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2026年8月15日

8・15 終戦81年 歴史に刻む日本共産党の反戦・平和

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(写真)一面の焼け野原となった東京の下町地域(『画報 日本近代の歴史13』から)

 高市内閣のもとで「戦争する国」づくりや9条改憲の動きが強められ、政治も右傾化の流れを強めています。戦争か平和かの歴史的岐路に立っています。戦前、激しい弾圧を受けながらも反戦平和を貫いた日本共産党のたたかいは受け継がれ、今日の情勢のもと重みを増しています。戦前のたたかいを振り返り、日本共産党の反戦のたたかいの意味を考えます。

戦前 侵略戦争に命をかけ反対貫く

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(写真)1931年10月5日付「赤旗(せっき)」

 旧日本軍最後の海軍大将の井上成美(しげよし)氏は終戦後、「いまでも悔まれるのは、共産党を治安維持法で押えつけたことだ。いまのように自由にしておくべきではなかったか。そうすれば戦争が起きなかったのではあるまいか…」(海軍兵学校第71~78期会で構成する「井上成美伝記刊行会」編『井上成美』)と語っています。侵略戦争に命をかけて反対を貫いた日本共産党への弾圧が、侵略戦争の拡大につながったことへの反省の言葉です。

 第1次世界大戦(1914~18年)を経て「総力戦」の時代に入る中、武力戦だけでなく「経済戦」とともに「思想戦」―国民の戦争への動員と戦争反対勢力への弾圧が強まりました。

 日本共産党は22年7月15日、天皇絶対の専制政治に反対し、国民主権の実現、人権保障と国民生活向上、侵略戦争と植民地支配反対の旗のもとに創立されました。当時の治安警察法は、党綱領などを検閲し反体制的な政党の設立を認めないものだったため、日本共産党は非公然組織として出発せざるを得ませんでした。大日本帝国憲法下では、国民の言論・出版・結社の自由は「法律の範囲内」にとどめられ、多くの弾圧法規によって厳しく制限され、反戦運動を広げる条件も限られていました。

 党創立を受け天皇制権力は、25年に治安維持法を制定。「国体を変革することを目的として結社を組織したる者」を処罰するとし、日本共産党を最大の弾圧対象とします。28年には共産党への大弾圧(三・一五事件)を強行した後、天皇の緊急勅令で同法を改定。結社の「指導者」に対する死刑を導入し、「目的遂行罪」を創設して協力者を広く処罰の対象にしました。特別高等警察(特高)という専門の弾圧組織の網の目を全国に張り巡らし、革命運動、民主運動を根こそぎ破壊する体制を敷きました。

 党は28年2月、「赤旗(せっき)」を創刊。非合法活動の中で激しい弾圧を受けながら党の主張を国民に明らかにしてたたかいました。党に参加した女性活動家の不屈の闘争も党史に銘記されています。31年、「満州事変」によって中国東北部への侵略が強まると、党への弾圧は激しさを増し、33年には小林多喜二が拷問の末虐殺されるなど多くの犠牲者が出ます。37年に全面侵略が開始されると、一貫して侵略戦争推進だった民政党、政友会はもちろん、社会大衆党も侵略戦争を支持。40年10月には日本共産党以外のすべての政党は解散し大政翼賛会に合流しました。

 共産党の中央組織は相次ぐ弾圧で壊滅的打撃を受け、指導部にいた市川正一や宮本顕治なども次々と検挙・投獄されました。市川や宮本らは非転向を貫き、天皇制権力の暴虐の不当性を明らかにする主張、弁論を最後まで続けました。それは新しい時代の到来を準備する活動でもありました。

 戦後、「九条の会」呼びかけ人も務めた評論家の鶴見俊輔氏は、『現代日本の思想』(56年)で「すべての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動してあるく中で、日本共産党だけは、創立以来、動かぬ一点を守りつづけてきた。それは北斗七星のように、それを見ることによって、自分がどのていど時勢に流されたか、自分がどれほど駄目な人間になってしまったかを計ることのできる尺度として、一九二六年(昭和元年)から一九四五年(昭和二〇年)まで、日本の知識人によって用いられてきた」と書きました。また、同会呼びかけ人の一人で評論家の加藤周一氏は、戦中、12年間の投獄生活を非転向で貫いた宮本顕治元共産党議長の逝去を受け、「宮本さんは反戦によって日本人の名誉を救った」とする談話を「赤旗」に寄せました。

 いずれも歴史に刻まれた日本共産党の戦前史のかけがえのない意義を示すものです。日本共産党の侵略戦争反対、絶対主義的天皇制反対の不屈の闘争は、日本国憲法の国民主権、人権保障、恒久平和などに結実しました。

戦後 「戦争する国」一貫して反対

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(写真)国会を取り囲み、戦争法案廃案、安倍首相退陣を求めてコールする人たち=2015年8月30日、国会正門前

 戦後日本は、徹底した平和主義、国民主権、基本的人権の尊重を大原則とする日本国憲法のもと歩みを始めます。戦前非合法だった日本共産党が公然と活動を始めるなど、平和を実現する条件は根本的に整ったはずでした。

 ところが憲法施行後1年もたたないうちに、米国は、日本を対ソ連・中国の「反共の防波堤」にするため、9条改憲の方針を日本に押しつけ、日本の再軍備と基地国家化を進め、新たな戦争の火種となりました。

 1950年6月の朝鮮戦争勃発に伴い、自衛隊の前身「警察予備隊」が占領軍の指示で創設され、52年には保安隊、54年に自衛隊となり、日本の再軍備が進行します。51年締結の旧日米安保条約は、日本全国どこにでも米軍基地を置くことができる「全土基地方式」を押し付けるものでした。

 80年代に入ると、安保条約反対・自衛隊違憲の立場をとってきた社会党は、共産党を排除し、安保条約を容認する「社公合意」を公明党と締結。自民党をはじめ主要政党による安保容認・共産党排除の「オール与党体制」がつくられました。この体制のもとで、安保条約廃棄と9条完全実施の旗を掲げ、戦争への協力を拒否するたたかいを貫いてきたのが日本共産党です。

 90年代に入ると、自衛隊の海外派兵を求める米国の圧力が強まり、92年に「国連平和維持活動協力法」(PKO法)、99年には日米新ガイドライン(軍事協力の指針)に基づく「周辺事態法」が強行されました。さらに2001年の同時多発テロを受けた米国が「対テロ戦争」として始めたアフガニスタン戦争(01年~)やイラク戦争(03年~)に伴い、自衛隊の海外派兵が本格化。14年には第2次安倍政権が海外での武力行使を可能とする「集団的自衛権」の行使容認を閣議決定し、翌年にはこの閣議決定に基づく安保法制=戦争法の成立を強行しました。

 日本共産党はいずれの海外派兵立法にも断固として反対を貫きました。15年の安保法制反対のたたかいの中で「野党は共闘」の声が広がるもと、安保法制反対の国民のたたかいをさらに発展させるため、安保法制廃止と立憲主義回復の一点で一致する「国民連合政府」を提唱。市民と野党の共闘を呼びかけました。

 22年になると岸田政権が、安保法制を軍事面で具体化する安保3文書の制定を強行し、専守防衛の立場から歴代政権が違憲としてきた敵基地攻撃能力の保有や、軍事費の2倍化を明記。これに基づき、外国の領土を攻撃可能な長射程ミサイルの配備が日本全土で進んでいます。

 25年に成立した高市政権は、日本の国是である「武器輸出禁止」原則を撤廃し、国民監視を強める国家情報局を発足させ、国旗損壊処罰法まで強行。「戦争する国づくり」は民主主義と人権の破壊と一体で進んでいます。26年内に予定している安保3文書の改定で、「国是」の非核三原則を見直す可能性も示唆し、仕上げに海外での無制限の武力行使を可能とする憲法9条の改悪を狙っています。

 いま高市政権は、改憲・大軍拡をより露骨に打ち出す日本維新の会と連立を組み、国民民主党や参政党とも連携を深めています。こうした政治の右傾化の流れが「戦争する国づくり」を加速する大きな支えともなっています。

 政治の右傾化、翼賛化の流れが強まるなかで、日本共産党は戦争する国づくりや改憲の動きに断固反対を貫いてきました。いま「憲法を真ん中にすえた共同」を掲げ、国会前など全国に広がるペンライトデモなどで市民との共闘を広げようと全力をあげています。

 日本共産党は創立以来104年、戦争か平和かが問われたどんな時代でも、戦争を止め平和をつくるために行動してきました。いま、戦争か平和か、日本が大きな岐路に直面しているもとで、「戦争する国づくり」に断固として立ち向かう日本共産党を強く大きくすることこそ、かつての悲惨な道に日本が逆戻りすることを防ぎ、平和への展望を切り開く最大の力となります。

加害責任を問い直す

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(写真)1942年の水没事故で強制徴用された朝鮮人労働者ら183人が死亡した山口県宇部市の旧長生炭鉱=2025年4月1日

 戦前の日本は帝国主義・植民地主義に固執し、支配下の人々を抑圧し、その尊厳と生命を奪いました。アジア・太平洋地域全体で2000万人以上の人命を奪った15年に及ぶ侵略戦争は、日本軍国主義の暴走の帰結です。敗戦から81年、過去の軍国主義を肯定・美化し、再び日本を戦争国家にしようとする動きが強まっています。侵略戦争と植民地支配の反省の上に、アジア各国との友好・信頼関係をつくっていくことこそが求められています。

韓国併合、満州事変

 1868年の「明治維新」後、天皇制政府は直ちに侵略と植民地支配に着手します。74年の台湾出兵を契機に、75年の江華島事件、94年の日清戦争、1904年の日露戦争を経て、台湾や遼東半島の一部(旅順・大連など)を占領しました。

 05年には伊藤博文を初代統監とする韓国統監府を設置し、10年に「韓国併合条約」を押しつけ、朝鮮半島を完全に植民地化します。以後、45年の日本敗戦まで朝鮮半島への植民地支配を続け、労働力を補うための「徴用工」や、旧日本軍による「慰安婦」の強制徴用などを実行しました。

 31年には中国東北部に駐留していた関東軍が「満州事変」を引き起こし、32年に傀儡(かいらい)国家「満州国」を建国。37年には盧溝橋事件を口実に中国への全面侵略戦争に乗り出します。同年12月に引き起こした南京大虐殺事件では、捕虜や一般市民など十数万人から20万人以上の犠牲者を出したとされています。他の占領地でも、日本軍は焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす「三光作戦」を展開。残虐行為が横行しました。

日米開戦、アジア侵略

 こうした恐怖支配に対して中国側の抵抗が強まり、日中戦争は行き詰まります。その打開を狙って日本政府は40年、ドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を締結します。

 日本の対外膨張政策に対し、米国は対日石油禁輸を実行。日本は41年12月8日、米ハワイ真珠湾への奇襲攻撃を強行し、太平洋戦争に突入します。同時に東南アジアへの侵略を進め、インドネシアではスマトラ鉄道建設のため、現地住民を「労務者(ロームシャ)」として強制動員し、多数の死者を出しました。

 太平洋戦争で日本は緒戦こそ有利に進めたものの、42年以降は米国の軍事力に圧倒され、後退を繰り返していきます。44年からは日本本土への空襲が始まり、45年3月の東京大空襲をはじめ全国各地で多くの民間人が犠牲になり、同年8月には広島・長崎への原爆投下で、その年のうちに21万人以上が死亡しています。

 さらに、日本本土への侵攻を遅らせるための「捨て石」にされた沖縄では、45年4月からの沖縄戦で住民の4人に1人が死亡。日本軍による「集団自決」の強要で、家族や住民同士が殺し合う惨状が繰り広げられました。日本は同年8月15日に連合国の降伏勧告を受け入れ終戦を迎えます。

被害者の名誉・尊厳を

 「満州事変」から15年にわたる侵略戦争は、2000万人以上のアジア諸国民と310万人以上の日本国民の命を奪いました。いま求められているのは、過去の侵略戦争と植民地支配に対する責任を明確にし、真剣な謝罪へと踏み出し、アジア各国との真の友好を確立することです。

 とりわけ、朝鮮半島の植民地支配で起きた「徴用工」や「慰安婦」問題は未解決のままです。補償はもとより、侵略戦争の過ちを認め明確な謝罪を行い、被害者の名誉と尊厳を回復することが、真に「未来志向」の日韓関係を構築する上で不可欠な土台となります。

 日本国民も甚大な戦争被害を受けました。政府は機械的な線引きをせず、被爆者認定を迅速に進め、「受忍論」を取り下げ、空襲などすべての戦争被害者への補償を行うべきです。

いま民主政治取り戻すために

山口大名誉教授(日本近現代政治史) 纐纈(こうけつ)厚さん

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 高市首相は「厳しさを増すアジアの安全保障環境に備えるため、日本は継戦力の強化向上が必要だ」と繰り返し発言しています。戦争の帰趨(きすう)は、「機動力・打撃力・継戦力」の3要素の充実度によって決すると言われています。この3要素のなかでも長期戦を勝ち抜く継戦力の強化には、平時から国力を戦争に集中するために国内政治経済の改編が不可欠とされています。さらには、国民の精神・思想まで戦争に動員する対象となります。そのため、国家情報局の創設、国旗損壊処罰法の制定を強行したほか、「スパイ防止法」の制定まで狙っています。最終的には憲法改悪による自衛隊の国防軍化、天皇の元首化です。皇室典範改正問題で男系天皇制に執着する背景には、戦争を担う最高指揮官こそ男性天皇でなければという思惑があるのです。

 日本がアジア地域でアメリカの代替国家として覇権を握ること、そのためには軍事大国化を不可欠とする認識が垣間見えます。それゆえに現在、国民生活を犠牲にし、一部の特権エリートや大企業が富を独占する独裁国家に等しい状況になっていきます。

 最新の『防衛白書』にも示された「新しい戦い方」なる用語を使う高市政権は、正真正銘の“戦争内閣”に堕しているように見えてなりません。

 野党のなかにも安保法制反対の主張を投げ捨てるなど、右傾化・保守化の動きが顕在化しています。

 民主政治の崩壊の一歩手前にある現在の日本政治に正面から異を唱え、崩壊の淵から民主政治を取り戻す覚悟と経験を持つのは、日本共産党だけです。高市政治も、支持率の低下に歯止めがかからなくなっている現状から、段々と行き詰まりを見せてきました。そうした状況を踏まえ、高市政権を終わらせ、あるべき民意に沿った民主政治を取り戻すために、日本共産党を一層押し上げ、幅広い市民との共闘をつくっていかなくてはなりません。日本が戦争政治の深みにはまり込んでしまうのか、それとも未来に希望を抱くことのできる平和社会を獲得できるのか。今年の夏から秋にかけ、その正念場を迎えることになります。

戦前日本の侵略

1874年5月 台湾出兵(~同年10月)
  75年9月 江華島事件
  94年7月 日清戦争(~95年4月)
1904年2月 日露戦争(~05年9月)
  10年8月 韓国併合
  14年9月 日本が第1次世界大戦に参戦
  19年   韓国で三・一独立運動、中国で五・四運動勃発
  31年9月 満州事変(~33年5月)
  33年3月 日本が国際連盟脱退
  37年7月 盧溝橋事件。日中戦争始まる
    12月 南京大虐殺
  39年9月 独、ポーランド侵攻。第2次世界大戦始まる
  40年9月 日独伊三国軍事同盟
  41年12月 日本軍マレー半島上陸・真珠湾攻撃。太平洋戦争始まる
  42年6月 ミッドウェー海戦で日本軍大敗北
  43年12月 カイロ宣言
  45年3月 東京大空襲。全国各地に大規模空襲
     4月 沖縄戦(~同年6月)
     7月 ポツダム宣言
     8月 広島・長崎に原爆投下。ポツダム宣言受諾。敗戦
     9月 日本政府が降伏文書に調印