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2026年7月2日

イチからわかる憲法9条

第2部 安保との攻防(2)明文改憲
挫折を繰り返し断念

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(写真)安保条約締結に反対し、国会を包囲する人たち=1960年6月18日

 警察予備隊→保安隊→自衛隊というなし崩しの再軍備が進行し、憲法9条との矛盾が大きくなるなかで改憲派が台頭しました。しかし9条を改悪するには、まずは衆参両院でそれぞれ総議員数の3分の2以上の賛成で改憲案を発議しなければなりません。その試みは挫折を繰り返しました。

 1954年12月、汚職事件によって倒れた自由党の吉田茂内閣に代わり、民主党の鳩山一郎内閣が誕生。鳩山首相は改憲を主張し、55年2月の衆院選に臨みました。

 結果は、民主党が第1党になるものの、左派社会党が躍進し、労農党、日本共産党も議席を獲得。護憲勢力が改憲発議を阻止できる3分の1の議席を獲得しました。

 この結果に危機感を抱いた米国と財界の強い要請のもと、55年11月、改憲勢力の自由党と民主党が合同して自由民主党(自民党)を結成。結党時の「政綱」で憲法改定と再軍備を掲げました。

 しかし、自民党として初めて挑んだ国政選挙・56年参院選でも、続く58年衆院選でも、自民党は3分の2の議席を獲得できず、またしても、明文改憲への道は閉ざされました。

 こうした状況のもと、岸信介首相は、日米安保条約の改定を改憲の突破口に位置づけます。安保改定は、日米共同作戦を義務づけ、9条との矛盾を拡大するもの。岸首相の狙いは共同作戦の実行のため改憲を進めることでした。この路線を阻んだのが1960年の安保闘争でした。

 国民は歴史的な抗議運動を繰り広げ、数十万人が連日国会を包囲し、最高時には30万人を超えました。

 岸内閣は安保改定を強行するも総辞職に追い込まれました。引き継いだ池田勇人首相は「自民党が3分の2の多数を取ったからと言って直ちに(憲法)改正しない」と表明せざるを得ませんでした。

 こうして自民党は明文改憲をいったん断念。解釈改憲による軍事大国化へと路線を変更したのです。