沖縄はきょう23日、「慰霊の日」を迎えます。
81年前、沖縄では住民を巻き込んだ凄絶(せいぜつ)な地上戦が繰り広げられ、数多くの尊い命、財産、文化的遺産が失われました。そうした歴史に鑑み、県が条例で「戦争による惨禍が再び起こることのないよう恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰める」ために定めました。
沖縄戦最後の激戦地・本島南部の糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園ではきょう、県と県議会が主催する「沖縄全戦没者追悼式」が開かれます。
太平洋戦争が終わる1945年、沖縄では、日米両軍による熾烈(しれつ)な戦闘が3カ月にわたり続きました。その激しさは、勝利した米軍をして「ありったけの地獄を集めた」と言わしめました。
米軍が物量作戦をもってした無差別の空襲と艦砲射撃は島の風景を一変させ、「鉄の暴風」と呼ばれました。
■ありったけの地獄
沖縄戦での県民の死者は、一般住民9万4千人、軍人・軍属2万8228人で、合わせて12万2千人以上に上り、県民の4人に1人が犠牲になったとされます。このほか沖縄県出身以外の日本兵6万5908人、米兵1万2520人が命を落としました。(県援護課発表、76年)
沖縄戦は、本土決戦準備の時間稼ぎと米軍戦力の消耗を目的にしていました。沖縄は「国体(天皇制)護持」のための捨て石とされました。
45年4月1日に沖縄本島中部の西海岸に上陸した米軍の主力部隊は、日本軍(第32軍)司令部がある首里に向かって南へ侵攻します。5月下旬、首里陥落が迫る中、第32軍司令部は持久戦のため本島南部に撤退します。このため、すでに多数の住民が避難していた南部一帯は軍民入り乱れた悲惨極まる戦場となり、犠牲者は拡大しました。
住民は、米軍の激しい攻撃にさらされた上、日本兵による壕(ごう)追い出しや食糧強奪、乳幼児を含む住民虐殺、集団死の強制(集団自決)などの犠牲になりました。「軍隊は住民を守らない」と広く語られるゆえんです。
第32軍の牛島満司令官は6月23日に摩文仁の司令部壕で自決し、組織的な戦闘は終結します。しかし、その後も日本兵の抵抗は続き、南西諸島の日本軍代表が降伏文書に署名したのは9月7日でした。
■戦争準備を許すな
“沖縄のこころ”という言葉があります。
それは「人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心」とされます(沖縄県平和祈念資料館「設立理念」)。沖縄戦の体験こそがその原点です。
高市早苗政権は沖縄をはじめ南西諸島で自衛隊の増強、日米共同作戦態勢の強化を進めています。これらの島々が戦場になるのを想定し本土への避難計画までつくられています。「沖縄戦の悲劇を再び繰り返すな」の声が県民から上がっているのは当然です。
“沖縄のこころ”を踏みにじる高市政権の「戦争国家づくり」を許さない運動と世論を大きくしていくことが必要です。

