現場Note

長崎・被爆遺構――「語らぬ語り部」継ぐ人

nagasaki1L.JPG

写真部 佐藤研二

 75年前、長崎市に投下された原爆の熱線と爆風のすさまじさを物語る遺構の数々は、平和を願う市民が守り、受け継いできたものでした。

 爆心地から約800メートルの至近距離で被爆した山王神社(坂本町)。当時、秒速200メートルもの爆風で「二の鳥居」の北側の柱は倒壊し、境内に並ぶ2本のクスノキも幹から裂けて黒焦げとなりました。

 「なんとか枯れずに、このままでいてほしい」。宮司の舩本勝之助さん(78)は静かに巨木を見上げます。

 町内で世帯全員が無事だったのは、舩本さん一家だけでした。「当時私は3歳。たまたま防空壕(ごう)に残っていて助かりました」。戦後、舩本さんは二の鳥居とともに、よみがえったクスノキを「人々に希望を与える」象徴として守り続けます。

 樹齢600年の老木を維持するためにかかる多額の治療費は、地域住民が「守る会」をつくって募金集めに奔走。長崎出身で被爆2世の歌手・福山雅治さんもファンに保存を訴え、2018年に長崎市は被爆樹木の保存費にあてる「クスノキ基金」を設立しました。

 舩本さんは「私はクスノキや鳥居を『語らない語り部』と言っています。原爆の恐ろしさを、見る人それぞれが自由に感じ取ってほしい」と言います。

nagasaki2.JPG

 都市開発や遺構の劣化が進むなか、市は1990年代に137の建物や樹木を被爆遺構に指定。2016年には二の鳥居はじめ浦上天主堂旧鐘楼(しょうろう)、旧長崎医科大学門柱、旧城山国民学校校舎が国の史跡に指定されます。

 市内の遺構や原爆資料館で15年間ガイドを務めてきた内田武志さん(75)は「国や自治体の支援は大事ですが、市民の『残したい』という思いや運動は欠かせません」と保存の歴史を振り返ります。

nagasaki3.jpg

 浦上天主堂は原爆ドームと肩を並べる遺構として、市民や議会あげた保存運動が進められましたが、1958年に建物は解体。一方、旧城山国民学校校舎は保護者や地域住民らの運動が実り、99年には児童の発案で被爆校舎が平和祈念館として保存・公開されています。

nagasaki4.JPG

 内田さんは語ります。

 「長崎には、多くの朝鮮人や中国人が犠牲となった長崎刑務所浦上刑務支所跡や三菱兵器住吉トンネル工場跡など"加害"の歴史を示す遺構もあります。それぞれに刻まれた物語を、ぜひ見て、感じてほしいですね」

nagasaki5.JPG