2005年2月20日(日)「しんぶん赤旗」

旧日本軍の大量虐殺 中国・平頂山事件

銃声と叫び声 いまも夢に

「人間として尊重を」

控訴審で生存者の楊宝山さん


 日本軍がアジア各地に侵略した戦争の終結から六十年。いまもなお、戦争被害者は人間としての尊厳回復を求めて裁判をたたかっています。十八日、その戦後補償裁判のひとつが東京高裁で結審しました。いまから七十三年前に起きた平頂山(へいちょうざん)事件の控訴審です。国の責任を問う被害者の思いとは―。

 本吉真希記者


写真
生存者の楊宝山さん

 控訴審最終弁論が開かれた東京高裁。この日のために来日した生存者の楊宝山さん(83)が意見陳述しました。当時十歳。事件で父、母、五歳の弟を亡くしています。

 「写真を撮ってあげるから」―。日本兵のこの言葉に集まった平頂山の村民約三千人。日本軍は無差別に銃撃し、生存者を銃剣で突きました。遺体にガソリンをまいて焼き払い、ダイナマイトを爆発させて証拠隠滅を図りました。事件が起きたのは、日本帝国主義が中国東北地方に侵略戦争を開始した「満州事変」の一年後。「抗日」運動が激しさを増したさなかの一九三二年九月十六日のことでした。場所は中国東北部の遼寧省撫順市の平頂山です。

 楊さんは当時の様子を語りました。「写真撮影は初めてのことだった。うれしくなって父母の手を引っ張って行った」

カメラと思った

 住民は、がけ下の平地に集められました。「住民でいっぱいだった」と楊さん。そこには黒い布でおおわれた物が十数台ありました。カメラだと思った楊さんは「写真機の近くでよかったね」と父に話しました。父は黙ったままでした。

 一人の日本兵が軍刀を振り上げました。機銃掃射の合図でした。「黒い布がサッと取り払われ、すぐに火を噴いた。黒い機関銃だとわかった」

 楊さんの母親はすぐに楊さんをかばい、伏せました。父親は弟を引っ張り、逃げようとしました。周囲は叫び声と泣き声、銃声の音で充満しました。「私は母の胸の下で母を繰り返し呼んだ。そのときは小さな声で返事が返ってきた」。しかし二度目の機銃掃射のあと、返事が返ってくることはありませんでした。

 「母から滴り落ちてくる血が私の顔をぬらし、口に入った。しょっぱかったので血だとわかった。母が死んだのだと思った…」

 いまでも当時の夢を見て、つらい思いをする楊さん。平頂山にある遺骨館は当時のままです。おびただしい人骨が身を寄せ合うように折り重なっています。口を大きく開けた人骨。小さな胎児の骨が母親の腹部に残ったままのものもあります。

国の責任を問う

 楊さんはいいます。「物いわぬ遺骨のなかに肉親がいるかと思うと、止めど無く涙が流れてくる。生き残った者として犠牲者の無念をはらす責任がある」

 国はこの虐殺行為を否定し続けていますが、一審判決は虐殺の事実を認めました。しかし、「当時は国家賠償法がなく、国は責任を負わない」として、請求を棄却しました。

 最終弁論に立った川上詩朗弁護士は「人間の価値の尊さに違いがあるのか」と裁判官に迫りました。そして、一枚の幼児の写真を掲げていいました。「日本軍は殺す意思をもって、この幼子を銃剣で刺殺。そのまま空中に放り投げた。明確な殺害行為だ」。この幼児は原告の方素栄さん(76)の当時三歳の弟です。「一人の人間の価値は、明治憲法下でも日本国憲法下でも、違いなど全く無い」。国の不法行為の責任は当然問われるべきだ、という主張です。

 楊さんは最後に裁判官へお願いしました。

 「遺骨館に足を運んでほしい。自らの目で白骨を確かめてほしい。一人の人間として尊重されなければいけないのは、どこの国の人間もみな同じです。事実と向き合い、正しい判決をしてください」

 五月十三日、判決がいい渡されます。



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