(写真)安保3文書改定に向けた防衛省資料。PTSD対策が明記されている
(写真)戦争トラウマについて話す黒井秋夫さん。左の写真は黒井さんの父・慶次郎さん=東京都武蔵村山市
戦場で過酷な経験をした兵士が、悪夢やフラッシュバック、家族への暴力、無気力などに苦しむ「戦争トラウマ」―。政府は、自衛官が凄惨(せいさん)な戦闘に長期にわたって従事し、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症することに備え始めています。一方、戦争トラウマを抱える元日本軍兵士の子や孫の世代からは疑問の声が上がっています。
継戦能力の一環
「海外派遣や訓練などで現にPTSDで苦しむ自衛官を治療するのは当然だ。ただ、『継戦能力』と言って、兵士を戦場に戻すためにPTSD対策をするのはおかしいのではないか」
戦争トラウマが世代を超えて連鎖している問題に光をあて、当事者が語り合う場をつくる「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」の黒井秋夫代表(78)は首をかしげます。
防衛省は、年末に改定する安保3文書に、「継戦能力の強化」の一環として、PTSD対策を盛り込む方針。2027年度予算の概算要求にも戦時におけるPTSDへのケアを行う「傷病者復帰体制」の整備費を初めて計上しました。
背景にロシアによるウクライナ侵略の深刻な実態があります。防衛省資料は「ウクライナ戦争でPTSDの有病率は67・4%と報告され、退役後の薬物乱用や自殺、家庭崩壊、暴力など長期的な公衆衛生上の危機に直面するリスクがある」と強調しました。
数十万人が経験
「有病率67・4%」という衝撃的な数字は、25年11月に国際的な精神医学誌に掲載された論文で明らかになりました。ウクライナ軍の兵士590人を対象にした調査で全体の67・4%がPTSD、そのうち3分の1が「複雑性PTSD」との診断。複雑性PTSDは▽感情がコントロールできない▽自身に否定的な概念を持つ▽対人関係に困難が生じる―といった症状があり、回復が難しくなります。トラウマとなる状況が長期間続いた場合に発症するとされています。さらに、全体の約3割がうつ病でした。
同論文は「数十万人の兵士や退役軍人が重大な心的外傷後ストレスを戦闘で経験している可能性がある」と指摘。課題として、軍に所属する臨床心理士の不足などをあげました。
黒井さんの父も生前、戦争トラウマを抱えていました。「旧日本軍も砲弾病(現在のPTSD)をひそかに治療していたが、目的は戦場に送り返すことだ。兵士の家族の願いは心穏やかに帰ってくることなのに」
トラウマの影響 3世までも
戦争回避の外交こそ
アジア・太平洋戦争で旧日本軍は約700万人の兵士を戦地に送りました。陸軍の戦傷病者のうち約67万人が「精神病・その他の神経病」とされ、旧国府台陸軍病院(千葉県市川市)に約1万人を収容しましたが、その存在を隠し、表向きには「皇軍に軟弱な兵士はいない」として、心を病んだ兵士の存在を否定。そのため、詳しい実態はいまだに分かっていません。
傷痕は途切れず
一方、復員兵の戦争トラウマの影響が2世・3世にも及んでいることが明らかになりつつあります。
「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」も協力したNHKのアンケート調査(8月)によると、兵役経験者902人のうち「心身に何らかの問題があった」と回答したのは約6割。最も多いのは「家族への暴力・虐待」で、その矛先は女性に多く向けられ、男性の約2倍でした。孫世代157人のうち約6割が「自分も心身に何らかの問題があった」と回答。特に「生きづらさ」を抱えています。
同会代表の黒井さんは調査結果から、戦争トラウマの影響を受けているのは全人口の1割前後に上るのではないかと指摘。「戦後80年以上たっても戦争の傷痕は途切れずに続いている。特に暴力の矛先は弱い立場の妻や娘に向かう。戦争トラウマの全国的な実態調査を早急にやるべきだし、それもせずに将来の戦争のためにトラウマ対策をするのはおかしいのではないか」と強調しました。
(写真)南スーダン国連平和維持活動(PKO)から帰国し、任務完了報告をする陸上自衛隊の施設部隊の隊員と、隊員を見守る家族ら=2017年5月27日、青森市
人間らしさ奪う
黒井さんの父・慶次郎さん(1990年に77歳で死去)は20歳で満州に送られ、陸軍軍曹として敗戦を迎えました。快活で働き者でしたが、帰還後は無気力で抜け殻のような人に変わりました。黒井さんは父の死後、ベトナム戦争の帰還兵でPTSDを患った経験を語ってきたアレン・ネルソンさんの映像を見たとき、「父は戦争トラウマだった」と気づきました。
「ネルソンさんも言っているが、兵士は効率的に人を殺せるよう『殺りくの道具』に改造される。それは他者を大事にするという人間らしさを奪うことだ。軍隊の存在は憲法9条に違反するだけでなく人間の生き方と矛盾するものだと思う」と語ります。
黒井さんは2020年、自宅の敷地に「PTSDの日本兵と家族の交流館」(東京都武蔵村山市)を建てました。木造の室内に戦争体験者から聞き取った内容の展示や、父の遺品、関連書籍が並びます。来館者の多くは子ども。取材中も小中学生が訪ねてきて、黒井さんは「パンやお菓子あるよ」と声をかけます。
黒井さんは訴えます。「安保3文書の改定で戦争への道に進むことは許されないし、PTSDを生む戦争をしてはならない。政治家ならば、自衛隊のPTSD対策を考えるよりも先に、戦争を回避する外交を優先すべきではないか」
過去には海外派遣後に自殺
政府は因果関係認めず
過去にも海外派遣された自衛官が精神に不調をきたし、帰還後に自殺している事例は数多くあります。しかし、政府は「因果関係の特定は困難」だとして認めておらず、詳しい実態も明らかにしていません。
米国のアフガニスタン・イラク戦争を受け、2001~10年にインド洋に派遣された自衛官のうち54人が帰還後に自殺。11年から派遣している南スーダン国連平和維持活動(PKO)でも18年までに2人が自殺しましたが、この時から自殺者数を公表せず隠すようになりました。
南スーダンPKOでは激しい戦闘が行われ、自衛隊の宿営地に複数の砲弾が落下するなど危機的な状況でした。内部文書によると、戦闘が激化した16年7月10日以降、「精神・行動障害」で受診する隊員が急増し、派遣隊員の6人に1人が「不眠」を訴えました。別の報告書(16年12月)には「メンタル不調者(抑うつ傾向から自殺)の発生も予想される」と明記し、自殺者が出る危険性を警告しました。
しかし、政府は自衛官の自殺について「(南スーダンPKO業務との)関連性は認められない」と因果関係を否定。一方、海外に派遣した自衛官のPTSDの発症率などの実態を明らかにしていません。米軍はベトナム戦争やイラン・アフガニスタン戦争の帰還兵を調査し、PTSDや、うつ状態の発症率を公表しています。
「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」の黒井秋夫代表は「海外派遣された自衛官がどれほど苦しみ、家庭内への影響があったのか実態も明らかにせず、本人に原因があるかのように扱うのは問題だ」と批判します。

