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日本共産党

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赤旗

説明している理由はどのようなものですか?

その理由などについて自由にお書きください。


 学校における教育活動に支障があると思えない程度でも指導しなければならないことに違和感を感じたが、指導しないとエスカレートすること、また地域住民等からの批判の声が少なからず入ってくる。
 さらに進学や就職で先方がどのように学校を見ているかが分からない以上、慎重な対応をせざるを得ない、という事情から最低限の指導をしていた。

「そもそもルールは誰かが決めて、自分はそれに従えばよいという」ことを子どもたちに教えるだけのようなことはあまりしたくない。

「ルール」に忠実な生徒がほとんどだから。

「自由であるべき学校に、校則や心得など必要ない」というのが本当の思いです。「競争に勝たせる」「見た目を整える」「指導の効率をあげる」などのために、生徒の行動をしばるのが校則です。教師の人手不足・時間不足等、指導の行き届かなさを補うのが今の校則であると考えます。

80年代に就職した(新設のいわゆる困難高)高校では、生活指導がたいへん厳しかった。それに生徒を従わせないと自分の授業が崩壊するとか、学級運営がなりたたない、などの恐怖がドライバとなって、「とにかく言うことをきけ」「駄目なものはだめ」という強硬な態度で生徒に臨んだ。90年代に勤めた二校目は、制服はなく(標準服)頭髪服装に関する指導は緩かった(実はこれが例の●●●高校の前身である。あの事件を聞いて、ここまで変わったのかと驚いた)最初の学校の体制が「デフォルト」になっていた私は大変驚いたが、生徒のものわかりがよいので、まあなんとかなっているのだなと思った。0年代に勤めた実業高校では、校則はあったが、特に積極的にそれを「破る」生徒はおらず、また教養科の教員は「刺身のつま」なので、頭髪や身なりについてガミガミいう必要がなかった。0年代に勤めたのは定時制高校だった。このとき、新採できた教員は、「とにかく立場が上の人のいうことはきいておく」「指導書にかいてあることだけそのとおりに授業すればよい」という人であり(その人は90年代、府立のいわゆる低学力高の出身で、出身校ではやはりずいぶん厳しい生活指導をうけてきた)、わたしは大いに衝撃をうけた。この、なにも考えない若者は、わたしが直接教えたわけではないが、私が教えた世代であり、「長いものには巻かれろ」を内面化させられてきたのだと感じたからだ。私は90年代後半から、からだもこころもはその個人だけのもの、という確信を抱くようになり、たとえば髪の色について教員があれこれ指図をすることは間違っていると考えていた。10年代に勤めていた定時制では、生徒の無力化を進める無意味な校則の強要があやまりである、ということを生徒自身にも理解させるよう努めてきたが、どれだけ理解してもらえたかはわからない。Q5にも関わるが、「校則のおかしさ」を考えさせたかった。

あまりに厳しく、生徒の生活感覚、実態に合わない指導をすることで、生徒との信頼関係が築けず、教育の本質が損なわれてしまうから。

あまり違反する生徒がいない

いわゆる指導困難校から転任した教員が同じやり方に固執していると見ています。

コミュニケーションの入口になる。

シャツを入れることで統一感等納得できる。口うるさく言う教員がしていないことに違和感があるので、自動の前では必ず自分はインしていた。

すでに退職しているので幾つかの高校を思い起こすが、好感の持てるものはあまりない。

する必要はない

そのことで時間をとることがめんどくさい。生徒との信頼関係が崩れると思うし、その生徒自身の尊厳を損なうと思うから。

その指導か学校の規律の維持に繋がっている側面があるから

そもそも、個人の自由を、学校の決まりという、いわば私的なルールに適合させることに違和感がある。生徒自らが話した上で、ルールを考えて、その結果を大切にするようにすべき。

そもそも教員が生徒という尊重される他者の、服装や髪型について述べる権利はない。義務教育、高等教育の間に、そのような指摘を受けて成人してしまうため、また、そのような指摘をする大人(教員)を間近で見続けてしまうため、他者との境界や人権意識の欠如にも結びつき、いじめや容姿いじり等の問題行動(教員も職員室でしている。)を起こせる温床となっている気がする。

そもそも自分も強制されたくないものを、子どもに押し付けたくないから。

それがルールだから

それほど意味を感じない

それを守れてどう育つか根拠に乏しい。 今守れなくても、将来、職に就けば勝手に守るから(守れなければ職を失うだけ)

ツーブロックなどの髪型に対して強い違和感を感じない。指導が入って初めてダメな格好だということがわかる。「するな」と言うのは逆効果だと思う。
子どもの細かい容姿の変化に気が付けるほど余裕がない。指導にかかる時間がない。

どうでもいい決まりを躍起になって指導していると、その生徒たちは大人になっても本当に必要で大切な規範を守れない人間になる。そもそも規範とは何かを考えることすらできないのではないかとわたしは危惧する。

どの子どもも平等で不公平にならないよう突出した行為には指導をしてきた。

とりあえず決まりを守ればいいという風な、機械的な生徒を増やしたくないため。

なぜいけないのか説明しきれない

ペナルティを与えてルールを守らせる指導はおかしいと思っている

みんなにとって、どうなのか、考えさせる。

ルールは守るべきだと思うし、ダメなルールは生徒が変える努力をしても良いのではないかと考えるため

ルールやマナー、規則を守る意識を持つことは将来的に必要だから。

ルールを守ることは大切だと思っているから

安心、安全な学校生活をさせたい

一つルールを緩めたり、見過ごすことで、そなことを指摘、批判する保護者が多いため。また、子供にとっても守るルールが曖昧になることは、良くないと考えるから。

一応指導はしないと守ってる児童が不満がたまるし、仕事してないとみなされる。あえて気づかないふりしてスルーするときもある。児童や保護者の気持ちに寄り添って臨機応変に対応することを心がけている。

化粧をした顔や頭髪の色の変化が区別しにくい。点検や罰則の作業を減らしたい

家庭の事情もあるのかと配慮して

学ぶ権利を含め、生徒の人権尊重が第一だから

学級、学年での歩調を合わせる

学校が生徒の外見に関して口をだすべきではないと思っているから

学校のきまりだから

学校の決まりを守らせることが教師の仕事の一つとなっているから。

学校の中に校則を作っていないから

学校は理不尽を受け入れる場所ではなく、生徒が自由に各々の個性をのばし、人格を形成する場所だと考えるから。

学校全体での共通理解があるから。「甘い」と思われたくない。

学校側が一方的に決めたものだから

学年の足並みを揃えて下さい。甘くしないでくださいと常に言われていた。これでいいのかといつも葛藤があった。

活動する上で怪我や服の汚れ・破けたりすること等、危険が伴うと良くないため。

慣例

危険防止、物品破損の恐れがあるなどの合理的理由があるものは必要だが、そうではないことは必要ないし、児童生徒の自主性を損ねる恐れがあるから。学校の範疇ではないものがあるから。

規則に納得できないから。

規律やルールを明確にすることで、学校生活の見通しを立ててもらうため

京都蜷川府政の自由で育ったから、学びに拘束や教師の征服はなじまない。

強制による指導を体験したこどもは、こどもの社会に力による上下関係を生む土壌になる。これがいじめの一つの原因である。教員は自らの価値観を持ち道理のある働きかけをすると、その効果は大人に対してよりも、こどもに対しての方がはるかに効果的である。

教育的に意味のある理由が見いだせないから。それでも、一斉に行われる服装や持ち物検査は拒否できないし、若い女性の教員には指導力がないと管理職から目を付けられたり、学年の教員から指摘を受けるので全くやらないという訳にも行かず苦しい立場でした。

教員になった当初はこうした厳しい生徒指導を当然と受け入れていたが、生徒の人権を侵害するような指導に疑問を感じるようになり今はそうした指導はしていない。もちろん他の生徒の人権を守るためや安全に関わるような決まりについては指導する。

教員に従う感覚でした。

教師の意見不一致は強く批判された。

教職員が集団で生徒の指導に当たる際、本来は自分の信条にそぐわないものでも従ってしまう弱さが教職員一人ひとりにあると思います。職員会議などで自分の意見は述べましたが、一旦決定してしまうとそれに従わざるを得ないという自分への言い訳です。

教職員の合意に基づいて指導することが重要だと考えるから。生徒の意向や反応は(彼らの同意が難しいケースでも)視野に入れて判断しているという自負があったから。

極端に言えば服装に興味ない。ルーズソックスでも茶髪でも、授業を受けてさえすればそれでよい。むしろ変な校則によって学習権が侵害されてしまうほうが問題

勤務校にはそうした校則がなかった

決まりは1つの基準であり多くの人が受け入れやすい姿であると伝え、本人の考えを聞きながら指導している。目が隠れるなど不健康になるものについては止めるように促す用にしているから。

決まりはなくても良いと思うが、それがないと守れない子もいるから。決まりだからという理由ではなく、なぜダメなのかを伝える。

決まりを守らせるだけでは自ら考える生徒を育成できないから。

決められたルールは守るべきである。

憲法に基づいて教員となっているので、憲法の精神に反した指導は遵守義務に反しているから。

厳しいルールと守ろうとしない生徒を前に、何をどう改善すれば良いのかわからなくなっている。

厳しく指導して学校に、来れなくなったら子供の、学ぶ権利を侵害してしまうから。

個人としては時代にそぐわなく、納得していない決まりが多いから。

個人の自由を最大限に尊重すべきと考えるため。また学校が生徒個人のプライベートまで介入し管理することは権限の逸脱だと考えてるため。

個性を認めたい

公共の場での振る舞いについて考えるきっかけにしてほしいので。

校則がありません。

校則が就職活動にダイレクトに結びついている。理解できないわけではないが、生徒が自分で考え判断するのを見守り、彼らの自己肯定感を育むことの方が卒業後の仕事や生活につながるのではと思う部分があります。

校則で生徒をしばる意味がわからないため、裁量のある部分はなるべく緩くしている

校則というほどのものはない、社会生活におけるマナーくらいだから。

校則としてではなく、どうあるべきかで。どうしても認められない場合のみ。

校則についての疑問があると積極的に指導できない。自分も髪を染めているのに生徒にするなとは言えない。

校則には、ほとんど理由がなく、説明できないことを守らないと指導することはおかしい。また、生徒が校則について意見を表明する場がなく、校則を変える手続きも決まっていない。公民で教えるルールの原則を満たしていない。
頭髪や服装の指導があるために、会議や保護者の説得などに膨大な時間を使っていて、本来の業務に時間を割けない場合もある。 決まりを守らないから行事に参加させないなどの指導を繰り返しても、生徒は反発するだけで成長しない。生徒と対話して、生徒と一緒に考えることで、生徒も考えるようになり、妥協点を見出したりするようになる。

校則に明らかに違反しているというケースが最近は見られないから。

校則の内容に疑問を抱く規定もあるうえ、それを生徒に有無を言わせず強制することに疑問を感じるから。

校則はあるが、特に理不尽な内容は含んでいないと思う。

校則は手段です。目的はよりよい人格を育てるためです。残念なが真面目な先生が手段と目的を取り違えていることが良くありますね。

校則を取り締まるのは人権侵害だと思うので

校則違反をする生徒があまりおらず、必要がない。していたとしても合理的な理由がある。

校則指導は、果たしてその中身について教員がどれだけ自分の言葉で納得させられるか、学生側も『これはおかしい』といえる立場にある関係があるかどうかにかかっていると思う。残念ながら、現状は教員に権力性が偏っている。

校長に社会性が乏しい。

校務分掌などで必要に迫られて行った

合理的でないと感じる校則が多い。スマホの使用禁止など、時代にそぐわないものがある。生徒個人の権利や自由を侵害していると感じている。

合理的な根拠がない決まりの強制は納得出来ないから。

根拠のない、理由が説明できないものは、責任を持って指導できません。

再任用になる前は仕方なく行っていた。あまり意義を感じなかったし、教科指導の方が大事だと思ったから。

細かく決めすぎる校則、ルールは窮屈で私は息苦しさを感じる
不都合があればその都度、子どもと考えればよいと考えているので、ルールを守らせる指導には積極的に関わりたくない

昨年度まで、生徒指導規定をゼロトレランスと言っていた。違和感がありすぎるので今年度から反対意見の高まりで、呼称を廃止。

子どもに不利益が生じると判断した場合には、生徒指導を行う。教師や学校に合わせるために型にはめるような生徒指導は行わない。

子どもの権利条約が出された頃て守らないといけないと感じた。

子どもの自主性を重んじるべきだから。

子どもの人権に関わることだから

子ども自身や保護者が判断・決定することだと思っていたからです。

子供が納得できる決まりはきちんと説明したり話し合ったりしているが、そうでないものを守らせることには違和感しかない。

子供の権利を侵害していると感じる

指導がバラバラになると混乱を起こす恐れから。

指導をしないとダメな教員だと周りに思われるから。

指導をするポジションではないから

指導力がある教員として上司に認めてもらうために、仕方なく指導している。

私たち教員の中でも、「時代にあっていないよね」と共有することがあります。

私の意見は多勢に無勢でした。

自分で納得できない理不尽な決まりを生徒に指導しにくい

自分の意志とは異なるが、学校全体で取り組むため。

自分自身が疑問や、納得いってないのに対しては、怒らなくていい

自分自身ほとんど制服も校則もない学校で、金髪でボロボロのジャージと便所サンダルで教室に通う高校生活を送った為、そもそも身だしなみが学力に反映される事には懐疑的であるから。

自由でいいのではと思うときがある

社会にでて何の役にも立たないから。校則に合理的理由が全くないから。

社会に出ても、おかしなルールはたくさんあってそれも守らなければならない。だからといって、おかしいものをただ守るだけの人間にはなってほしくない。自分達でよりよいルールを作っていく姿勢を育てたい。

社会に出て本人が不利益を得るから、という理由で指導される先生もいて、なるほどと思う反面、それなら自分でそう思った時に直せば良い、そして社会は変わっていく、その主役は生徒達なのだから、強制的に直させるのは何か違うと思うから。

社会的に必要なルールは、学級で指導すべきと考えるため。

若い教師が厳しくて、自由に考えさせるなんて雰囲気でない。

弱い立場の生徒が多い学校なので、教職員の一致した行動が必要だった

主幹教諭の立場上。

周りの教員の目が気になる。

職員として、職場のルールには従う。それが嫌なら、辞めればいいのだか、そこをメインに教育をしているわけではないので、自分の中ではバランスを見て、やっている。

職員会議で、話し合いますが、結局同じような結論になってしまい、決めた事は、やらざるをえない。

職員会議や、学年部の話合いなどで、疑問を感じる校則については、異議を唱えていた。

職場で孤立したくないから

心に制服を着せることはできません。 権力で生徒を縛れないのです。 生徒の内発的な要求・期待を引き出す教育活動こそが教師の仕事だからです。

心の中ではどうでもいいと思っているが、守っている生徒の手前、守っていない生徒に声を掛けてている

人格の豊かさには関係ないように思えるから

人権侵害はだめ。法律以外で困ったことがあれば、生徒と教職員の話し合い。生徒が納得するまで話し合えばいい。話し合いがまとまらなければ、それまで。いなかる強制はできない。

整合性のない校則や決まりを守る必要性を感じないから。

生活指導の足並みを乱すことになり、同僚から白い眼で見られる。

生徒、教職員とざっくばらんに話すことに「当たり前」の人権があります。

生徒との人間関係により、悪化させる場合もあるので、関係性重視で行っている

生徒と話すなかで、その思いに共感したので

生徒に校則についての意見を十分に聞けていない。教員の生活指導の困難さを知っているが故に、指導しないということはできない。生徒vs教員という構図をつくってはいけないと思っている。生徒たち自身で生徒会を通して校則を変えることを説明、双方が快く運用する校則を考えていきたいから。

生徒に説明できないこと。生徒の自主性を育てたいこと。従わせる教育ではなく、納得のできないことはには抗議し、より良い社会の形成者としての主権者を育てたいから。

生徒の外見だけに目がいく指導は本質から目を背けることになり、おかしいと思うから。教師としてやるべきことは他にたくさんあるはず!

生徒の気持ちもおおいに理解できるから

生徒の信頼関係が壊れる

生徒の人権を踏みにじる指導をしたくないから。また、根拠のない指導をしたくないから。

生徒の表現の自由は尊重されるべきという人生観のようなものがありますが、一方では職場の合意は尊重すべきというジレンマがあります。

生徒の表情をはじめとして見ることや語りかけを大切にしているから!

生徒指導の指導担当だったから

生徒指導を担当させられたため、立場上、指導せざるを得なかった。違反をしている生徒を見ても、見逃した方が教師にとって本当は「楽」。

生徒指導主任だから

生徒指導主任やベテランの教員が言っているから

生徒指導部の分掌に所属すれば率先せざるを得なくなる。管理が先行すれば生徒との信頼関係を結ぶのに困難を生じる。 前記に記載したことにつきる

全てが正しいとは思えない。服装の乱れは心の乱れの始まりとは考えていないので

全体の雰囲気に忖度

組織としての基準

組織の一員であるため

他のクラス担任と比較されるので、教師としての指導力が問題にならない程度に、生徒指導を行っていた。しかし、校則違反など、問題を起こしてしまう生徒を多数、担任していた時は、日々、激務であった。

他の学年、他のクラスがやっているのに、自分だけそうしないわけにはいかない。

他の生徒に危害を加えるような行動がないから

他教員の目が気になるから

他人に迷惑をかけるものでもないし、機能性や個人の体調、心の調子に合わないものを 無理やり統一する必要を感じないし、統一することで、自分で考えない人を育ててしまうと思われる。

多くの教員が人権を理解していない。憲法を読んだことがないのだろう

対象の校則が本人にとって有意義なものかどうかの吟味が必要。本人の受け止めも考慮。

担任以外の教員には服装指導をするよう言われていない

秩序維持

中には安全上の理由などから、きちんと守らせたい決まりもあるからです。

怒りたくないが、職場の同調圧力があり、仕方なく指導している。

頭髪や着るものは生徒の判断に任せるべき。人権を守るべき学校で罰則などとんでもない。

特に、頭髪や服装に関する校則を守らせきることに、意味を見出せないから。

特に身だしなみ指導は目に見えて、出来るか出来ないか分かりやすいもの。教員側もその点成果が見えやすく積極的に行いやすい。しかし、身だしなみを守らせることの本質的な意味はさほど無く、合理的な理由も特に生徒に説明出来ないため、仕方なく行っているのが現状である。

納得いくものは指導するが、疑問のあるものについてはスルーしていた。

納得できていない。時代にあっていない。

納得できるルールと納得できないルールが混在しているため

髪型や服装を規定するのは変だと、いつも思っていました。なぜならそれは表現であり人権だからです。ただ、小学生が髪を染めることについては、染料の皮膚に与える害について説明してやめた方が良いと言ったことはありました。

犯罪にならない範囲や、他に迷惑をかけたり、友達との関係が悪くなるなどの悪影響はないと感じているから。

必要な部分もあるから

必要性をしっかり説明できないことについて指導はできない。

服装などの指導よりも、教科指導に時間を割きたい。

服装など保護者の責任の部分が大きいから

服装や頭髪のことをうるさく言うと、大事なことを見落とす気がしていた。

服装検査は一斉検査なので、担任が自分のクラスの生徒の違反を出席簿でチェックしなければならない。

服装自体、自由だった気が。小学部だったし。

服装髪型に関する校則は憲法違反、子どもの権利条約違反、人権侵害だから。

方針とあまり逸脱すると真面目に取り組もうとする組織、個人の邪魔になる。例えば挨拶など。
その学校生徒の平均レベルを体感して見なければ伝えられないと思う。いくら偉い人が視察しても伝わるはずもない

法的根拠があいまいなまま生徒の人権を侵害してしまうから。

本人が学習に集中できるようにするためで、学校全体で授業を成り立たせるため、

本当は服装頭髪は 自分で判断するものだから

本当は服装頭髪は 自分で判断するものだから

未来ある子ども達は勿論、自分の人生も一度っきりなので悔いを残さないよう心掛けてきた(ている)

無意味に感じるので。参加する意義や学習権の方が大事に思うので。

命にかかわる事や暴力については厳しく指導した

命に関わる重大なこと以外は細かなことは言わず、子どもの判断に任せていた。

面倒

目立った児童はいなかった。 余り役に立たない

例えば靴下の色が校則違反でも、学業、学校生活には支障がない。キンキンの茶髪などは下品なので指導。
指導が緩いが校長から何も言われないか?と生徒から質問あったりもしたが、チンケな服装等は指導するが常識的な服装等では学業に影響ない、などと説明しクラスや生徒とも話す中で違反は減ってきて、チンケな服装等は皆無になった。

例外を作ると、他の教師から非難される

話せばわかる