ジェンダー連続講座 「男子の性」の社会的課題

党ジェンダー平等委員会は、7月25日、池谷壽夫さん(了徳寺大学教授、『人間と教育』前編集長)を講師に「男性のためのジェンダー入門――男子の性の社会的課題」と題して、ジェンダー連続講座(第3回)を開催しました。57名(会場39名、オンライン18名)が参加しました。
 
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議論の前提―現代資本主義、新自由主義と、ゆがんだ「男性性」との関係

 
池谷さんははじめに、「現代資本主義は、人種、障害、性自認・性的指向に関わりなく、あらゆる人々の能力を『多様性』の名のもとに搾取しようとする」とのべ、その搾取の仕組みの中に「ジェンダー秩序」が組み込まれており、よって現代資本主義のもとで、男性は基本的に女性に比べて「ジェンダー秩序利益配当」(男であるだけで社会的・文化的・経済的に得をすること)を何がしか得ていることを、議論の前提として押さえました。
 
また、とりわけ新自由主義は、「自己責任」を強調し、個人に対して「自己ケア」「自己実現」「自己啓発」「自己統治」に自らいそしむ「企業的個人」であることを要請し、同時に、社会の安定を図るために、「企業的個人」を背後から支える「ケア」を担う「保守的な家族」を必要とすると説き明かしました。
 

産業構造の変化と「男性の危機」

 
続いて、大量生産・大量消費を基調とする製造業を中心にした大工業から、知識情報・サービス中心の社会へと産業構造が変化したことが、男性に求められる能力と所作を変えたことを説明しました。もっぱら女性に求められて来た、社会的に好感が持たれるよう自らの感情表出を訓練・コントロールする「感情労働」が、男性にも求められるようになるなど、男性に期待される「マスキュリニティ(男性性)」の要素も変化してきました。それが、きわめて不十分な男女共同参画社会基本法の下での女性の社会的進出に対して、男性側が「男性の既得権がおびやかされる」、「むしろ男性の方こそ被害者だ」などといった不安や怯え、不満を呼び起こす土台になっていると指摘しました。
 

幼児期の「ケアする男性モデル」の不在と、中学・高校でのジェンダー規範の押しつけ

 
さらに、男性の「自律」を妨げる社会構造として、池谷さんは「子育て・教育における『ケアする男性モデル』の不在」をあげました。子どもたちは、幼児期には、女子的な属性とされる「きちんとしている」「おりこうさん」「静かな」「素直な」などの言葉によって評価されるため、「男の子らしさ」を求めるメディア文化の下で、「男の子らしい」行動をとろうとすれば、「だらしない」「おばかさん」「乱暴」「わがまま」などのマイナスの評価を受けがちです。一方、自己形成が進む中学・高校では、一転して競争主義が蔓延します。特にジェンダー規範を押し付ける制服などの校則や、業績主義・個性化競争を通して、男子が抑圧されてきた「男性性」が一気に解放され、「他者との競争に勝つ」ことに自らのアイデンティティを求めがちとなり、「男である」ために「女性的なもの」を排除、否定していきます。
日本では年齢と発達に沿った科学的な性教育とジェンダー教育がないため、特に男子は性の情報源としてインターネットやアダルト動画に頼りがちな現状や、LGBTに対する態度が女子よりも消極的であること、伝統的なジェンダー規範へのとらわれが女子よりも強いことなどがデータに表れています(資料参照)。しかし一方で、男女関係となると、女子の方が男子よりも伝統的なジェンダー規範(「男性は女性をリードするべき」など)にとらわれていることもわかりました。
 

相互の対話を通じて新たな男性像の模索を

 
ジェンダー秩序において男性は「ジェンダー秩序利益配当」を受ける優位な位置にありますが、同時に、男性が「優位であるがゆえの被害」を受ける存在でもあることにも目をむける必要があります。欧州などでは、「“トラブルメーカー”としての男性像から“トラブルを抱える者”としての男性像へ」という認識の転換の必要性が議論されています。
ジェンダー平等後進国日本においては、男性が“トラブルメーカー”(加害者)へと仕立て上げられていき、他方で女性が被害者となる社会的な構造があること、そのもとでの国際的水準での包括的な性教育の欠如と、新自由主義的価値観(自己責任論)の蔓延が、性別・性自認にかかわらず個人の尊厳を侵害し続けていることを認識し、ジェンダー不平等を再生産する現状を根本から変えていくことが課題です。そのためにも、人々が互いに対話を始めること、それを通じてお互いの被害や加害の体験を率直に語り合うことで、お互いの状況を理解しあい、新しいジェンダー規範を模索しながら、お互いに安心して生きることができるジェンダー平等なホームと社会を構想していくことが求められます。そこに立ち現れる新たな男性像として、「ケアリング・マスキュリニティ」(子どもの子育て・教育に関わるだけでなく、対人関係においても相互にケアし合うイメージをもった男性のあり方)が提示されました。
 

質疑応答と感想

 
質疑応答では、「(性教育が不足する現状での)性との肯定的な出会い直しの経験や工夫について」や、「人間の生活圏(家庭と労働)で、青年期の解体について、関心が広がりました。現代の青年期のあり方について学んでいきたいと思いました」など、熱心なやり取りがありました。
 
感想では、「女性の問題を主にとりあげられるジェンダーですが、男性の意識、環境が変わらないと真の解決がないことも確か」、「うちの中学1年生男子をどうみたらよいのか、まさに現在進行形の私の悩み、葛藤を考えるうえで参考になりました」、「男ばかりの子育てなので…彼らのしんどさを知らず、女性側の思い?だけを伝えていったら、きっとつぶれるなあと思って、男でいることのしんどさがいったい何か知りたくて参加しました…先生の言っていた男性の被害性についても目をむけなければ、本当のジェンダー平等を子供たちに伝えられないと思いました」、「男性社会の中で生きづらさを抱えている女性との関係でどう考えたらいいのかは、励ましが欲しかったです」、「まさに自分のことだと思った。自分の時はポルノや先輩からの入れ知恵しか身近になかった。科学的で人間を大切にする立場からの性教育が本当に欲しかった」など、それぞれの立場に引きつけた多様な感想が寄せられました。
 
後日、池谷さんより、「感想を読んで考えたこと」とのリプライが届きました:
 
今回の話では、男性の加害性よりも自立・自律の問題に焦点を当てましたので、男性の加害的側面は触れませんでしたし、女性が自律するうえで抱える問題には一切触れませんでした。
 
そのうえで言えば、男女ともに社会的に自律し、一人の市民として社会や政治に参加できるように援助するシティズンシップ教育や人権教育がとくに日本では必要だと思います。もちろん、そのためには、自主性をくじき強制を強いる学校教育のあり方を、子どもの権利条約にもとづいた子どもの人権を保障していくことで変えていく必要があります。
 
また同時に、新自由主義的な人間観とは違う対抗的な人間観や文化観を実践の中から紡いでいく必要があります。私は、『人間と教育』98号で「新自由主義に対抗する教育実践と新たな人間観・教育観を!」を書き、そのなかで私たち人間は根源的に「脆弱性(vulnerability)」を抱えているがゆえに、他者に依存し合い、相互にケアし合う存在であり、自律とは相互に依存し支え合う関係のなかで自律していくという人間観を提起しました。したがって新自由主義が求める「自己責任を負う自立した強い個人」は幻想であり、まさにイデオロギーであり、現実と矛盾していますし、それをとくに男性に強いることは、男性のマスキュリニティをいっそう強化することになり、男性の暴力性を増幅させていくことになるでしょう。この新自由主義的な人間観を克服することは、男性問題に取り組むうえでも必須の課題なのです。
 
※【訂正】当日の資料PDFのP6のグラフの注で、就業者数が男女とも3732万人になっていますが、女性の就業者数は2992万人です。
 
【動画はこちら】 ※冒頭、録画ミスで、開始の数分後からとなっています。
 
【当日のパワーポイント資料はこちら】

 

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