2005年1月8日(土)「しんぶん赤旗」 インドのボランティア学生放心の住民励ます大津波で死者6000人南部ナガパティナム地区
【ナガパティナム(インド南部)=小玉純一】インド南部タミルナド州の州都チェンナイから南へ約二百キロ、インド洋に面するナガパティナム地区。海岸線全域が大津波に襲われ七十三の村が被災。地区全体で死者は六千人に達しました。災害の傷あとは、いまも生々しく残っています。
被災直後は犠牲者の遺体でいっぱいだった浜辺には、波に運ばれ家に激突した漁船がいまもそのまま。海岸地帯はがれきが散乱したままで、無数の遺体を埋めたという砂浜で、漁師たちが放心したように座りこんでいました。 そんな中で、村人たちを励ましながら、復興支援のために活動するボランティアの若者たちの姿がありました。 州内各地から支援にかけつけたインド共産党(マルクス主義)、インド学生連盟の活動家、学生たちです。 ナガパティナムの町に近い海辺の避難所の前では明るい笑い声があがっていました。声の主はボランティアの学生たちに遊んでもらっている被災者の子どもたちです。
三人の子の母・サラスさん(35)がいいました。「子どもたちが笑顔をなくさないでいてくれて、私も励まされます。学生のみなさんが来てくれてとても助かっています」 避難所には八十四家族が寝泊まりしています。子どもは五十人。「自分たちの家にいつ戻れるのか分らない」といいます。ナガパティナムは漁業の町ですが、農民も多く住んでいます。しかし、周辺の農地は海水をかぶって耕せなくなってしまったといいます。 学生のルタバラティさんは、タミルナド州南部の町から十時間電車に乗ってやってきました。 「子どもたちは最初のうちは寝こんだままだったり、ただうろうろしているだけでしたが、間もなくうちとけました。かくれんぼをしたり、歌ったり。笑顔が戻ってきました。私も励まされています」 津波被災地でがんばるボランティア学生死を考えた。でも、やっと元気ボランティア学生の一人、ダルシニさんと海岸沿いのセルトゥル村を訪ねました。ダルシニさんの姿を認めた一人の女性が手招きします。デバラジさん(36)です。「この人と話してやっと元気が出たのです」とダルシニさんの手を握りながら記者(小玉)に語りかけました。 3歳の娘亡くし
デバラジさんは三歳の末娘を亡くし、何も食べられませんでした。死のうとも思いました。しかし、そこへダルシニさんたちがやってきて、励ましてくれたといいます。 学生たちはこの村で、まず小学校を片付けました。そこが被災者のための避難所となりました。そして、いまは政府支援による食料配布、炊き出しが行われています。 被災者は村のがれきをかたづけ、家の泥の掃除を始めていました。学生たちがその作業を手伝っています。 しかし、その一方で、浜辺で車座になって黙って酒を飲む漁師たちの姿がありました。「あの人たちには近づきにくいのです」とダルシニさん。家族や船を失った悲しみから少しでも逃れたいのでしょうか。彼らが座る砂浜にはたくさんの遺体が埋められたばかりでした。散布された消毒薬の白さが目にしみます。 住民によると、この村の死者は百五十七人。住民の一割です。被災直後、砂浜は遺体でいっぱいだったといいます。 行政機関も感謝タミルナド州のインド学生連盟は、津波直後から被災地救援活動を開始。とくにインド民主青年連盟と協力して行った遺体処理は地元の行政機関からもとても感謝されています。 学生連盟のダミーン・アンサリ同州副代表によると、同州の六つの地区にセンターを設け、常時百五十人以上が救援活動に参加しています。 チェンナイでは被災直後の十二月三十一日、五十人が市内を練り歩いて募金活動を行いました。被災した子どもたちの勉強道具を援助する計画だといいます。 タミルナド州は人口六千二百万人のインド南部の大県。ナガパティナム地区の大部分は農漁村地帯です。地区行政機関の説明によれば、被災した海岸線の七十三の村全体で、死者は六千三十二人。牛五千二十三頭が死にました。漁業被害が甚大です。避難所暮らしの人は、五日現在九万一千人です。 地区中心地ナガパティナムの町から近いアカライペタイでは、陸に打ち上げられた漁船を大型クレーンでトレーラー車に載せる作業が始まっていました。(インド南部・ナガパティナム=小玉純一 写真も) |