ページ)。

 これは、ただの歴史叙述ではありません。『教科書』は、真珠湾攻撃から沖縄戦にいたる項の全体に、わざわざ「〔68〕大東亜戦争(太平洋戦争)」 という題名をつけています。つまり、日本政府が命名した「大東亜戦争」という呼び名の方が、この戦争の性格をより正しく表現しているという価値判断を、明 確にくだしているのです。なぜ、この呼び名の方が正確なのか。それは、『教科書』の執筆者たちが、この戦争を、「大東亜戦争」という呼び名にこめられた戦 争目的――日本の「自存自衛」、アジアの欧米からの解放、大東亜共栄圏の建設――どおりの戦争だと考えているからです。

 なお、興味深いのは、当時、日本の戦争目的としてもっとも広く宣伝されたスローガン――「八紘一宇」については、まったく沈黙していることで す。これは、“天皇の支配下に世界を統一する”という意味のスローガンで、神の国・日本が支配者として「大東亜共栄圏」に君臨するという覇権主義をあから さまに示したものです。さすがの執筆者たちも扱いに困って、沈黙をまもることにしたのでしょう。“都合の悪いものは歴史から削り落とす”という執筆者たち のご都合主義を思わず暴露した一例です。

日本軍は東南アジアで何をやったか

 『歴史教科書』の意図をいっそうむきだしにしたのは、「〔69〕大東亜会議とアジア諸国」という特別の項をおこして、アジア解放に果たした日本の役割なるものを、ことさらに前面に押し出していることです。

 「戦争の当初、日本軍が連合国軍を打ち破ったことは、長い間、欧米の植民地支配のもとにいたアジアの人々を勇気づけた」(280ページ)。

 日本の勝利がアジアを勇気づけ、独立の気運を高めたというのは、この『歴史教科書』が、何度となく繰り返しているきまり文句ですが、これほど、歴史の真実から遠く離れた断言はありません。

 日本の戦争目的は、アジアの解放などではありません。これらの地域からフランス、イギリス、オランダなどこれまでの植民地支配者を追い出し て、日本が新しい支配者としてとってかわるというのが、戦争目的で、政府・軍部は、この戦争目的を「東亜の解放」という美しい言葉でごまかそうとしたので す。日本が占領した地域では、日本軍はただちにきびしい軍事支配の体制を敷き、住民の虐殺などの野蛮な行為を、各地でおこないました。たとえば、一昨年私 が訪問したシンガポールでも、占領後間もない時期に、華僑系の数万の住民が虐殺され、その犠牲者を追悼する「血債の塔」が市の中心部に建てられています。

「大東亜会議」とは領土拡張主義の隠れ蓑(かくれみの)

 『教科書』は、この戦争がアジア解放の戦争だったことの何よりの証拠として、一九四三年に開かれた「大東亜会議」をもちだしていますが、これもたいへんこっけいな議論です。

 「日本の指導者の中には、戦争遂行のためには占領した地域を日本の軍政下に置いておくほうがよいという考えも強かった。しかしこれらの地域の 人々が日本に寄せる期待にこたえるため、日本は1943(昭和18)年、ビルマ、フィリピンを独立させ、また、自由インド仮政府を承認した。

 さらに、日本はこれらのアジア各地域に戦争への協力を求め、あわせてその結束を示すため、1943年11月、この地域の代表を東京に集めて大東亜 会議を開催した。会議では、各国の自主独立、各国の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたう大東亜共同宣言が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされ た。これは、連合国の大西洋憲章に対抗することを目指していた」(280~281ページ)。

 実は、この「大東亜会議」は、日本の敗色が明らかになった一九四三年五月、天皇の前でおこなわれた大本営政府連絡会議(御前会議)で決められたものでした。

 この会議では、戦争体制のたて直しのために、占領下の諸地域をより緊密に戦争に協力させるための大東亜「政略」が検討されました。

 この会議では、東南アジア諸国の一つ一つについて、ここは「独立」させるとか、ここは軍政のままにするとかの具体策が決められましたが、それは、 アジアの解放という立場からの検討ではなく、その地域の物的・人的な資源を戦争に動員するのに、どういう形式が適当かという立場で決められた方針でした (「大東亜政略指導大綱」)。

 たとえば、フィリピンとビルマには、「独立」をあたえることがここで決まりましたが、その「独立」とは、「満州国」でやったように、カイライ政府 をつくらせて、アメリカやイギリスに宣戦布告させ、その国の人民を戦争に動員するというのが、実態でした。また、この会議では、「マライ、スマトラ、ジャ ワ、ボルネオ(カリマンタン)、セレベスは帝国領土と決定」する(注)こと、ニューギニア等はこれに準じての扱いとすることなどが確認されました。

 (注)「マライ」は、現在のマレーシアとシンガポール、「スマトラ、ジャワ、ボルネオ(カリマンタン)、セレベス」は、現在のインドネシアとブルネイのことです。

 御前会議は、こうして、東南アジアの大部分を、直接「帝国の領土」とする方針を、公式に決定したのです。

 そして、日本のこうした領土拡張主義を、世界の世論からごまかすための隠れ蓑(かくれみの)として、この会議で開催が決定されたのが、『歴史教科書』がその意義をたたえてやまない「大東亜会議」でした。

 しかし、この会議は、アジア諸国の独立への道筋を明らかにするどころか、「大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂」する(「大東亜共同宣言」)と、戦争協力の一色で塗りつぶされたのです。

アジア諸国は歴史のつくりかえを絶対に許さないだろう

 『教科書』は、「大東亜共栄圏」にもまずいことはあったという言い方で、日本語教育や神社参拝、戦局悪化のなかでの現地の人々の過酷な労働へ の動員などについても、一応は触れています。しかし、それはあくまで、立派な戦争目的の戦争にも、部分的には否定面もあるといった位置づけでの叙述で、戦 争の侵略的性格への批判はまったく出てきません。

 さらに、『教科書』は戦後の変化に筆をすすめ、インドネシアが独立をかちとったのも日本のおかげ、インドが独立をかちとったのも日本のおかげ と思わせる口ぶりで歴史を語ったあと、日本の戦争(日本軍の南方進出)とアジア諸国の独立との関連を、次の文章でしめくくっています。

 「これらの地域では、戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早める一つのきっかけともなった」(282ページ)。

 アジア侵略の戦争を、アジア解放の戦争と言いくるめる――これは、日本の戦争の歴史の、あまりにも極端な、ねじまげです。アジアの諸国民は、 アジアを侵略し野蛮な抑圧の限りをつくしながら、無反省にも、自分をアジアの解放者だと描きだすこのような歴史のつくりかえは、絶対に許さないでしょう。

戦争の最後の時期をどう描いているか

「特攻」も「沖縄戦」も英雄的な戦争叙事詩として描く

 一九四二年のミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦を転機として、日本の緒戦の勝利から、敗戦に向かう日本の敗退の過程が始まりました。

 『歴史教科書』の叙述は、この点でも、きわめて異常です。戦時中の日本では、ラジオのニュースでの敗戦の報道は、必ず「海征かば」の音楽に始 まり、日本軍の英雄的な勇戦奮闘への賛辞で飾られるのがつねでした。『教科書』の叙述も、いわゆる「玉砕」などを英雄的な抵抗戦としてたたえる文章で、す べてが組み立てられています。

 「8月、ガダルカナル島(ソロモン諸島)に米軍が上陸。死闘の末、翌年2月に日本軍は撤退した。アリューシャン列島のアッツ島では、わずか 2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や米の補給が途絶えても抵抗を続け、玉砕していった。こうして、南太平洋からニューギニ アをへて中部太平洋のマリアナ諸島の島々で、日本軍は降伏することなく、次々と玉砕していったのである」(278ページ)。

 この異常さは、「特攻」作戦の叙述となると、すでに異常の域さえこえて、“戦意高揚”をめざした戦争中の軍部の宣伝文句そのままの調子がむきだしになってきます。

 「1944(昭和19)年秋には、米軍がフィリピンに進攻した。……同年10月、ついに日本軍は全世界を驚愕させる作戦を敢行した。レイテ沖海戦 で、『神風特別攻撃隊』(特攻)がアメリカ海軍艦船に組織的な体当たり攻撃を行ったのである。追いつめられた日本軍は、飛行機や潜航艇で敵艦に死を覚悟し た特攻をくり返していった。飛行機だけでも、その数は2500機を超えた」(278~279ページ)。

 この調子は、沖縄戦の叙述にもそのまま延長されます。

 「1945(昭和20)年4月には、沖縄本島でアメリカ軍とのはげしい戦闘が始まった。……沖縄では、鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って、一般住民約9万4000人が生命を失い、10万人に近い兵士が戦死した」(279ページ)。

 この執筆者たちには、「特攻」の悲劇も、沖縄の悲劇も、英雄的な戦争叙事詩の対象でしかないのです。

『教科書』が掲載した特攻隊員の遺書二通

 さらに驚くべきことは、この『教科書』が、この戦争が正義の戦争だと信じて戦死した二人の若い特攻隊員の遺書の全文を掲載して、それを材料の一つとして、戦争の問題を考えるよう、子どもたちにすすめていることです。

 この遺書は、一つは十九歳の青年がまだ会ったことのない妹(おそらく出征後に生まれた妹でしょう)にあてたもので、「マイニチ クウシュウデ コワイダロウ。ニイサンガ カタキヲ ウッテヤルカラ デカイボカンニ タイアタリスルヨ。ソノトキハ フミコチャント ゴウチンゴウチンヲウタッテ ニ イサンヲ ヨロコバセテヨ」(毎日空襲で怖いだろう。兄さんが仇を討ってやるから でかい母艦に体当たりするよ。その時は 文子ちゃんと轟沈轟沈をうたっ て 兄さんを喜ばせてよ)と、カタカナで書かれています。

 もう一つは二十三歳の青年の遺書です。「出撃に際して」と題するこの遺書は、すべてを捨てて「悠久の大義」に生きる、つまり、天皇の戦争に命をささげる意思を、決然たる言葉で語っています。

 「懐しの町 懐しの人 今吾(わ)れすべてを捨てて 国家の安危(あんき)に 赴(おもむ)かんとす 悠久(ゆうきゅう)の大義(たいぎ)に生き んとし 今吾れここに突撃を開始す 《魄(こんぱく)国に帰り 身は桜花(おうか)のごとく散らんも 悠久に護国(ごこく)の鬼と化さん いざさらば わ れは栄(はえ)ある山桜 母の御(み)もとに帰り咲かなむ」

 ここに記された心情には、多くの人の心をうつものがあります。無数の青年たちが、自分としては純粋な気持ちをささげ、この戦争を神聖な戦争――聖戦だと信じて、あの誤った戦争のなかで貴重な生命を失っていったのです。

遺書を通じて、子どもたちに戦争を考えさせる

 ここで、重大なことは、『歴史教科書』が、この二つの遺書に続けて、子どもたちに次のような問題を提起していることです。

 「日本はなぜ、アメリカと戦争したのだろうか。これまでの学習をふり返って、まとめてみよう。また、戦争中の人々の気持ちを、上の特攻隊員の遺書や、当時の回想録などを読んで考えてみよう」(279ページ)。

 執筆者たちは、この遺書を、これまで展開してきた戦争観――日本の戦争は正義の戦争だった、「自存自衛」と「アジア解放」のための聖戦だったとい う戦争観――のしめくくりとして位置づけています。あとから書かれた歴史ではなく、あの戦争を生きた人びとの気持ちになって戦争をとらえてみようというの が、この設問の趣旨ですが、そのためには、聖戦を信じ、その聖戦に若い命をささげた特攻隊員の遺書ほど、子どもたちの心をとらえる力をもつものはない。そ のことによって、あの戦争を聖戦と信じた特攻隊員の気持ちの「感情移入」ができる。おそらく、執筆者たちは、そう考えて、遺書の掲載とこの設問をおこなっ たのでしょう。

 これは、恐ろしい、きわめて危険な打算です。そして、すでに執筆者の思惑通りの「教育」効果があがっている、という一つの事実が、最近の「朝日新聞」に報道されていました。

 「『私が今ここに生きているのは特攻隊のおかげであると思います。日本のために犠牲になって、本当にありがたいことだと思います』

 横浜市の市立中学校で2月、歴史を受け持つ男性教諭(38)が、『大東亜戦争』の学習の締めくくりとして、戦闘シーンを背景に特攻隊員の遺書を朗読するビデオを上映した。その授業で2年生が記した感想文だ。

 『特攻隊が必要のない日本、世界にしなきゃいけない』という感想もある。が、大半は『自分の身を犠牲にした日本の偉人』といった内容だ」(「どうする教科書 採択を前に 上」 「朝日」七月二日付)。

 この記事を読んで、日本の将来、アジアの将来を考えて、本当に肌寒い思いをしたのは、私一人ではないと思います。

罪悪感をすてよ、の呼びかけ

極東裁判は“国際法の根拠なし”

 この『歴史教科書』は、戦後の部分で、その本音をいっそう鮮やかにさらけだしています。

 『教科書』は、「第3節 日本の復興と国際社会」の一項を「〔73〕極東国際軍事裁判」にあてています。その大部分は、この国際裁判には国際法上の根拠がないという、極東裁判批判にあてられています。

 最後の部分では、一応、「今日、この裁判については、国際法上の正当性を疑う見解もあるが、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとし て肯定する意見もある」(295ページ)と二つの対立意見を併記する形をとって、公平性をよそおっています。しかし、これは、検定をパスさせるための形式 的なまとめで、本文で詳しく紹介されているのは、極東裁判を国際法上不当だとする論点だけです。

 「この裁判は、日本が九か国条約や不戦条約に違反したということを根拠にしていたが、これらの条約には、それに違反した国家の指導者を、このような形で裁判にかけることができるという定めはなかった。

 また、『平和に対する罪』は、自衛戦争ではない戦争を開始することを罪とするものであったが、こうした罪で国家の指導者を罰することも、それまでの国際法の歴史ではなかった。……裁判官はすべて戦勝国から選ばれ……」(294ページ)。

 こういう批判を十二行にわたって展開したうえで、最後にわずか三行、両論併記の“結論”部分に移るのですから、『教科書』を読んだ子どもたちの頭 には、極東裁判は、何の根拠もない、戦勝国が勝手にやったインチキ裁判だな、という印象が、深く刻みこまれる結果になる、こういうしかけになっています。

 こうなると、たとえば、靖国神社の参拝問題で、この神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されていることが大きな問題になっても、そもそも“A級戦犯と認定した裁判そのものがインチキなのだから、何を問題にするのか”という議論がすぐ出てくるでしょう。

「自国の戦争に対する罪悪感」を捨てよう

 この『歴史教科書』を書いた人たちの好きな言葉に“自虐(じぎゃく)史観”というものがあります。日本人は、自分の国がやってきた戦争につい て、間違っていた、間違っていたと、自分を痛めつけることばかりしている、それが“自虐史観”だというわけで、外国から持ち込まれた、こういう“自虐史 観”はもう捨てようではないか、というのが、この人たちの国民への最大の呼びかけでした。

 しかし、実際に、他国にたいして侵略戦争などの大被害をあたえた国が、そのことについてきちんと反省するということは、国際社会で生きてゆく ための当然の責任ですし、国際的な責任というだけではなく、その国と国民が、平和と民主主義の精神で自分の道を堂々と歩いてゆくためにも、欠くことのでき ない問題です。その当然の立場を“自虐史観”などと呼んで中傷し、他国を侵略した歴史を偽って“誇るべき歴史”につくりかえようとすることは、真実にも正 義にも背を向けることであって、日本の国民の前途にも、アジアの諸国民との関係にも、とりかえしのつかない損害をあたえるものです。

 『歴史教科書』が、「〔73〕極東国際軍事裁判」の最後に、「戦争への罪悪感」という見出しをたて、次のように書いて、この『教科書』の戦争観の事実上の結びの言葉としているのは、この点で、絶対に見過ごすわけにゆかない問題です。

 「戦争への罪悪感 GHQは、新聞、雑誌、ラジオ、映画を通して、日本の戦争がいかに不当なものであったかを宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判とならんで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方に影響を与えた」(295ページ)。

 “自虐史観”という言葉は使われていませんが、言っている趣旨はまったく同じです。日本の戦争が侵略戦争だったというのは、戦勝国の一方的な宣伝 にすぎない、そんな宣伝の後遺症にまどわされて、自国の戦争に対して罪悪感をもつ必要はない、というのですから、その次に出てくるべき言葉は、そんな罪悪 感はすてて、日本の戦争に誇りをもとうではないか、日本は立派な戦争をやったのだと胸をはっていおうではないか、というもっとも危険な呼びかけ以外にはあ りません。

 問題がこういう性格をもっている以上、子どもたちの教育は日本の国内問題だとして、教科書問題についての関係諸国の要請や発言を、頭から拒否する 態度は許されません。日本政府は、これらの国ぐにの見解に真剣に耳をかたむけるべきです。同時に強調しなければならないのは、『歴史教科書』問題は、韓国 や中国との外交交渉だけの問題ではない、ということです。

 日本の戦争の歴史をもっとも乱暴にねじまげ、戦時中の聖戦論を事実上復活させるこのような戦争観が、日本の教育界で許されるかどうか――日本の政治の全体が、より広くいえば、日本の国民が、いまそのことを問われているのです。

 この問題の国民的な討議のために役立つことを願い、『歴史教科書』の内容のどこが危険かをできるだけ忠実に紹介することを主眼にして、この一文を 書きました。はじめにお断りしたように、今回は、紹介する内容を、一九四一年以降の歴史に限定しましたが、そこにいたる明治・大正・昭和の歴史も、いま検 討してきた「大東亜戦争」肯定論と共通する立場で書かれており、多くの点でその伏線が用意されています。

 これらの部分の検討は、また次の機会に譲りたい、と思います。


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