米軍の方針転換は、日本再軍備にとどまりません。無条件降伏にあたり、日本が受諾した対日降伏勧告(ポツダム宣言)は、日本が主権を回復すれば占領軍は撤退すると明記していました。ところが、米国は「主権回復」後も米軍駐留を継続し、日本を占領下に置くため、サンフランシスコ講和条約とセットで日米安保条約締結を要求。狙いは、日本を「反共の防波堤」として、対米従属下に組み込むことにあります。
1951年9月8日、サ条約締結後、吉田茂首相ただ一人がサンフランシスコ市内にある第6軍司令部集会室に足を運び、安保条約に署名したのです。その内容は、国民にはまったく知らされていませんでした。
安保条約は、世界に類例のない、日本全国どこにでも基地を置くことができるという「全土基地方式」を採用。基地増強のための土地接収が相次ぎ、各地で土地闘争が勃発しました。さらに、講和条約3条で沖縄、奄美群島、小笠原諸島を日本から切り離し、米軍の全面占領下におき、憲法のらち外とされました。沖縄の住民は無権利状態に置かれ、「銃剣とブルドーザー」による強権的な土地強奪や、殺人や性的暴行など米兵の凶悪事件が相次ぎました。
憲法施行の翌年に米軍内で始まっていた日本再軍備と改憲の計画は、日本が安保体制に組み込まれたその時から、より本格化しました。戦争放棄、戦力不保持を定めた9条をなし崩しにする改憲策動です。
54年には“もっぱら自国防衛”のためという理屈を持ち出し、自衛隊を発足させました。ただ、自衛隊法制定にあたって、国民の再軍備への警戒、反発をうけ参院は「国民の熾烈(しれつ)なる平和愛好精神に照し、(自衛隊の)海外出動はこれを行わない」とする「自衛隊の海外出動を為(な)さざることに関する決議」(同年6月2日)を採択せざるをえませんでした。

